雅子さまは皇太子妃時代に適応障害と診断され、長期にわたって療養を続けた。その背景には何があったのか。
共同通信社会部編集委員の大木賢一さんは「天皇家という“家業”を継ぐなかでの世代間の対立があった」という――。(第1回)
※本稿は、大木賢一『「平成の天皇家」と「令和の天皇家」』(講談社)の一部を再編集したものです。
■“前例”に阻まれた雅子さまのメッセージ
「人格否定発言」より後のことになるが、療養中の雅子皇太子妃が、ある国際会議にビデオメッセージを寄せる話が持ち上がった。撮影の段取りにまで話は進んだが、なぜか突然取りやめになった。雅子皇太子妃はその事情について多くを語らなかったが、当時の東宮職幹部に「とにかく、あの話は駄目になりました」と悲しそうな顔を見せたという。
この話を聞いた私の脳裏にすぐに思い浮かんだのは、美智子皇后のことだった。1998(平成10)年9月、美智子皇后はインドで開かれた国際児童図書評議会(IBBY)世界大会にビデオ映像を寄せ「子供時代の読書の思い出」と題する基調講演を行っている。
「皇太子妃によるビデオメッセージ」が実現すれば、この美智子皇后によるよく知られた逸話と、印象が大きく似通ってしまう。それを嫌う意向が働き、雅子皇太子妃のメッセージは取りやめになったのだろう。少なくとも、この東宮職幹部は、そのように理解していた。
そうであるならば、これもまた、新しい未来への努力を結果として無にされてしまった実例の1つではあると思う。
■自分らしい仕事を与えられない苦悩
また、別の証言者によると、これだけでなく、雅子皇太子妃は、新しい公務以前の「すでにある仕事」の中で、自分がふさわしいと思って当然のようなことでも自分のもとには回ってこないという経験を何度も繰り返していたという。
それは海外訪問に限らず、国内の公務でもそうだった。
雅子皇太子妃は皇室入りに当たって、自分ができるであろうさまざまなことに夢を膨らませたと推測できることは、第4章で見た通りだ。そこでも詳しく書いたが、それは決して世間がいささかの悪意をもって想像したような、皇族としてできもしない夢物語へのわがままな空想などではなかったと思う。
妊娠と出産への配慮なのかもしれないが、国内での日常的な仕事ですら、これこそは自分が、とやりがいを感じられるものは回ってこない。そうして、当然得られたであろう生き方を次々と絶たれていくことは、それまでの人生を否定されることであり、キャリアや経歴を否定されることである。
「すでにある仕事」が回ってこない以上、自分たちがやりがいを感じられる自分らしい行いは、自分たちで新たにつくるしかない。徳仁皇太子があれほど「時代に即した新しい公務」を主張し続けた理由はそこにあるのではないか。それを作り出さない限り、妻が自分らしく、健康であることができない。
■許されなかった外国訪問
しかし、その新しい公務が何を指すのか、皇太子の立場では明言することができなかった。その理由は、先に述べたように、健在である天皇と皇后に対する気兼ねである。胸に描くあるべき公務の姿を明らかにすれば、それ以外の、明仁天皇と美智子皇后が取り組んできたような「すでにある仕事」を否定しているともとらえられかねない。
それはまた、「お手振り」や「お声がけ」などを主とする多くの「すでにある仕事」を求めてきた行事の主催者たちを傷つけることにもなりかねない。

