■信長VS前門の朝倉・後門の浅井
第8回:金ヶ崎城(福井県敦賀市)・天筒山城(福井県敦賀市)・国吉城(福井県美浜町)
時は1570(元亀元)年4月、妹・お市の嫁ぎ先で、同盟関係にあった義弟・浅井(あざい)長政(ながまさ)によるまさかの謀反。その時、織田信長は朝倉攻めのため、敦賀にいたのだが、南に接する北近江を領していたのが長政。正面に朝倉軍。そして背後から浅井軍。おそらく彼の人生の中で、(本能寺の変を除けば)最大のピンチだったといっても過言ではない。
信長はやむなく、京へと撤退することになる。主君を無事に逃すため、迫り来る朝倉・浅井連合軍を食い止める必要がある。そこで現地にとどまり殿(しんがり)役(軍勢の最後に逃げる役割)をみずから買って出たのが、羽柴藤吉郎(後の秀吉)だった──。
以上が、一般的に知られている「金ヶ崎(かながさき)の退(の)き口(ぐち)」の概要だ。実際には、殿を務めたのは秀吉だけではなく、明智光秀ら他の武将たちもいたという。彼らが決死の覚悟で籠ったのが、金ヶ崎城(図表1①福井県敦賀市金ヶ崎町1-1)だ。東に伸びる峰続きの天筒山城(図表1②福井県敦賀市泉)とともに、北から迫る朝倉軍に対峙することになった。
■金ヶ崎の撤退戦が成功したワケ
「金ヶ崎の退き口」と呼ばれるだけあって、撤退戦の舞台はこの2城だと思われている。だが、実際の戦場はもう少し広い範囲だったのではないか。というのも、北近江から北上してきた浅井軍は、少なくとも疋田(ひきた)(福井県敦賀市疋田)までは進軍していた記録が残っている。二城から疋田までは直線距離なら南にわずか5kmほど。疋田から北上すればすぐに敦賀平野へと至る。信長軍にとっては、喉元にナイフを突きつけられるような位置だ。
疋田は、近江から敦賀へと向かう街道の要所にあたり、京や岐阜へも通じるが、敵方についた長政に押さえられた以上、このルートは撤退に使えない。信長はいち早く、西の若狭方面へと進路をとったと思われる。そしてその先にあるのが、国吉城(くによしじょう)(図表1③福井県美浜町佐柿)だった。
■若狭には頼りになる勇将がいた
「関峠」とは、越前国と若狭国の国境にある峠ゆえにそう呼ばれる。標高わずか103mの峠を若狭側(西側)に下った位置にあるのが国吉城だ。
先ほどの地図を見れば一目瞭然だが、金ヶ崎城と天筒山城に籠って抵抗を続けていても、南の敦賀平野を浅井軍に押さえられてしまっては(実際に浅井軍はそうしたであろう)、その西へと逃げた信長への防波堤となることはできない。
そして、この城は若狭国でも稀に見るほどの堅城で、守将(しゅしょう)もいくさ上手な男だった。国吉城の城主・粟屋(あわや)勝久(かつひさ)は、若狭守護・武田家に従う有力国人だ。信長の朝倉攻めまでの若狭は、たびたび朝倉義景の侵攻を受け、あげく守護の武田元明が拉致されてしまい不在に。そんな中、ほぼ孤立無縁で朝倉軍に抵抗し続けていたのが国吉城の粟屋勝久だった。
浅井謀反前には、朝倉攻めのために進軍してきた信長軍を国吉城に招き入れ、信長にもその勇猛ぶりを激賞されてもいる。史料には残されていないが、「金ヶ崎の退き口」においても勝久が信長の窮地を救った可能性はあるのではないか。
1563(永禄6)年から毎年のように来襲する朝倉軍に、籠城戦で全勝。絶体絶命のピンチにおいて、これほど頼りになる城もない。いったいどれほどの堅城ぶりだったのか、その遺構をのぞいてみたい。
■山城を築くに理想的な自然地形
国吉城は、南北に伸びる主尾根からいくつも支尾根が伸び、その合間に深い谷が食い込むような地形となっている。これは守備側に極めて有利な地形だ。
その意味は、実際に登城路を歩いてみれば誰もが納得する。現在の登城路は、南西麓の若狭国吉城歴史資料館から伸びているが、谷間に足を踏み入れると、この光景が広がっている。
急峻な崖っぷちが、登城路の両側にそびえている。ということは、城内へ攻め入るためには頭上からの雨霰(あめあられ)の攻撃にさらされることが必定。かいくぐって尾根まで到達するのは至難の業。このような地形が四方八方に広がっており、どこから攻めても同じこと。弱点らしい弱点がないのだ。
■土木技術を駆使した固い守り
名城というと、つい築城者の加工が巧みな城を想像しがちだが、こと山城に関していうと、元々の地形をいかに活かすかが重要となる。国吉城ほど地形に恵まれた城もなかなかないだろう。その壮絶な崖っぷちは、城内側から見るとさらに際立つ。
もちろん、自然地形のみを頼りにしているわけではなく、見事な技巧ぶりを垣間見られる部分も随所にある。伝二ノ丸は、土の白の真骨頂ともいうべき土塁と虎口のドッキングぶりが素晴らしい。
