歴史に名を残すほどの実力があっても、人に教えることに不向きな人物は誰か。歴史家・作家の加来耕三さんは「豊臣秀吉は、信長の様子を見て反面教師とし、成長した。
同じように師匠には決して向かないが大きな功績を上げた高僧、剣豪がいる」という――。
※本稿は、加来耕三『歴史の一流は「師匠」から何を学んだのか』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。
■わかりやすく説明する空海とは正反対
師に向いていない人物とは、簡潔にいえば、師に向いている人の要素を持たない人、あるいは真逆の特徴を持っている人が該当します。
わかりやすく説明してくれる師として空海がいますが、対照的な存在として天台宗の開祖である最澄が挙げられるかもしれません。
真言宗の空海と好敵手(ライバル)関係にあった最澄は、空海と同じ遣唐使船で唐に渡りましたが、二人の階級は雲泥――空海が一留学生であるのに比べ、最澄は現代でいえば文部科学省の政務次官に相当する選良(エリート)でした。
なにしろ最澄は、ときの桓武(かんむ)天皇の信頼も厚く、望まれて唐へ渡った立場にあったのです。しかし、結果として庶民に受け入れられ、広くその教えが伝えられたのは、空海でした。
最澄はエリートであるがゆえに、国家のために――との思いが強く、庶民のために伝えるという意識が薄く、そのため相手の程度に合わせた会話をすることができませんでした。
最澄は自分が学んできたことをひたすら説くだけであり、相手の考えや発言が自分と合わなければ、即座に「それは違う」と否定してしまいます。
すでに存在していた南都仏教に対しても、真正面から論戦を挑み、屈服させていきました。その一方で、自らがわからないところ、とくに密教の奥儀については、しばしば空海を頼っています。
そのため、最初は最澄に学んでいた高弟も、いつしか空海の許へ入門していきました。

■劣等感のなかった信長の弊害
相手の気持ちがわからない、というある種、致命的な欠陥は、織田信長にもありました。
その証拠に、信長は一番信頼していた部下の明智光秀が、限界まで疲弊していることに、まったく気づけませんでした。
信長は劣等感がない人物だったため、常に自分を基準に物事を考え、判断してしまい、大きな仕事を次々に与えることは相手のやりがいになる、としか考えられなくなっていたのです。
これは父である信秀が、短所に目をつぶって教育したことの弊害といえます。
ついにストレスが、我慢の限界を超えた光秀が、「本能寺の変」を起こしてしまったのは、ご存知のとおりです。“三日天下”(実際には11日間)といわれるように、短い天下取りに終わったのは、この事件が計画性のない、突発的に決断されたことを物語っていました。
豊臣秀吉は、こうした信長の様子を見て反面教師とし、成長した人でした。
秀吉は、信長の人の気持ちに寄り添えない態度や、あまりに容赦のないやり方を見て、自分は同じ轍(てつ)は踏まないように、と常日頃から考えていたのです。
信長は逆らう人間を一族郎党まで皆殺しにし、ときには降伏した相手さえも許さず、討ち滅ぼして天下統一へと邁進しました。
逆に秀吉は、降伏した相手を受け入れ、領土もできるかぎり削らずに許しました。
それどころか、自分を嫌い、馬鹿にしつづけていた織田家での同僚・佐々成政(ささなりまさ)に対してさえ(そうであるからこそ)、度々の降伏を許し、自分に従って手柄を立てれば肥後国(現・熊本県)一国を与えて、出世させたほどでした。秀吉は、信長が天下布武に失敗したありさまから学び、自分に活かしたと考えられます。

