NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では秀長の妻・慶が描かれている。歴史評論家の香原斗志さんは「実は秀長の妻に関する資料は少なく、親も出身地も年齢も正確には不明だ。
残っている史料からは、意外な彼女の素顔がわかった」という――。
■史実における秀長の妻「慶」とはどんな人物だったのか
「疑惑の花嫁」――。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第13回(4月5日放送)は、副題がなんとも不穏である。
第12回「小谷城の再会」(3月29日放送)で、織田信長(小栗旬)から「嫁をとれ」と命じられた小一郎(のちの羽柴秀長、仲野太賀)は、指名された慶(吉岡里帆)との縁談を受け入れる。主命なのだから受け入れたのは当然だが、周囲からは心配の声が上がりはじめるようだ。
というのも慶は、もともと美濃(岐阜県南部)斎藤龍興(濱田龍臣)の重臣で「美濃三人衆」の1人に数えられながら、主君を見かぎって信長にくみした安藤守就(田中哲司)の娘。だから信長は、慶を事実上の人質として、小一郎に娶らせようというのだが、そこに花嫁への「疑惑」が浮上する。
斎藤家の重臣だった彼女の前夫は稲葉山城の戦いで討死したが、原因は慶の父の安藤守就が織田に寝返ったことにあり、寝返らせたのは小一郎だった。すると小一郎は、慶にとっては亡夫のかたきということになる。だから、復讐するために慶は小一郎に近づいたのではないか――。それが「疑惑」の中身だった。
だが、慶は小一郎と添い遂げるので、疑惑は疑惑にすぎないわけだが、それでは、史実の「慶」、すなわち秀長の妻は、どんな女性だったのだろうか。

■名前でわかっているのは出家後のみ
秀長の妻についての情報は少ない。「豊臣兄弟!」に慶が登場するのは永禄12年(1569)だが、秀長の妻のことが同時代の史料ではじめて確認できるのは、天正13年(1585)になってから。つまり16年ものちのことになる。
この年、秀長は兄の秀吉から、あらたに大和(奈良県)の統治を委ねられ、9月3日に本拠と定めた大和郡山城(大和郡山市)に入城した。そのとき秀長に付き添って入国した女性のことが、『多聞院日記』(興福寺の塔頭、多聞院で書き継がれた日記)に見える。「濃州女中」と書かれ、その後、「大納言ノ御内」などとも記されるこの女性が、秀長の妻だと考えられている。
妻の名は不明だが、天正19年(1591)1月22日に秀長が没したのちは、出家して「慈雲院」と称された。このため、彼女のことは「慈雲院」と記すのが一般的なので、ここでもそれに従う。その年の5月、慈雲院の生前供養が行われ高野山の奥の院で行われ、そこで捧げられた五輪塔には「慈雲院芳室紹慶」という名が刻まれている。また、秀長の葬儀を仕切った僧侶は「芳室慈雲院紹慶大禅定尼」と記録している。
2つの表記に共通する文字は「慶」なので、彼女の実名は「慶」だった可能性は高いのではないだろうか。少なくとも「豊臣兄弟!」で秀長の妻を「慶」とする根拠にはなる。