だがそれでも、平成の世で定着しつつある天皇と皇后の在り方は絶対ではなく、次の時代を皇室が生きていくためには新たに手を付けなければならない仕事がある。徳仁皇太子はそう考えていたのではないだろうか。
皇太子の言う「人格を否定するような動き」には、明仁天皇夫妻自身が関与しているのではないかという言説は当初から存在した。関連して、1つ指摘しておきたいことがある。
徳仁皇太子は「人格否定」を告発した記者会見の中で、雅子皇太子妃が国際親善を重要な役目と思いながらも「外国訪問をなかなか許されなかった」と述べている。この「許されなかった」とはどういうことなのか。一体誰が許さなかったのか。当時の雑誌や新聞を読み返しても、この点の疑問を指摘するような記事は見当たらなかった。
■「許さなかった」の主語は、一体誰か
言うまでもなく、皇太子夫妻の外国訪問は政府が決めることであり、夫妻はその決定に従うしかない。したがって「許す」という言葉の主語は政府や内閣であるとも考えられるが、その場合果たして皇太子が「私たちは許されなかった」などという強い表現をするものだろうか。
政府に従うしかない皇太子の立ち位置を考えると、それはきわめて不自然なことのように思える。まるで政府の決定をなじっているようにも感じられてしまうからだ。

とすると、「許さなかった」の主語は、一体誰になるだろうか。
「許されなかった」というからには、皇太子夫妻としては自分たちが行くのが適格であると思えるような外国訪問がすでに案件として存在していたのに、それを夫妻が行うことが阻止された事例が存在した、と考えるのが自然だろう。
端的に言うと、皇太子と皇太子妃に対して、その外国訪問はよいとかよくないとか、行動を「許可」したり「禁止」したり「許し」たりできるような人物というのは、天皇と皇后しかいないと思う。
■徳仁さまが「人格否定」発言に踏み切った真意
繰り返しになるが、徳仁皇太子は自らの発言を追加説明する文書の中で、発言以来「外国訪問ができないこと」と「お世継ぎ問題」に「過度に注目が集まっている」と指摘する一方で、「もちろんそれだけではなく」と述べている。
「それだけではなく」と言うからには、外国訪問ができなかった、許されなかったことも、環境適応の課題であり、人格否定の要素だったことを認めていることになる。「許さなかった」当事者が明仁天皇と美智子皇后だったとするならば、「人格を否定するような動き」の当事者の中に、やはり明仁天皇と美智子皇后も含まれることになる。
これは、言葉だけを分析した推論であるのはもちろんだが、徳仁皇太子は最初から、「人格否定」の当事者として天皇と皇后を暗に示そうとしていたのではないかと、私には思える。
「人格を否定するような動きがあった」というショッキングな発言をする以前に、「許されなかった」という、皇太子らしからぬ表現をしていることにも、強い意思と覚悟が込められているように見える。天皇と皇后を暗に示すからこそ、意を決して発する意味があったとも考えられる。
■明仁天皇「まだ私に十分に理解しきれぬ」
このことに関連して、私は明仁天皇自身と秋篠宮の当時の発言の中にも、それをうかがわせる表現が含まれていると感じている。「人格否定発言」を受けて、明仁天皇はその年の自分の誕生日の文書回答で、こう述べた。「その後、何回か皇太子からも話を聞いたのですが、まだ私に十分に理解しきれぬところがあり、こうした段階での細かい言及は控えたいと思います」
言葉の印象だけを論じることが強い批判を受けることは覚悟の上で指摘するが、私はこの言葉に、一種の「当事者性」のようなものを感じずにはいられない。
「当の私自身にもまだ理解できない」というニュアンスである。
秋篠宮の言葉を見ると、その感覚はさらに増幅される。秋篠宮は同じ年の自分の記者会見でこのように話した。「少なくとも記者会見という場所において発言する前に、せめて陛下とその内容について話をして、その上での話であるべきではなかったかと思っております」「せめて陛下と」という部分に、やはり明仁天皇の「当事者性」を感じる。
「せめて当人には事前に話を」というニュアンスである。「せめて」とは「最低限」という意味であり、「最低限」でなければ誰に話しておくべきだったというのだろうか。
■宮内庁幹部「ストレス因子は天皇と皇后そのもの」
話が飛んでしまうが、私には、雅子皇太子妃の不調と明仁天皇夫妻の関連性という点で、無視できない証言を得た経験がある。
「人格否定発言」からは数年後のことだったが、私は雅子皇太子妃の詳しい病状を知りうる立場にいた東宮職幹部に、病気から回復しない雅子皇太子妃の抱えるストレスの因子とは結局何なのかとしつこく問うたことがある。重い口をなかなか開こうとしないまま2年が過ぎ、ついに私は「ストレス因子は天皇と皇后そのものである」との証言を引き出した。
もちろん、この人物の見立てが正しいのかどうかは断定できない。
だが、状況が符合する点はいくつもある。雅子皇太子妃の診断名である「適応障害」は医学的に「6カ月を超えて続くことはない」と定義されていて、6カ月どころか何年たっても完治しないことを疑問視し、「本当は鬱病ではないのか」とささやく記者も多かった。

