■中年男性にとって「生きづらい社会」
男性、特に中年男性にとって、これほど生きづらい社会が、かつてあっただろうか――。と、いきなり被害者マウントを取りたいわけではない。
ただ、私(45歳)を含めた「おじさん」にとって、何をしてもハラスメント、と言われかねない風潮がある。
「彼氏いるの?」はもちろん、「きれいだね」などと女性に向かって口走る男性は、絶滅したとまでは言えないのかもしれないが、少なくとも表立っては見えない。セクシュアルハラスメントだけではない。怒鳴るどころか叱責する上司さえ、一部のブラック企業を除いては、ほとんど見られない。パワーハラスメントは、職場で最も嫌われるからである。
私は、企業や団体で12年半、大学教員として10年半、と、いまのところほぼ半々で働いてきた。この20年あまりは、ハラスメントの基準が厳しくなる、というか、正常化してきた歴史だったので、文字通り隔世の感がある。そんな私が考える「サバイバル術」とは何か。ここでは、それを探りたい。
■「ハラスメント」を日本語にすると…
もとより、この「ハラスメント」というカタカナは、日本語では何を指すのだろうか。辞書的に言えば、「嫌がらせ」を意味するharassの名詞形であり、『オックスフォード英語大辞典』(OED)によれば、既に300年ほど前には使われていたという。このことばがカタカナのまま使われているのは、いわば「嫌がらせ」以上、「犯罪」未満だからかもしれない。

