愛子さまが国民を強く惹きつけるのはなぜか。共同通信デジタル編成部編集委員の大木賢一さんは「従来の皇族とは一線を画した、国民と同じ目線で感情を共有する“共鳴力”がある」という――。
(第2回)
※本稿は、大木賢一『「平成の天皇家」と「令和の天皇家」』(講談社)の一部を再編集したものです。
■愛子さまの初めての地方訪問
徳仁天皇夫妻の長女愛子内親王は2021(令和3)年12月に20歳の誕生日を迎え、成年皇族となった。初めての公務参加は翌年正月の「新年祝賀の儀」だったが、学習院大学の学生という立場から公務への参加は当初控え目で、初めての「単独地方公務」として能登(のと)半島地震の被災地訪問が予定されたのは、2024(令和6)年9月のことだった。
しかし、直前に起きた豪雨被害によってこの時の被災地訪問は取りやめになり、代わりに実現したのは、同年10月の佐賀県訪問だった。
初の地方訪問で愛子内親王が人々とどんな会話をして、人々にどんな印象をもたらしたのかを知りたくて、私は翌月佐賀県を訪れ、愛子内親王を案内した方々に話を聞いて回って、その結果をネットで記事にした。
愛子内親王は行く先々で歓迎を受け、会った人々に新鮮な感激と喜びをもたらしたようだったが、私が最も強く心を惹かれたのは、手漉(てす)き和紙体験をした際の、若い職人さんとの会話の内容だった。そこには愛子内親王が「公」として見せる顔とは少し違った「個」としての存在が感じられたような気がしたからだ。
■国民と同じ目線で語りかける
愛子内親王は和紙の工房を訪れて、冷たい水に手を浸し、和紙を漉く体験をした。隣に立って補助役をしたのは25歳の若い女性の職人で、年が近いこともあって会話が弾み、愛子内親王は女性にこんなふうに話しかけたという。
「水の冷たさとか、流れる音とか、紙の感触とか、そういうのが新鮮で心地いいですね」
聞いてみると、女性は「水が冷たくて大変ですね」といった言葉をかけられるのではないかと予想していたらしい。私の経験に照らしても、実際に皇族の言葉とはそういったものが多いし、その意味でこの女性は的確な予想をしていたと思う。
しかし、愛子内親王は、そのようには言わなかった。
相手の苦労をねぎらう代わりに、自分が水に手を浸して感じたことの感想をそのまま述べた。そして、相手の強い共感を得た。これはきわめて「個人的な」行為だったと思う。
女性は「私はここで働くのがすごく楽しいんです。だから、愛子さまにそういうところを分かっていただいて、そうなんです! そうなんです! って、嬉しくなってしまいました。大変さを上回る楽しさとかやりがいを持ってやってるので、大変ですねって言われるよりは、そういう風に言ってもらった方が、そうなんですよっていうふうになってしまいます」と、嬉しそうに話した。
■“寄り添い”よりも喜びを口にする新しさ
大変さに同情して相手をいたわるよりも、自分の中にあるポジティブな喜びの部分を引き出してくれたことに幸せを感じているようだった。
「寄り添い」や「いたわり」を何よりも第一に考える美智子上皇后であれば、この女性の予想通り、「大変ですね」と声をかけたのではないかと私は思う。もちろんそれも大事なことではあるのだろうが、ここで愛子内親王が選んだ言葉は、大げさに言えばこれまでの皇室の在り方に新風を吹き込むふるまいだったようにも感じられる。
なぜなら、個人の感想を語ることは「個」としての行動であり、体験に根差した自分自身の確たる気持ちがなければ為すことができない。国家に成り代わっていたら永遠に口にすることができない。反対に「寄り添い」や「いたわり」は、言葉だけであれば、主体がなくても何とでも言うことができる。