しかし、適応障害は正確には「ストレス因子が消失または軽減した後、通常6カ月以内に症状が改善する」のであって、ストレス因子が変わらず存在する限り、何年でも続くのだ。そういう説明を、私は何人もの精神科医から受けた。
■美智子さまが漏らした“小言”
「人格否定発言」直前の頃、雅子皇太子妃は美智子皇后から毎日のように「皇太子妃の在り方」のようなことについて話を聞かされていたという。現在では、明仁天皇が明仁上皇に、美智子皇后が美智子上皇后になり、徳仁皇太子が即位して皇室ナンバーワンになると共に雅子皇太子妃自身も皇后となったのだから、その関係性は大いに変わり、ストレスの内容も変化したと考えるべきだろう。
しかし、その一方で変わらぬ関係性もある。私が聞いたところでは、ごく最近のインドネシア訪問(2023〈令和5〉年6月)に至っても、帰国した雅子皇后に対し、美智子上皇后は「陛下(徳仁天皇)より目立っていた。皇后としてふさわしくない」と小言を言ったそうである。
ここまで、「人格否定発言」が告発、あるいは牽制しようとした「人格を否定するような動き」の具体的な中身について、発言の詳細やいくつかの証言をもとに考察してきた。その結論は、出産圧力や外国訪問の制限といった個別の問題とともに、明仁天皇夫妻との関係も深く関与するところがあったのではないかということだ。
そして、より根本に位置する問題として、雅子皇太子妃の人間としてのありよう、個人としてのありようが、望ましい形で発揮できていない現状に対する危機意識があったのではないかと私は考えている。
■“世襲”を受け継ぐ価値観の相違
そこには、「公務」という言葉よりも広い意味での、皇族としての行い、皇族の果たすべき「役割」に関する、明仁天皇夫妻との価値観の違いが横たわっていたように思える。この時点で平成も16年となり、天皇夫妻が築き上げた「平成流」の天皇像、皇室像はゆるぎないものになりつつあった。

そのことの重みを知りつつも、自分たちらしさを発揮できる皇室の役割を築きたい。皇太子と皇太子妃という、比較的自由な立場にあるうちに、その道筋をつけたい。そんな思いだったのではないか。
老境に達した70代の夫婦と、40代の息子夫婦。「世襲」の制度から免れることのできぬ2組の夫婦の間に、いわば「家業」をめぐる価値観と方針の相違が存在したことは、世間一般の常識から見て、至極当然のことだったと言える。
創業者から「家業」を受け継ぐ2代目が、親に反発しながら独自性を発揮しようと懸命になるのはよく聞く話だ。そのことを論じようとするとき、いわゆる「世代論」的な見方も必要になってくると思う。

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大木 賢一(おおき・けんいち)

共同通信社会部編集委員

1967年、東京都生まれ。90年、早稲田大学第一文学部日本史学科を卒業後、共同通信社入社。鳥取支局、秋田支局などに勤務し、大阪府警と警視庁で捜査1課担当。2004年から大阪府警キャップ。06年から08年まで社会部宮内庁担当。大阪支社、東京支社、仙台支社デスクを経て16年から本社社会部編集委員。著書に『皇室番 黒革の手帖』(宝島社新書)、共著に『昭和天皇 最後の侍従日記』(文春新書)、『令和の胎動 天皇代替わり報道の記録』(共同通信社)などがある。

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(共同通信社会部編集委員 大木 賢一)
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