性暴力をはじめとして「犯罪」というほかない蛮行を、時折「ハラスメント」として処分したり報道したりしているのは、この曖昧さによる。刑法犯に完全に当てはまるわけではないものの、かといって、度を越している。グレーゾーンが広いから、このことばがあり、そして、いつまでもカタカナのまま流通している。
最近でも、警視庁の男性警視正が「不機嫌ハラスメント」で処分が報道された(参考〈どんなに優秀でもこれ以上は「一発アウト」…警視庁が身をもって示した「不機嫌ハラスメント」処分の境界線〉プレジデントオンライン、2026年3月13日8時配信)。
また、インターネット番組「Abema Prime」でも、たびたび「ハラスメント」が取り上げられている(参考〈相談される側の心が病んだ…ハラスメント対応で苦しむコンプラ担当者たちの苦悩「私も人間。チャットボットではない」解決策はあるのか〉ABEMA Prime、2025年9月15日11時配信)。
それほどまでに常に議論を呼び、厳密には線を引きにくい。本稿を含め、決定版と言える議論ない。
■「髪の毛切った?」という会話すらアウト
だからといって、この曖昧さを批判したいわけではないし、人それぞれ、と誤魔化したいわけでもない。厚生労働省が作成した「あかるい職場応援団」というサイトでは、「客観的にみて、業務上必要かつ相当な範囲で行われる適正な業務指示や指導については、職場におけるパワーハラスメントには該当しません」と明記してあるからである。裏を返せば、たとえば、「髪の毛切った?」とか、「その服、似合わないね」といった会話が「業務上必要」でなかったら、「ハラスメント」になるからである。
では、あらゆる言動を慎まなければならないのかと言えば、そうでもない。
「サバイバル術」を探らなければならない。そのためには、なぜ「ハラスメント」をめぐって、私たちは語り続けるのかを考えなければならない。
この理由を考える格好の素材がある。先月22日と29日にフジテレビで放送された「ザ・ノンフィクション 今どきじゃない会社で夢みる僕と私の新入社員物語」である。東京・池袋のベンチャー企業「グローバルパートナーズ」に密着したこの作品は、ソーシャル・メディア上でも大きな話題を集め、賛否両論が巻き起こった。
■パワハラになるかは「信頼関係」次第
「ブラック企業」と呼ばれるのは百も承知で、朝礼での絶叫にはじまり、激ヅメとしか言いようのない指導が続く。踊ったり声を出したりするのは、飲み会に限らない。合言葉の「ゾス!」を叫ぶのが、社員たちにとっては誇りのように見える。
外から見れば「ハラスメント」ととられかねないのに、中の人たちにとってはプライドを持って堂々としている。このギャップを探ろうと取材を続けたテレビマンユニオンのディレクター・鳥居稔太氏は、マイナビニュースの取材に、次のように答えている。
怒られて受け入れられる人と、そうでない人はやっぱりいると思います。そこはお互いの信頼関係だったり、その相手を尊敬しているかどうか、普段の関わり方だったりで変わってくる。
パワハラになるかならないかも、結局そこなのかなと思いました。
鳥居氏の言う通り、信頼関係の有無が「ハラスメント」を決める。そんなことは「当たり前」だと思われるかもしれない。ただ、その「当たり前」が人それぞれ違うから、「ハラスメント」から私たちは逃れられない。「ハラスメント」について語り続けざるをえないのではないか。
■「当たり前」だから正解がない
「当たり前」でありながら、いや、だからこそ正解がない。万人と信頼関係を築ける人は、どこにもいない。人間関係には、相性の良し悪しがあり、タイミングにも左右される。「当たり前」だから難しい。その難しさゆえに、私たちは、悪く言えば、「ハラスメント」をネタにして盛り上がれるのではないか。
結論が出ないから盛り上がり、盛り上がれば盛り上がるほど結論が出ない。このぐるぐる周り、循環から抜け出るのは簡単ではない。
この輪の中に安住しているとも言えるし、この程度には「ハラスメント」という考え方が人口に膾炙(かいしゃ)した、と言えよう。
性的暴行は是か否か、という問いは成り立たない。犯罪でしかないからである。構成要件は法律に厳密に定められており、合意の有無や、状況等をめぐって裁判で争われる場合もあるとはいえ、どこまでが性的暴行なのか、とは問われない。
これに対して「セクシュアルハラスメント」はどうか。なるほど、先に見た厚労省の「あかるい職場応援団」には、できる限り細かく・具体的に書かれている。「職場」や「労働者」といったことばの定義に始まり、「性的な内容の発言の例」が挙げられており、被害に遭った人にとって参照しやすい。それは「セクハラ」として「当たり前」だろう、ととらえやすい。
■犯罪でない、グレーゾーンゆえの困難
それでも、いや、それゆえに、この「当たり前」の線引きに頭を悩ませかねない。同サイトの「環境型セクシュアルハラスメント」を例にとろう。「同僚が取引先でプライベートな交友関係の性的な内容の情報を意図的かつ継続的に流したため、そのことが苦痛に感じられて仕事が手につかない」との「例」が挙げられている。
私にとっては、なるほど「当たり前」にこれは「セクハラ」に見えるし、多くの人がそうとらえるとの見込みに基づいて、厚労省は、この「例」を出したのだろう。
ただ、これが「ハラスメント」の「例」にとられているように、犯罪には該当しづらい。そればかりか、ここの「性的な内容の情報」が何を指すのかは厳密には示しにくいのではないか。
髪型や服装にまつわる「性的な内容の情報」もありうるし、もっとダイレクトに性行為やそれに近いときもありうる。「セクハラ」には当たらないとか、「セクハラ」は当事者次第、などという「当たり前」を主張したいわけではない。
そうではなく、犯罪でない、もしくは、グレーゾーンゆえの困難がどこまでもつきまとう。そのために、私たちが「ハラスメント」そのものからも、そして、その話題からも逃れられない様子を確かめたいだけなのである。
■過去の自分は「無罪」と言い切れるか
この「環境型セクシュアルハラスメント」のように、「ハラスメント」をめぐる認識の違いは、環境に大きく左右されるのではないか。
私の個人的な事情で言えば、京都大学に入学した1999年、同大学教授だった矢野暢氏による、秘書たちへのセクハラに関する糾弾が続いていた。矢野氏は、同年に亡くなるものの、学内では「矢野事件」の教訓を学ぼうとする集会や勉強会が開かれていたし、今や弾圧されてしまった「タテカン」(立て看板)にも、激しい文字が踊っていた。私が接した教員のなかにも、「ハラスメント」の疑惑を向けられた人がいた。
その5年後に関西テレビに入社した際は、反対に、今なら「ハラスメント」とされる光景があった。私自身も、胸に手を当てれば、完全に無罪とは言い切れない。
無自覚な失言にとどまらず、無神経を通り越して、今なら「セクハラ」と言われても仕方がない。注意していたつもりの私でさえそうなのだから、ましてや「昭和」を生きてきた世代は、「令和」の今なら目も当てられまい。
■たった1つの「サバイバル術」とは
こうしたマスコミ業界のズレは、昨年から今年にかけて続発している。昨年、フジテレビの第三者委員会は、取締役だった反町理氏について調査の結果、「セクハラ」と「パワハラ」があったと認定した。同氏の2006年から2008年にかけての振る舞いが、およそ20年近くを経て明るみに出た(参考〈フジテレビの隠蔽は中居正広だけではなかった…「名物キャスターの幼稚なセクハラ」がまかり通るテレビのヤバさ〉プレジデントオンライン、2025年4月2日19時配信)。先日、毎日新聞社は約10年前、当時の男性取締役が「セクハラ」行為をしていたと発表した。
「ハラスメント」に時効がない傾向が続いている以上、私もまた無傷ではいられないのかもしれない。では、どうすれば生き延びられるのか。
どこまでが、とか、何が、といった基準や境界線に恐々とするのでは、終わりが見えないし、かえって「当たり前」の感覚を失いかねない。それよりも、あらゆる言動が「ハラスメント」になる、そうした前提に立たなければならない。どこまででも、何でも「ハラスメント」になりかねないし、なりうるのだから、常に自分の「当たり前」を疑い、そして、信頼関係を築こうと試みなければならない。
こうすれば大丈夫、とか、これなら問題ない、といった魔法の杖は、どこにもないし、誰も安全圏にはいられない、と認識する。そこをデフォルトにしなければならない。かといって萎縮するのでも、開き直るのでもない。常に自分たちの常識を問い直し続ける。その絶え間のない進歩の過程こそ、たったひとつの「サバイバル術」にほかならないのではないか。

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鈴木 洋仁(すずき・ひろひと)

神戸学院大学現代社会学部 准教授

1980年東京都生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士(社会情報学)。京都大学総合人間学部卒業後、関西テレビ放送、ドワンゴ、国際交流基金、東京大学等を経て現職。専門は、歴史社会学。著書に『「元号」と戦後日本』(青土社)、『「平成」論』(青弓社)、『「三代目」スタディーズ 世代と系図から読む近代日本』(青弓社)など。共著(分担執筆)として、『運動としての大衆文化:協働・ファン・文化工作』(大塚英志編、水声社)、『「明治日本と革命中国」の思想史 近代東アジアにおける「知」とナショナリズムの相互還流』(楊際開、伊東貴之編著、ミネルヴァ書房)などがある。

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(神戸学院大学現代社会学部 准教授 鈴木 洋仁)
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