愛子内親王が「いたわり」より先に「喜び」を持ってきたところにも、新味がある。「いたわる」ことは、言ってみれば「上位にある者」からの保護者的な目線であるが、「喜びに共感する」ことは、目線の高さが相手と一致している。
こう考えてみると、やはり美智子皇后や明仁天皇の言葉は、国家という「保護者」が「上位者」として国民をいたわり、励ますことを基本としていたように感じられる。
■大人びた中学生時代の作文
話は変わるが、私は、愛子内親王が学習院女子中等科時代に書いた作文の中にも、同じような「国民と同じ目線」を感じたことがある。広島を訪れ、平和について考えた時のことを、愛子内親王はこう書いたのだ。
「日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから『平和』は始まるのではないだろうか」
天皇や皇后ではないのだから当たり前なのかもしれないが、ここには、皇族として背伸びをしたり、国民の外にある代表者として平和について大きく語ったりしようという気持ちがまったく感じられない。天皇に連なる者でありながら、あるのはあくまで生活者としての謙虚な目線だけだ。「大きく語らない」というのは、父と共通する性質であるようにも感じる。
国民の「上位者」として国民と向き合い、寄り添い、相手を見据えるよりも、むしろ国民と同じ高さで、同じ方向で、同じものを見ようとする。国民の外ではなく国民の中にあろうとする。愛子内親王に感じられたそのような姿勢を、徳仁天皇夫妻が国家との関係性の中で、より鮮明に発揮したことがある。
■天皇夫婦が国歌斉唱で見せた“異例の所作”
即位から間もなかった2019(令和元)年9月のことであり、私は「これこそが、新時代の到来を象徴する出来事ではないか」と興奮したことを覚えている。

その出来事は、秋田市で行われた「全国豊かな海づくり大会」の式典会場で起きた。舞台上のロイヤル席に徳仁天皇夫妻が並んで座り、その背後の壁面の高い位置に日の丸が掲げられていた。この式典では毎年恒例のレイアウトだった。
「国歌斉唱。ご起立願います」とのアナウンスが会場に流れ、会場を埋めた参加者が一斉に立ち上がった。異変はこの時起きた。立ち上がった徳仁天皇夫妻が、示し合わせたようにくるりと後ろを向いて背中を見せたのだ。現地でこの様子を見ていた私は、それまで明仁天皇夫妻が毎年この行事に臨席した際に見せていた姿勢と正反対であることに気が付いた。
帰京してから平成時代の「全国豊かな海づくり大会」の写真を調べてみたが、確認できた限りでは、明仁天皇夫妻は、国歌斉唱の際は正面を向いたままであり、後ろを向いて日の丸を見上げるような動作はなかった。むしろ、日の丸を背負って国民と正面から向き合い、国民の歌う君が代を全身で受け止めるような姿勢で立っていた。
対する徳仁天皇夫妻は、向きを変えて国民と同じ姿勢を取り、一緒に日の丸を見上げて君が代を聴いた。天皇と同じく国家の象徴である日の丸に対し、国民とともに敬意を表しているように見えた。

