三寒四温。職場で、仲間で、家族でとメンバーは様々ながら、花見という束の間の酒宴を楽しみにする人は多い。
天下人、豊臣秀吉もその一人だった。有識故実家の髙山宗東さんは「秀吉が死の直前に開催した大イベントが醍醐の花見。その参加者は秀吉を含む男性3名に対し女性は1300名という異常なものだった」という――。
■「今年の花」の切ない美しさ
子供というものは、年中行事などにさほどの興味も抱かないし、むしろ面倒だな……くらいに思うものだ。それがどうだろう、齢を重ねればかさねるほど、感慨深くなってくる。積み重ねてきた星霜それぞれの思い出がそこに添えられて、今年もめぐってきた季節の行事を一層、懐かしく、いとおしく感じるのだろう。
ことに体力が衰えてくると猶更だ。「来年のこの行事を迎えるまで、自分は元気でいられるか覚束ない」……人生も半ばを過ぎたであろう年齢になると、顕著な病を抱えていなくともそう思うのだから、まして己の最期がリアルに、ひたひた迫ってきていると感じつつある人にとっては、季節の行事ひとつひとつが「これが最後かもしれない……」と感慨深く、身につまされることだろう。
「花見」は、その最たる年中行事ではあるまいか。
厳しい冬を乗り越えた矢先にようやく咲いた可憐な桜が、瞬く間に儚く散ってしまい、次に逢うことができるのは、また一年先。果たして自分は、もう一度この花を見ることができるのか……。
だから、年齢を重ねると一層、春の花見が身に沁みる。

一代の天下人・豊臣秀吉も、そうだったらしい。
時代劇などでは「稀代の人たらし」として、明るく、人懐っこいイメージがある秀吉だが、晩年はかなりその印象が変わる。
■寂しい老人と化した秀吉
跡継ぎと定めた実の甥ばかりかその一家の女子供まで皆殺しにする、美女と聞くや貴賤の別なく召し出し、蹂躙し、己に反目する者は苛酷な死に追いやる――そんな、怪物のような老人になった。挙句の果てには世界征服の妄想にとり憑かれ、海を渡った大戦争を企てる。権力志向が強くなり、猜疑心が深くなり、ともすれば弱い立場の者を苛むようになってしまうのだ。
秀吉を祀った豊国神社には、秀吉所用といわれる枕が遺されているが、そのモティーフは悪夢を喰らう「獏」だ。晩年は睡眠障害に悩まされていた、という。
同じく豊国神社には、秀吉子飼いの武将で賤ケ岳の七本槍のひとり・加藤嘉明が賜ったという、秀吉の上顎左奥の大臼歯が遺されているが、全体に歯石が付着していることから、最後の一本だったのではないかと考えられている。
眠れず、食事もままならず、たびたび失禁もしたらしい。
さまざまな病に悩まされたから人が変わったのか、人が信じられなくなったから病に取り憑かれるようになったのか……どちらが先かは解らないけれど、いずれにしても秀吉は晩年、なんだかとても寂しい老人になった。
■秀吉が執着した「最期の桜」
そんな秀吉が最後に執着した一大イベントが「お花見」だった。
秀吉は死の前年、慶長二(1597)年の春に京都の醍醐寺を訪れた。
折しも花の候、桜が見事に咲いていた。この時の印象が、余程強かったのだろう。翌慶長三年二月、ふたたび醍醐寺を訪れた秀吉は、三宝院と庭園の復興や仁王門の修理、「山上やり山」にいくつもの御殿を造るように、といきなり命じるのである。
「いつまでに?」
桜の花の咲くまでに、である。
「ここで大がかりな花見を催すのだ」
なんと、あとひと月もないではないか。
花見の責任者には五奉行のひとりで京都所司代もつとめた、前田玄以が任ぜられた。玄以といえば、後陽成天皇の聚楽第行幸を取り仕切った男で、ここ一番の大イベントの監督としては充分な人材だ。
そして秀吉といえば、突貫工事の名人……否、「突貫工事をさせる名人」だ。
一夜で築かれたという伝説をもつ美濃の墨俣城、小田原の石垣山城を例にひくまでもなく、たとえば京都防衛のために洛中をぐるりと囲む惣構えの土塁「御土居」などは、天正十九(1591)年閏一月に着工し、二月には大半が、三月にはすっかり出来あがっていたという。また同じ年、唐入りのために肥前に築いた名護屋城は、わずか5カ月で竣工させた。
■何よりスピード重視の人、秀吉
少々信憑性に欠ける資料ながら、『老人雑話』にこんな話がある。
ある時、秀吉の祐筆が「醍醐」の「醍」の字をど忘れした。
祐筆というのは、主人が口頭で語った内容を、手紙や文書にしたためる秘書のごとき役目である。どぎまぎしていると、秀吉は「お前はダイという字を知らんのか? こう書くのだ」と、指で「大」という字を書いて見せたという。ダイと読んで、通じればいい。紙なども、奉書が無ければ継いだ紙でよい、書き損じは墨で消して、そのまま出せと命じたという。スピード重視の人、だったのだろう。
そんな秀吉が、醍醐寺の門の修理や複数の御殿造営の他、さらに「桜ノ馬場」から「やり山」に続く350間(約640メートル)の道に700本の桜を植えよ、と命じたのである。三月には咲く、二月に、である。桜は、畿内一円や名所吉野山から取り寄せられた。ただ材木を引っ張ってくるのとはわけが違う。咲く前のデリケートな時期に、掘り返し、運び、時期にはきちんと花が咲くように、移植しなければならないのだ。
■醍醐の花見の決算報告
さて、これらの費用は、いったいいくらかかったのだろう。
もちろん、配下の大名たちに「お手伝い」させるにしても、権力の背景も費用のうち。