これは余談ですが、筆者はときに、人の能力・性能にのみ評価が集中した信長が、AIに重なって思えるときがあります。
■天下一の技量があっても師に向かない理由
織田信長と同様に、剣豪・宮本武蔵もまた、自らが強くなることに主眼を置いていたため、人に教えるという師には向いていなかったように思われます。
武蔵個人は文句なく強い剣客ですが、個人として剣の道を極めることに熱心なあまり、彼は人に教えることには興味を示しませんでした。そのため、武蔵のもとでは優れた門人がさほど育っていません。
武蔵は13歳で新当流の使い手・有馬喜兵衛(ありまきへえ)に勝利し、生涯で60度を超える仕合を行いながら、ただの一度も敗れなかった、と自らが語っています。20代最後の仕合である小倉(こくら)・船島(ふなしま)(現・下関市)での巖流(がんりゅう)・佐々木小次郎(ささきこじろう)との決闘を、知る人は多いでしょう。
しかし武蔵の二天一流は柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)や一刀流のように、大きな門葉(一門)を広げることはありませんでした。門人に数を求めなかったことは間違いありませんが、武蔵につぐ、あるいは並ぶほどの使い手が、二天一流からはついに出ませんでした。
なぜ、これほど天下一の技量がありながら、武蔵は良き師匠になれなかったのでしょうか。それは武蔵自身が、自分の師と「正しい関係」を築けなかったことに、そもそもの起因がありました。
子供の頃の宮本武蔵が剣術を習った師匠は、父の無二斎(むにさい)でした。
■捻れた師弟関係
無二斎は元々、竹山城主の新免(しんめん)家の家老職であり、十手(じって)・刀術に秀でた人物として知られていましたが、宮本村で武蔵が誕生したおりには、牢人生活をしていたといわれています。

心が荒(すさ)んでいたからなのか、無二斎による武蔵への剣術の稽古は、苛烈を極める完全な厳格(スパルタ)指導であり、そこに親子の情愛は伺えませんでした。
無二斎が楊枝を削っている姿を見た武蔵が、その不器用さを笑ったところ、怒った父は手にしていた小刀を、息子に投げつけたことさえあります(手加減はしたでしょうが)。二人は歪んだ親子関係であり、拗(ねじ)れた師弟といえそうです。
父親に対する憎しみを燃やす武蔵は、いつか師である無二斎を「殺してやろう」とさえ考えたようです。だからこそ徹底的に無二斎を意識し、武術を研究しつづけました。けれども、この骨肉の争いには後日談があります。
巌流島の戦いといわれる佐々木小次郎との決闘に勝利した武蔵ですが、一説に船島に上陸することを小次郎の弟子にだけ禁じ、自らは門人を従えて上陸したともいわれています(武蔵の門人たちが、寄ってたかって小次郎に止(とど)めを刺した、ともいわれています)。
■人に教えるのでなく『五輪書』を書き残す
そのため、巖流と呼ばれた小次郎の弟子たちから、武蔵はつけ狙われる羽目となりました。自分たちの師匠の敵討(かたきう)ちだとばかりに、彼らは武蔵の首を求めたのです。
このとき、窮地に陥った武蔵の身を匿ってくれたのは豊後国、現在の大分県にあった日出藩木下家でした。なぜならば、この木下家において父の無二斎が、剣術師範をしていたからです。
決闘に勝利しても大名家の剣術師範の声はかからず、行くあてのない武蔵を匿ってくれるよう、無二斎が藩主を説得したのでした。
あれほど憎み合った親子であり、師弟でしたが、最後は和解したとも考えられます。
剣客の道を選んだ武蔵は、父親の気持ちが少しわかったのかもしれませんし、あれほど否定していた父親が、自分を救ってくれたことへの感謝もあったでしょう。
ただ、それはあくまで父と子としての和解であり、いまさら師と弟子の関係には戻れるはずもありませんでした。なぜならば、武蔵は我流を極めたからです。
こうして宮本武蔵は生涯、師という存在を深く理解する機会を持たぬまま、やがて肥後熊本藩細川家に客分(きゃくぶん)扱いで召し抱えられます。
ここでも武蔵は人に教えることの困難さもあり、『五輪書(ごりんのしょ)』を書き残すことで、己れの流儀を後世に伝える道を選びました。
彼は弟子を導くということには、向いていなかったのでしょう。

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加来 耕三(かく・こうぞう)

歴史家、作家

1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。『日本史に学ぶ リーダーが嫌になった時に読む本』(クロスメディア・パブリッシング)、『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』(日経BP)など、著書多数。

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(歴史家、作家 加来 耕三)
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