■親も出身地も年齢も正確には不明
だが、親のことはもちろん出身地もわからない。秀長と同じ尾張(愛知県西部)の出身ではないか、と推測する研究者もいるが、筆者は美濃の出身ではないかと思っている。『多聞院日記』に記された「濃州女中」の「濃州」とは美濃の別称なので、この記述を信じるならば、彼女は美濃の女性ということになる(「濃中」は美濃守を称していた秀長のことだという説もある)。
美濃出身で実名は慶。その可能性は十分にありそうだが、それ以上はわからない。だが、美濃三人衆の安藤守就の娘で名は慶、というフィクションは、十分に的を射ているといえそうだ。
ちなみに、戦国史研究家の和田裕弘氏は、秀長の正室の父は〈秀長周辺の記録に見える神戸伝左衛門と思われる〉としている(『豊臣秀長』中公新書)。だが、この伝左衛門は、秀長の別妻として1人だけ名が伝わる摂取院光秀の父だ、という見解が趨勢である。ここでも父親は伝左衛門ではないものとしておく。
それでも年齢や結婚した時期はわからないが、できるところまで推測してみたい。
秀長は天正10年(1582)に丹羽長秀の三男である仙丸(のちの藤堂高吉)を、天正16年(1588)には姉の子の秀保(秀次の弟)を養子に迎えているため、男児には恵まれなかったと思われがちだが、若くして亡くなったと思われる嫡男の記録がある。
■岐阜で結婚した可能性が高い
藤堂高虎の一代記『高山公実録』のなかの「郡山城主記」には、秀長の「御実子早世」のため、天正10年(1582)に仙丸が養子に迎えられたと書かれている。
この「御実子」のことは、別の史料には「与一郎」という通称で記されているので、秀長の息子が「与一郎」と呼ばれていたのだと思われる。
こうした通称は仮名(けみょう)といわれ、成人男子は日常的には実名(諱(いみな))ではなく仮名で呼ばれた。つまり、秀長の実子は天正10年までに亡くなり、その時点で成人していたことになる。当時、元服する年齢は数え15歳前後が一般的で、早くて12歳ほど。仮に天正10年に没したなら、永禄11年(1568)前後、遅くとも元亀2年(1571)には生まれていたことになる。
「豊臣兄弟!」では、秀長と慶は永禄12年(1569)に結婚している。その翌年に与一郎が生まれたなら、いちおう計算は合う。兄の秀吉が寧々と結婚した時期は、永禄4年(1561)説と同8年(1565)説に分かれるが、いずれにせよ尾張時代である。
その後、信長が美濃を手中にし、岐阜を本拠にしたのが永禄10年(1567)なので、史実においても、秀長は岐阜に移ってから慈雲院と結婚した可能性が高そうだ。
■史料から読み解く夫婦関係
ただし、彼女の年齢はわからない。彼らが永禄12年(1569)に結婚したとすれば、天文9年(1540)に生まれた秀長はすでに数え30歳で、当時としては晩婚である(むろん、それ以前に記録に残らない女性との婚姻があった可能性は否定できない)。
一方、戦国時代の女性は12歳ぐらいで初潮を迎えるとすぐに結婚するケースも珍しくなかった。
少し時代は下るが、江戸時代中期の女性の平均初婚年齢は14歳から22歳ほどだったとされる(速水融「濃尾地方の歴史人口学的研究序説」)。「豊臣兄弟!」の慶は再婚だが、当時は再婚する年齢も10代のことが多かったので、慈雲院は秀長より10歳程度は年下だったと考えるのが自然ではないだろうか。
のちに秀次が病に伏し、天正18年(1590)4月以降、重篤になることが増えると、慈雲院はそのたびに病気平癒のための祈祷を行わせている。ということは、2人の関係は嫡男の死後も良好だったということではないだろうか。
その翌年、秀長は没するが、柴裕之氏は次のように記す。〈文禄四年(註・1595)四月の秀保の死去によって羽柴大和大納言家が断絶した後、慶長年間(一五九六~一六一五)に至っても中之庄村(奈良県天理市)・窪庄(同奈良市)ほかで二〇〇〇石余の所領を所有している〉(『羽柴秀長』角川選書)。
■兄・秀吉との違い
また、前出の和田氏は前掲『豊臣秀長』にこう書く。〈慈雲院は『東西歴覧記』『吉田紀行』が引く善正寺の過去帳によると、元和六年(一六二〇)三月二十八日没。同記には、正確には「慈雲院、元和六年三月二十八日 大和大納言母公」としているが、秀長の母(大政所)ではなく秀長正室の慈雲院のことである〉。
仮に秀長より10歳若かったとすれば、数え70歳で没したことになる。秀長の死後、豊臣政権が内部から崩壊し、徳川家康によって簒奪され、ついには豊臣氏が滅亡するまで、すべてを見届けての死だった。
ところで、兄の秀吉は何人もの別妻がいたほか、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』には、家臣の娘などで気に入った女性がいればみな召し出させるなど、その女癖が周囲から恐れられていた旨が記されている。

一方、秀長に関しては、慈雲院のほかには先に触れた摂取院光秀以外に、別妻や妾の名は記録されていない。「豊臣兄弟!」では、秀吉は若いころから女遊びが派手なのに対し、秀長は女性に奥手であるように描かれている。少なくとも史料から確認できるかぎり、女性に関する兄弟の描き方としては、やはり的を射ているのではないだろうか。

----------

香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

----------

(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
編集部おすすめ