「お前には十万石の領地を与えているのだから、それに見合う働きをせよ」
と、いうことだ。働きが悪ければ、十万石は召し上げられてしまう。そこには、「その十万石は、そもそもワシのモノ」という天下人の理屈がある。
これは現代の事例で比ぶべくもないが、2009年から9年の歳月をかけておこなわれた名古屋城の本丸御殿復元の総工費は約150億円、姫路城の「平成の大修理」には、およそ28億円の工費がかけられている。
木の移植は、買い上げ、移動、移植……と、雑に想定しただけでも、クレーンなどの重機がある現代でさえ、一本あたりうすら100万円くらいかかりそうだ。これが700本だと、単純計算でも7億円になる。150万円だったら10億5000万円。平気で跳ねあがっていく。ここにさらに、突貫工事の成功報酬が乗ってくるわけだ。
ちょっと面白いのは、江戸時代に入ってからの記録だが『当代記』などによれば、招かれた1300人の女房衆に対して、それぞれ三枚ずつ新品の衣装を用意し、花見中、お色直しを二回おこなわせた、という。
非常に単純な計算だが、一人あたり100万円の身ごしらえ三回分で、1300人だと39億円になる。秀吉の妻や側室など、とりわけ金のかかりそうなところは別勘定で、である。

■女性ばかり1300人の花見客
この「1300人の女房衆」の内訳は、秀吉の奥につとめる女性を中心に、あとは秀吉傘下の大名・武将の奥方や腰元たちであったという。
驚くのは、花見の参加者のうち男性は、秀吉と秀頼、そして前田利家だけだった、というのだ。二月の下見には、徳川家康も伴っていたというのに、家康当人は客としては呼んでもらえなかったわけだ。
「男どもは、花見の警護・運営にあたれ」
というのが、天下人としての秀吉の権力志向であったのかもしれない。
秀吉という人は、他人の奥さんがひどく気になるたちであったらしい。
しばしば、傘下の大名や武将に対して、「妻を見せろ」的なことを言う。妻や娘まで、拝謁しに来いと、呼びつけるのだ。
ともすれば、取りあげられちゃうかもしれない、と危機感を持つ者も少なくなかった。なにしろ相手は絶対権力者である。イエズス会の宣教師オルガンティーノの報告書には、秀吉が美しい娘や夫人と見れば、見境なく召し出して我がものとする「獣」だ、という意味の記述がある。
亭主が朝鮮出兵のさなか秀吉に呼びつけられた肥前の大名・鍋島直茂夫人(陽泰院、彦鶴、藤とも)は、貞操の危機を感じたのか一計を案じた。「御額角に御作り、異形の御面相にて御出で御目見なされ候」と、『葉隠』の聞書第三にある。
つまり、額を四角に剃りあげたヘンな顔でお目見えしたのだ。ちなみに、この資料の「角」は、「カク」と読むのが一般的だが、これを「つの」と読めば、四角のカドをさらにずいっと剃り込ませツノ状に拵えたのかもしれない。これで眉を落とし、お歯黒をつけていたら、般若そのもの。なかなかにコワい。これ以降、秀吉が彼女を呼びつけることはなかった、とあるけれど、どうだろう? この時、鍋島直茂夫人は五十歳を過ぎていたから、当時の感覚としてはやや自意識過剰のきらいが無くもない。
■天下統一時代の『家政婦は見た!』
そもそも秀吉にしても、オルガンティーノの告発のように「獣のように好色だった」という見方もあるが、あるいは妻を見て、亭主の度量を測っていたのかもしれない。要領の良い男なら、外づらを取り繕うことはいくらでもできる。しかし、女子供といった家人のあり様には、その男の真の力量が否応なく露呈する。
かつて『家政婦は見た!』というドラマがあった。その人気のゆえんのひとつは、人の家の中を覗くかのような面白さだろう。そういう「他人の家庭を覗きたい趣味の人」というのは、男女によらずいるものだ。
仮に秀吉が、そういう趣味の人であったとすれば、人生最後の大お花見大会において、莫大な金をかけて、全大名の家の中の女どもを覗き見たわけだ。
いわゆる「醍醐の花見」が催されたのは、慶長三(1598)年三月十五日のこと。秀吉が亡くなるのは、それから5カ月後の八月十八日である。もちろん、これが最後の桜になったわけで、3対1300というすさまじい男女比率を考えると、現代の価値観で数百億にものぼったであろう支出も、秀吉の中では収支は合っていたに違いない。
以て瞑すべし……という感じがする。

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髙山 宗東(たかやま・むねはる)

近世史研究家、有職故実家

歴史考証家、ワインコラムニスト、イラストレーター、有職点前(中世風茶礼)家元。不肖庵 髙山式部源宗東。1973年、群馬県生まれ。東京大学先端科学技術研究センター協力研究員、大阪市ワインミュージアム顧問、昭和女子大学非常勤講師(日本服飾史)などを務める。専門は江戸時代における戦国大名家関係者の事跡研究、葡萄酒伝来史、有職故実、系譜、江戸文芸、食文化、妖怪。

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(近世史研究家、有職故実家 髙山 宗東)
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