攻めこんでくる敵の勢いを削ぐため、進路を屈曲させる、絵に描いたような食違い虎口。土塁も、ちょうど虎口の部分がグイッと高く盛り上がっている。
■国吉城本丸下の独特な「堀切」
本丸付近も見てみよう。まずは北西側の尾根下から。ここは自然地形そのままではなく、人工的に斜面を削った遺構、切岸のように見える。そして、斜面下部には石垣が見えている。
堀切は山城では尾根を寸断する際によく用いられる。土を削っただけのものが大半だが、時々、このような石垣を用いたものも見られる。北西尾根に並ぶ連郭曲輪群方面からの攻撃に備えたもので、頭上の本丸からの攻撃と連動し、ここで阻止するべく造られたものだろう。
急斜面を迂回するように本丸へと登ってゆくと、登り切る手前にやはり石垣で食違い虎口が築かれている。しかも水平ではなくスロープ状の登り道の途中。実際に歩を進めてみればよくわかるが、勾配があるのとないのとでは、進みづらさがまるで異なる。
■本丸は裏側の守りもぬかりなし
こうして登りきった先にある国吉城本丸は、見事なまでに削平されている。これもまた、堅い山城の条件のひとつ。どんなに峻険な構造でも、城内に駐屯できる兵数が少なければ簡単に落とせてしまう。十分な兵数が駐屯しやすくするため、そして武器や兵糧などを貯蔵するためにも、削平された広大な空間があるにこしたことはない。
堀切や切岸のあった西側とは逆、本丸東側の守りもぬかりない。崩れてはいるものの、石段跡があり、これもまっすぐ侵入できないように登りながら直角に折れている。片側は急崖、正面と反対側の二方向から本丸の兵から狙い撃たれる構造だ。
さらにその脇には、これも崩壊が著しいが、明らかな石垣跡が残っている。ちょうどこの急斜面が向いているのが東側、最初に見た関峠や敦賀方面だ。たびたび来襲していた朝倉軍に備えるためには、東の守りを最も固める必要がある。この石垣が築かれた時代が粟屋勝久の頃かは不明だが、存在したと考えた方が合理的に思える。そして、関峠を越え逃げのびてきた信長の目に、崩壊前の立派なこの石垣が映ったのではないか――。
■その後の「朽木越え」から推測
以上はあくまで筆者の「推測」である。「金ヶ崎の退き口」の際、信長が国吉城に立ち寄ったという確固たる一次資料は残っていない。ただし、これだけの堅城で、城主の粟屋勝久は朝倉軍へ長年抵抗を続けた男。頼らない手はなかったのではないか。
窮地を脱した信長は、近江でも琵琶湖岸は通らず(通れず?)、西のはずれの朽木谷を抜けて京へと無事逃げ帰っている。若狭から朽木谷を抜けて京へと至る道は、いわゆる鯖街道(さばかいどう)。この「朽木越え」ルートから推測してみても、若狭における信長軍の強力な味方だった粟屋勝久を頼ったとしか思えない。
「金ヶ崎の退き口」から3年後の1573(天正元)年8月、越前・一乗谷に信長軍が一気呵成(いっきかせい)に攻め込み、朝倉家は滅亡。そこには粟屋勝久もおり、見事に幽閉されていた主君・武田元明を救い出すこととなったのだった。
----------
今泉 慎一(いまいずみ・しんいち)
古城探訪家
1975年、広島県生まれ。編集プロダクション・風来堂代表。山城を中心に全国の城をひたすら歩き続け、これまでに攻略した城は900以上。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫)、監修書に『『山城』の不思議と謎』『日本の名城データブック200』(以上、実業之日本社)。『織田信長解体新書』(近江八幡観光物産協会)など、地域密着濃厚型のパンフレット制作を担当することもある。
----------
(古城探訪家 今泉 慎一)

![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 昼夜兼用立体 ハーブ&ユーカリの香り 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Q-T7qhTGL._SL500_.jpg)
![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 就寝立体タイプ 無香料 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51pV-1+GeGL._SL500_.jpg)







![NHKラジオ ラジオビジネス英語 2024年 9月号 [雑誌] (NHKテキスト)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Ku32P5LhL._SL500_.jpg)
