※本稿は、青山誠『大関 和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
■明治の「妾」はオフィシャルな存在
当時は金と地位のある者が妾をもつのは普通のことで、世間から後ろ指をさされるようなことはなかった。むしろ“男の甲斐性”として自慢になったりもする。明治3年(1870)12月に制定された刑法典の新律綱領でも「妻と妾を同等の二等親」として妾の存在を公認していた。
また、かつての大名や藩の重臣の正妻には、子を多く産みそうな健康な娘を探して側室や妾にするよう夫に勧める者もいた。多くの子宝を得て家の安泰をはかるのは妻の務めと考えている。妾に嫉妬として目くじら立てるのはみっともない。と、維新後も上流階級の女性にはそういった意識が根強かったという。
夫の福之進からすれば妾を認めないチカのほうが非常識に映る。だから、そんなことに声を荒らげて怒っているのを人が知れば「お前が恥をかくだけだぞ」ということなのだ。福之進は、チカの嫉妬を世間知らずの非常識だと思っている。まだ若いだけに仕方がない、そのうち分別がついてくれば納得してなにも言わなくなるだろう。
チカも当時の世間の“常識”を知らないわけではない。しかし、たとえ常識であっても嫌なものは嫌、男たちが妻の他に妾を囲うことがどうしても許せない。地位のある男たちのなかにも、側室や妾を持たない者は大勢いる。弾右衛門(だんえもん)がそうだったのかもしれない。人は自分が見てきたものを“普通”だと思うものだ。実父母の夫婦生活を見て育ったチカにとっては、夫は妾を持たず妻ひとりだけを愛する一夫一婦制こそが正しく、それが“普通の夫婦”なのだろう。
■チカは愛人の存在に納得せず…
福之進はチカの性格を見誤っていた。いや、最初から妻の性格に興味がなく、どうでもよいと思っていたのだろうか。家柄が良く美人の娘、世間体は申し分ない。それだけで十分。どんな性格であろうが、結婚すれば自分のやる事に文句を言わず従ってくれるはず。
「いくつになっても聞き分けがない女だ」
結婚して間もない頃は、若い妻の嫉妬(しっと)を可愛いと思ったりすることもあったが、やがて、辟易(へきえき)とするようになる。いまはもう面倒臭くて仕方がない。そのため家を留守にして妾宅で過ごす時間が増えていた。
■第2子を産むときは「里帰り」
明治13年(1880)には長女の心(しん)が生まれた。チカは実家に帰って出産することを望み、福之進もそれに反対しない。
この頃には夫婦仲がすっかり冷めていた。しかし、福之進には元家老の娘を妻にしていることにメリットがある。
福之進はいまだにチカの性格を理解していない。彼女は生きることには不器用だ。
我慢の限界に達すれば、損得や世間体など一切気にせず大胆な行動にでる。
「夫の家には二度と帰らない」
実家に戻ったときにはもう、福之進を見限って離縁を決意していた。
社会不安の中、新たな船出は始まった
弾右衛門の死後、大関家はチカの弟である長男・復彦(ふくひこ)が相続していた。彼は後に家を捨て上京して行方不明になってしまうのだが、明治15年(1882)頃までは「大関復彦」の名義で黒羽城下に屋敷が健在だったことが確認できる。チカが帰った“実家”もそこだと思われるのだが、じつは、それには諸説がある。
■チカの実家は栃木か、東京か?
