■なぜ浅井長政は義兄・信長を裏切ったのか
織田信長は幕府軍を率いて、越前(福井県北東部)の朝倉義景を討つべく進攻した。朝倉方の城を順調に攻め落として、地域の拠点である金ケ崎城(福井県敦賀市)も攻略。いよいよ木ノ芽(きのめ)峠を越え、朝倉氏の本拠地である一乗谷(福井市)に攻め入るところだった。
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第13回「疑惑の花嫁」(4月5日放送)では、放送終了直前に柴田勝家(山口馬木也)が織田信長(小栗旬)のもとに血相を変えて駆け込み、こう伝えた。「浅井長政、謀反にござります!」。
第14回「絶体絶命!」(4月12日放送)では、信長は長政の裏切りに大いに戸惑う。そりゃそうだろう。信長が朝倉討伐のために京都を発ったのは、元亀元年(1570)4月20日だが、その前月、近江の常楽寺で浅井長政(中島歩)と一緒に相撲を観戦し、そればかりか2人が直接、何度も対戦した。信長は妹の市(宮﨑あおい)を長政に嫁がせており、2人は義理の兄弟だったが、ドラマで描かれるかぎり、2人は政略結婚による義兄弟にしては仲睦まじく、一定の信頼関係を築いているように見えた。
信長は長政に、出陣の「真の目的は朝倉討伐だ」と打ち明けた。朝倉との関係が深く、嫡男の万福丸を朝倉に人質に出している長政にとっては、困った話だったが、異を唱える家臣は自分が説得すると信長に告げた。
その長政が自分を裏切ったなど、信長には信じがたかったのは、ドラマの流れからして、もっともだが、史実においても信長はこの「裏切り」にかなり戸惑っている。
■史料に残る信長の「ウソに違いない」
史料として信頼度が高い太田牛一の『信長公記』には、次のように書かれている。
〈木目峠打ち越し、国中御乱入なすべきのところ、江北浅井備前、手の反覆の由、追々、其の注進候。然れども、浅井は歴然御縁者たるの上、剰へ、江北一円に仰せ付けらるるの間、不足あるべからざる条、虚説たるべしと、おぼしめし候ところ、方々より事実の注進候〉
(木目峠を越え、越前中央部に進攻するはずが、北近江の浅井備前守長政が離反したという情報が次々と寄せられた。しかし、浅井はれっきとした縁者で、そのうえ北近江一帯の支配を許していたのだから、ウソに違いない、と信長は思ったが、方々より事実だという情報が寄せられた)
浅井長政の裏切りが伝えられたのは、おそらく4月28日で、信長も木下藤吉郎らも命からがら退却するのだが、それから2カ月以上経って、信長自身が毛利元就に送った7月10日付覚書にも、浅井長政についてこう書いている。
〈近年別て家来せしむるの条、深重隔心無く候き、不慮の趣是非無き題目に候事〉
(近年、自分の家来にして、心隔たりなく付き合ってきたのに、思いがけず理不尽な結果になってしまった)
心隔たりなく付き合ってきた義弟が「まさか、ウソだろ‼」というのが、信長の偽らざる気持ちだったことがわかる。
■ドラマで「ありえない」と思ったシーン
ところで、朝倉攻略に発つ前月、信長が相撲大会を催したのは史実である。『信長公記』に次のように記されている。
〈三月三日に江州国中の相撲取を召し寄せられ、常楽寺にて相撲をとらせ、御覧候。(中略)鯰江又一郎・青地与右衛門取り勝り、これに依つて、青地・鯰江召しだされ、両人の者に熨斗付の大刀・脇差を下され、今日より御家人に召し加へられ、相撲の奉行を仰せ付けらる〉
(3月3日、信長は近江国中の力士を集めて、常楽寺で相撲をとらせて観覧した/鯰江又一郎と青地与右衛門が勝ち抜いたので、彼らを召し出し、金銀飾りの太刀と脇差を賜り、この日から家臣として召し抱え、相撲奉行に任命した)
じつは信長は相撲好きで知られ、常楽寺での相撲は本能寺の変の前年まで、毎年続けられた。ただ、信長自身が相撲をとったかどうか、浅井長政も一緒に観戦したかどうかは、史料からはわからない。
「豊臣兄弟!」では、長政は何度も信長に挑みながら、常に投げ飛ばされて、1回も勝つことができなかった。史料に記録はないが、2人が相撲を取り合うくらい親密な関係だったとしても不思議ではない。だが、「豊臣兄弟!」には、信長と長政との関係で、史実では「それだけはありえない」という描写があった。
