読書量と人格に関係はあるか。『書物を楽しむ あえて今、紙の本を読む理由』(朝日新書)を出した作家の林望さんは「本を読んだからといって偉いこともなく、読まないから駄目だということもない。
人の教養や善悪は、そういう単純なものではない」という――。
■読書量と人格は比例しない
「これは絶対に読まなくてはいけない本だ」というように、読書を人格涵養(かんよう)の必須栄養のように言う人がありますが、正直言って、そうしたことはないというのが私の考え方です。
別に本を読んだからといって偉いこともなく、読まないから駄目だということもない。
人の教養や善悪というものは、そういう単純なものではないのです。学問をした結果、その少々の学を鼻にかけて偉そうにする人間などもたくさんいるから、いわば読書量と人格は比例しないのです。
読書がもし本当に人を偉くするのであれば、大学教授などはみんな人格者でなければならないはずですが、現今の状況を見ていると、不道徳で人格の宜しからぬ大学教授などは掃いて捨てるほどいる、それもまた一つの厳然たる現実です。
ともあれ、読書家を以て自任し、その知識をひけらかして、「君、これ読んだ? あ、読まないの?」とか言って人を軽侮したり脅(おびや)かしたりするような人は、まことに感心しないもので、生半可な読書が、かえって人格を賤(いや)しくしたりもするのです。
だから、「これは人生必読の書」なんていって、万人に共通するものなんかありはしないし、もしそういうことを言う人がいれば、ちょっと眉に唾をつけておいたほうがよろしい。
■「絶対にこの本は読め」は一種の傲慢
よく考えれば、人それぞれの人生のなかで、人ごとにもっとも大切なことがあるはずですね。たとえば、農家であったら、毎年毎年、種を蒔いて立派な稲を作る。そうして、それを30年、50年続けて、家族を養い、人とよく調和して平和に暮し、結果的に無事幸福な一生を送ったという人がいるとすれば、それは充分に立派な人生です。そこでは彼が本を読んだか読まなかったか、なんてことはどうでもよいことです。

つまり、本を読んだからとてすなわち偉くはないし、また本なんか読まなくとも、偉い人は偉いのです。だから、本を読んだから利口になる、あるいは立派な人間になる、というふうには思わないほうがいい。
「絶対にこの本は読め」などと言うのは、一種の傲慢なる意見です。自分が偉いということをこのような形でひけらかしているにすぎないと思うので、あまりさようの人の言うことを信用してはいけません。
結局のところ、「万人すべからく之を読むべし」と推奨する本など存在しない……人間、一人ひとりの性格も違い、生まれた家も人生の巡り合わせも違い、興味の持ち方も違っている。
そうすると、それは十人十色、百人百様ですから、「100人が100人全部がこの本を読まなかったらだめだ」という本は、理論的にはあり得ないと私は思います。
■「必読書」とは流行に過ぎない
戦前の旧制高校なんかでは、「デカルト・カント・ショーペンハウエル」などと言って、それらはみな青年の必読書だと喧伝されていたかもしれないけれども、ではそれらはどこまで役に立ったのかというと、はなはだ疑問です。
いっぽうまた、私たちの学生時代、すなわち昭和3、40年代時分は、「サルトル」「サルトル」とか言って、「実存主義」大流行の時代でした。じっさいサルトルが来日して大学などで講演もしたりして、それはもう盛大なものでした。
私も、流行に脅迫されて多少読んでみましたが、無論原語フランス語では読めないので、日本語訳を読んだのですが、まあ何を言っているのかさっぱり理解できないへんてこな文章でした。
時移って、今では「実存主義」という言葉もさっぱり聞かなくなりました。だから、そういうのは一種の「流行」に過ぎないと私は思います。
同様に、曰く構造主義、曰くポスト構造主義云々と、海の向こうから流行の思想が伝来します。
けれども、それらは私の人生にはまるっきりなんの関わりもありません。
■読書体験とは極私的なもの
明治以来、西洋のほうから来たものを、みな偉いものだと思って崇拝する。崇拝するのも感激するのも自由ですが、たまたまそれを読んだからといって、それゆえ自分は偉いと勘違いして吹聴するってのは、ちっとも感心したことではありません。
それより、各自が一人ひとりの人生の中で、「こういう本を読みたい」と感じた一冊をじっくりと熟読し玩味し、またそこから独自の考察を廻らしなどして、「この本には、いいことが書いてあったな」と思えば、それはその人にとっての、心の血になり肉にもなるのです。
けれども、くれぐれも勘違いしてはいけないのは、そういう読書体験というものは、極私的なもので、他の人にとってはどうでもいい本かもしれない……と、そこをちゃんと自覚しておかなくてはいけないということです。
私の師匠だった森武之助先生は、壮絶なる読書家で、その知識は無双であったけれども、しかし、いつも茫洋とした風情で口数少なく、全くそうしたことを弟子共にも吹聴しない先生でした。あれを読めとかこれを読めなど、ついぞおっしゃらなかった。
けれども、わからないことがあって先生にお尋ねしてみると、およそどんな本でもお読みになっていて、きちんと教えてくださった。この森先生のような方が本当の読書家なのでしょう。
だから、「偉そうに読書を強制する人の言うことは信用するな」と、私は言いたいのです。
■信頼できる書評とは何か
ただ、人によって違うとは思いますが、たまたま考えがとても似ている人がいたとして、その人がおもしろいと言うのだったら、きっと私が読んでもためになるだろうと推論することはあります。

だからといって、「この人が言うから絶対に正しく、良い本だ」とは思わない。そういう程度のこと。けれど、そうした人を知っていると、一つの道標として助けられることはあります。
私にとって、たとえば、丸谷才一さんなどが、そういう方だったと思います。
丸谷さんはもともと英文学者だけれど、晩年は王朝和歌などもっぱら日本の古典文学にも深い興味を寄せてよく勉強しておられました。
■信頼できる読書人の特徴
もう一人、私が本の読み手としては非常に素晴らしいなと思うのは川本三郎さんです。
偏りがなくて、難しい題材でも非常にわかりやすく面白くお書きになりますから、川本さんが書かれた本のなかで紹介されている文献などあると、ついつい古書でなりと取り寄せて読んでみるということになります。
とかく、大学教授なんて肩書きの人が書くと、やたらと気取ったような難解な文体で書いてあったりして、ちっとも読む気にならないことが多い中で、川本三郎さんの興味の持ち方が自分と共通する部分も多く、しかも文章がたおやかで解り易い。
だからこそ私からみて読書人として信頼できる……と感じるのです。現代の作家の中で、最も真摯(しんし)に深く本を読んでおられる方ではないかと思います。

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林 望(はやし・のぞむ)

作家・書誌学者

1949年、東京生まれ。作家。
国文学者。慶應義塾大学大学院博士課程修了。ケンブリッジ大学客員教授、東京藝術大学助教授等を歴任。専門は日本書誌学、国文学。著書に『イギリスはおいしい』『節約の王道』『「時間」の作法』など多数。『謹訳 源氏物語』は源氏物語の完全現代語訳、全10巻既刊9巻。

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(作家・書誌学者 林 望)
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