たとえば『近代史のおんな』(村上信彦著、大和書房)によると、弾右衛門は家老辞職後すぐ一家を連れて上京し、チカも年頃になるまで東京で育ったとされている。
福之進との結婚が決まるとチカだけが黒羽に行って嫁ぎ、一家はその後も東京に住みつづけ、チカが六郎を連れて里帰りした実母テツが住む“実家”も東京だったという。
“実家”は東京だったとする説に沿って書かれた伝記や文献は他にも見かける。しかし、弾右衛門は家老辞職後も結局は黒羽藩に残った。家老から家知事という閑職に追いやられながらも、版籍奉還時までずっと黒羽藩士だった。維新後も黒羽から近い白河県職員として雇用されて働いた。母のテツも黒羽の隣にある烏山(からすやま)の出身で、東京は見ず知らずの土地である。また、弾右衛門は死後に黒羽で葬られてもいる。これらの事から考えると、一家が東京に住んでいたとは思えないのだが……。
また、当時の“実家”は黒羽にありチカもここで長女を出産し、福之進との離縁が成立した後に母や妹たちと一緒に上京したとする文献も存在する。こちらのほうが、しっくりとくる。
■明治12年「コレラ禍」が発生
黒羽と東京のどちらに住んでいたのか? それに関する一次資料は見つからず、はっきりとしたことはわからない。
明治12年(1879)には西日本でコレラが発生し、その後、感染が全国に広がってゆく。同年の患者数は16万人に達し、年が明けてからも収束しない。当時の致死率は60~70%と極めて高く、発症すると2~3日でころりと死んでしまうことから人々は「コロリ」と呼んで恐れた。寺社祭礼など人が集まる行事は一切禁止となり、道路や路地の通行を遮断して人流をコントロールする措置がおこなわれる。
栃木県で初の患者が発生したのは明治12年8月のことだった。東京からの荷物を運んで鬼怒川を遡上していた川舟の船頭や同乗者にコレラの症状が現れる。やがて船頭らが休息した茶屋の娘にも感染し、その後、街道を伝って県内各地に広がった。感染者数は784人と東京などの大都市に比べたら少なかったが、コレラの恐怖に人々は大混乱。製糸工場は女子労働者たちが感染を恐れて出勤せず操業停止に追い込まれる。
■チカが妊娠中のパンデミック
お祓いや祈禱が流行し、特効薬と称する怪しい薬を売り歩く輩(やから)も現れた。
水陸交通の要衝だった黒羽では、宿場町や河岸に各地から多くの人々が集まってくる。
現代でも新型コロナウィルスのパンデミックが起きたときには、多くの地域が医療崩壊の危機的状況に陥った。病気に罹っても診察を受けるのが難しく、とくに、妊娠中の女性は院内感染の危険もあり受診が難しかったと聞く。自身も感染の恐怖に怯えながら、お腹の子も守らねばならない。一般人以上に、様々な苦労を強いられ不安に苛(さいな)まれたようだった。当時のチカもまた妊婦という弱い立場でパンデミックを経験し、色々と考えさせられることは多かっただろう。それもまた、彼女が医療や看護に興味を抱くきっかけのひとつになったのかもしれない。
■チカは娘を産み、離婚を決意
明治13年(1880)には長女・心を無事に出産。コレラ騒ぎはまだ収束しない時期だったが、これでひとまずは安心。産後の体力が回復すると、チカはさっそく行動を起こした。福之進に離婚を申し入れたのである。
明治6年(1873)に裁判離婚制度が導入されて、妻の離婚請求権が法的に認められていた。夫が離婚に応じなければ、妻は裁判所に提訴することができる。裁判になったりすると離婚するよりもっと世間体が悪いのだが、しかし、チカならそれもやりかねない。この頃になると福之進もやっと、自分の妻の気性がわかってきたようである。
■離婚成立も、長男の親権は夫に
ここは自分が引き下がるしかないと、彼は離婚に応じることにした。しかし、六郎の親権を手放す気はなかった。明治時代の民法では「子は其家に在る父の親権に服す」と定められ、母親が親権者となることは原則的には認められない。離婚した母親が子どもの親権を持つことは難しい。
六郎は大切な嫡男だけに、福之進は自分の手で育てたいと思っていた。親権者の権利を主張すれば取り上げることは可能なのだが、まだ3歳の幼児を無理やりに母親から引き離すというのも忍びなかったのだろうか。彼は権利の行使を控えて、離婚後も六郎はチカのもとで育てられることになる。こうして考えると、この元夫は意外と話のわかるいいヤツなのではないか、そんなふうにも思えてくる。
彼の妾のなかには戊辰戦争で夫を失った戦争寡婦(かふ)もいる。イスラム教が一夫多妻制を認めたのは、戦争寡婦の救済や保護が目的だったという。福祉制度が未整備だった当時の日本でも、富裕な男たちが妾を囲うのはそういった一面があった。福之進が妾として養ってやらなければ、遊女となり体を売るしかない状況に追い詰められる女性もいただろう。そんな事情も知らずに妾との関係を断つよう執拗(しつよう)に要求してくるチカが、彼には「自分のことしか考えていない、ワガママで世間知らずのお嬢様」と映っていたのかもしれない。
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青山 誠(あおやま・まこと)
作家
大阪芸術大学卒業。近・現代史を中心に歴史エッセイやルポルタージュを手がける。著書に『ウソみたいだけど本当にあった歴史雑学』(彩図社)、『牧野富太郎~雑草という草はない~日本植物学の父』(角川文庫)などがある。
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(作家 青山 誠)

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