■大柄の力士以上の巨漢に見える
浅井長政とはどんな人物だったのか。肖像画を見るかぎりまちがいなさそうなのは、大男だったということである。長政の肖像画は2つ残されており、より有名なのは高野山持明院に伝わるもので、長政が小谷城内で自刃してからの十七回忌に描かれたものだという。肩幅が広く、恰幅がかなりよく、月代(さかやき)が大きく剃り上げられて、二重あごが特徴的だ。
これより生前の記憶があたらしい時期に描かれたのが、長政の一周忌に浅井家の菩提寺だった徳勝寺の住職、源秀が描かせたという肖像画で、持明院のものよりいっそうふくよかで、まるで大柄な力士か、それ以上の巨漢にしか見えない。2つの肖像画が、かなりふくよかな容貌という点で共通している以上、長政が細身だったはずはないと考えていい。
ただ、身長や体重に関する記録はないが、長政の姉だとされ、小谷城から逃れた長政と市の3人の娘をしばらく養育したと伝わる見久尼は、身の丈が5尺8寸(約176センチ)、目方が28貫(約105キロ)だったと伝わる。
男性の長政は、これより1回りは大きかったのではないだろうか。長政の娘の茶々が産んだ、すなわち長政の孫の豊臣秀頼は、身の丈6尺6寸(約197センチ)、目方43貫(161キロ)と伝わるから(『明良洪範』)、長政の遺伝かもしれない。
■細身のイケメンはウソ
さて、信長はどうだったといえば、ルイス・フロイス『日本史』によれば〈中くらいの背丈で、華奢な体躯〉(松田毅一・川崎桃太訳)だったというから、長政と相撲などとったら最後、信長は勝てないどころか、押しつぶされてしまっただろう。
歴史ドラマや映画で描かれる浅井長政は、たいてい細身のイケメンと相場が決まっており、「豊臣兄弟!」の中島歩も、その流れを踏襲している。江戸時代に書かれた『祖父物語』などで「天下一の美人」と讃えられた市の夫で、信長がかわいい弟に裏切られる、ということから、釣り合いをとるためにそういう設定になったと思われるが、それはここ何十年かでつくられたイメージにすぎない。
では、長政はなぜ義兄の信長を裏切ったのだろうか。その理由は、これまで概ね次のように説明されてきた。浅井と朝倉はかなり以前から同盟関係を結んでいて、同盟相手の朝倉を織田が攻める以上、浅井は朝倉につくしかなかった――。だが近年は、浅井が朝倉と事実上の同盟関係を結んだのは、織田と同盟を結んだのとほぼ同時期だったと考えられている。
だから、長政は「豊臣兄弟!」のように、かなり迷ったにちがいない。その末に、朝倉を選んだのはなぜだろうか。
■裏切りの原因は信長にある
「豊臣兄弟!」の時代考証を務める柴裕之氏はこう書く。
〈浅井氏はこの時、織田・朝倉両家と両属関係を持つ国衆であったことは間違いない。/そしていま、浅井が関係を持つ織田・朝倉両氏が抗争することになった。
二者択一の決め手はなんだったのだろうか。太田浩司氏は、先に引用した信長の毛利元就への覚書にヒントを見出す。あの覚書には、〈近年別て家来せしむるの条〉(近年、自分の家来にして)と記されていた。それについて、太田氏はこう指摘する。
〈信長は浅井を家臣だと思っていたのである。浅井側にしてみれば、独立した一大名でありながら、秀吉や光秀同様、信長の家臣として扱われる。これが、どうしても許せなかったのだろう。浅井氏は一信長の家臣となることを拒むために、挙兵したと考えるべきだろう〉(『浅井長政と姉川合戦』淡海文庫)。
信長は〈深重隔心無く候き〉(心隔たりなく付き合ってきたのに)と、長政の裏切りがまったく腑に落ちていないようだったが、要は慢心から、心隔たりなくしすぎたということではないだろうか。家臣のようにあつかわれたら、浅井家の家臣にも示しがつかなかったことは、容易に想像がつく。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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