■日の丸を自分と“同一化”する上皇
考えてみると、明仁天皇夫妻は、ここでもやはり「自分は国家と一体である」という立場を貫いていたのであろう。
君が代の歌詞をどう解釈するかについては意見が分かれるが、1999(平成11)年の国旗・国歌法制定の際、政府は「『君』は日本国および日本国民統合の象徴である天皇」を指し、「歌詞は(天皇を象徴とする)わが国の末永い繁栄と平和を祈念したもの」である、との見解を示している。
君が代の「君」が天皇を指している以上、国民が歌うその歌を、天皇自身は正面を向いて受けとめなければならない――。国家と自分を一体化する明仁天皇夫妻はそのような判断の上に立っていたのだろうと思う。
また、天皇と同じく「日本国」を象徴する「記号」である日の丸は、自分と同格の存在であり、天皇が見上げるべきものではない、との自覚もあったのかもしれない。
2人の天皇の、この姿勢の違いは、ささいなことに見えるかもしれないが、国と天皇との関係性を規定しかねないきわめて重大な変化だと思う。
■「国民目線」にシフトする天皇
徳仁天皇夫妻だけでなく、壇上にいた宮内庁次長、侍従長、女官長も、同時に向きを変えて日の丸を見上げたことを考えると、夫妻の行為は「皇太子時代の慣習のまま、つい振り返ってしまった」などというものではなく、意図的な行為として周囲の者にもあらかじめ知らせた上でのことだったと思う。
その光景を見ていた私は、サッカーやラグビーの「日本代表」たちが、胸に手を当てて君が代を聴くのと同じことをしているのだと感じた。「国家と一体」というよりは、「国民のモデル」として「公」に対して敬意を示しているように見えた。
令和の新しい天皇像がいつ示されるのかと期待していた私は、即位4カ月後に天皇夫妻が見せたこの変化を好意的にとらえた。「国家との一体化」から「国民目線」にシフトしようとする姿は、「個」の確立や多様性を尊重する現代的価値観にマッチするように思えるし、時代に即した新しい天皇像として望ましいのではないかと感じたからだ。
■途絶えた「日の丸振り仰ぎ」
ところが、新天皇が示したはずの、この「国家との向き合い方」は、その後姿を消すことになってしまった。
秋田県で行われた翌年、2020(令和2)年の「全国豊かな海づくり大会」は宮城県での開催が予定されていたが、新型コロナウイルスの感染拡大により延期になった。
1年遅れて翌2021(令和3)年に開催に至ったものの、天皇夫妻はオンラインでの臨席となったため、舞台上のモニターに姿が映し出されただけで、向きを変えるなどする機会はなかった。
翌2022(令和4)年は兵庫県明石市で行われ、徳仁天皇夫妻が臨席したが、この年からなぜか舞台上のレイアウトが変更されてしまい、「舞台上で向きを変える」という現象はまたしても機会を失ってしまった。
レイアウトが変更された結果、日の丸は大会旗などとともに舞台上に立てられることになり、もともと天皇の背後にはないため、夫妻は国歌斉唱の間、立ち上がって前を向いたままでも必然的に日の丸の方に体を向けていることになった。そして私の知る限りでは、その後ずっと、「全国豊かな海づくり大会」は、この変更されたレイアウトのまま行われている。
平成の時代を通じてずっと踏襲されてきたはずの舞台上の配置がなぜ急に変更されたのか、その理由は明らかでない。ことによると、「天皇が日の丸を仰ぎ見る」ことの是非がどこかで論議を呼び、取りやめになったのかもしれない。
■「より国民に近づける」新しい試みを続けてほしい
ちなみに「全国豊かな海づくり大会」以外の「四大行幸啓」である「国民スポーツ大会」「全国植樹祭」「国民文化祭」は、いずれも、もともと式典の舞台上に日の丸はなく、観客席後方などの遠い場所に配置されているため、振り返る必然性がなく、天皇の「日の丸振り仰ぎ」が継続されるのかどうか確認するすべにはならなかった。
ただ、2024(令和6)年の岐阜市での「国民文化祭」の写真を見ると、壇上の徳仁天皇夫妻は体を横に向けるようにして日の丸のある方を見ている。会場の参加者も同じ方向を見ていて、国民と同じ姿勢を取っているのが分かる。
もっとも、こういったレイアウトが出現した際に、明仁天皇夫妻がどういう態度を取っていたのかまでは調べられていない。会場の人々が横を向いて日の丸を見ながら君が代を歌っているのに、壇上の夫妻だけがそれを無視するかのように正面を向いたままだったのかと言われると、それはそれで不自然なようにも思える。

いずれにせよ、徳仁天皇夫妻が一瞬だけ見せた令和の象徴的な変化は、明仁天皇夫妻が培った国家との関係性を覆し、「天皇を国家と分離して、より国民に近づける」新しい試みだった可能性がある。それが、一度だけで姿を消してしまったことは残念である。
夫妻の胸に、自分たちならではの国家との向き合い方があるのならば、これからも堂々と示してほしいと思う。

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大木 賢一(おおき・けんいち)

共同通信デジタル編成部編集委員

1967年、東京都生まれ。90年、早稲田大学第一文学部日本史学科を卒業後、共同通信社入社。鳥取支局、秋田支局などに勤務し、大阪府警と警視庁で捜査1課担当。2004年から大阪府警キャップ。06年から08年まで社会部宮内庁担当。大阪支社、東京支社、仙台支社デスク、本社社会部編集委員を経て、メディアセンターデジタル編成部編集委員。著書に『皇室番 黒革の手帖』(宝島社新書)、共著に『昭和天皇 最後の侍従日記』(文春新書)、『令和の胎動 天皇代替わり報道の記録』(共同通信社)などがある。

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(共同通信デジタル編成部編集委員 大木 賢一)
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