■「浅井長政の裏切り後」は食傷気味
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、信長(小栗旬)の天下取りの日々と、その過程で次第に出世していく藤吉郎(池松壮亮)と小一郎(仲野太賀)の姿が描かれている。4月12日に放送された第14回「絶体絶命!」では、ついに定番の名エピソード・浅井長政(中島歩)の朝倉方への寝返りが描かれた。
このエピソードを描かずして兄弟の物語はあり得ない。長政の裏切りによって越前の朝倉義景(鶴見辰吾)との挟み撃ちの危機に陥った、信長の脱出行である金ヶ崎の退き口。ここで藤吉郎が、自らしんがりを買って出て犠牲を払いながらも成功を収める姿が、秀吉ものの作品の定番だ。
そこまではいい。でも、これまで多くの映画やドラマ、マンガや小説などで秀吉に触れてきた経験からは、いささか食傷気味である。なぜなら、さまざまな演出や作者の解釈が加えられたとしても、長政の裏切りから先の物語は、なんか段取り通りに動いている感を拭えない。
この後、姉川の戦い、比叡山焼き討ち、朝倉氏の滅亡、そして、小谷城での浅井氏の滅亡……。なんか信長と秀吉(と、秀長)のさまざまなドラマを描く背景として、雑に処理されているようにみえる。
■朝倉氏が「当て馬」で終わりそうな気配
長政はまだいい。なぜなら、お市の方をはじめ娘の三姉妹という強烈なヒロイン格が存在する。なので、ドラマとしてはいくらでも創作を加えて、盛り上げることはできる。
これに対して、朝倉氏はなんかキャラクターが弱い。今回「豊臣兄弟!」で義景と共にキャラクター紹介に登場している主要人物は、朝倉景鏡(池内万作)だけ。ネタバレしてしまうと、この男、土壇場で主人である義景を裏切る。しかも逃げてきた義景の一族を自害に追い込み、首級を信長に差し出して本領を安堵されたという、卑劣な裏切り野郎である。しかも、それでのうのうと安泰に生涯を送れるはずもなく、最後は一向一揆に攻められて死亡……。まさに因果応報。
このほかにも、これから描かれるであろう信長の越前攻め、「信長絶対殺す」という使命感だけで生きている斎藤龍興が朝倉勢として立ちはだかったり……。歴史上は敗北したとはいえ、一筋縄ではいかないヤツらが満載なのだ。
なのに、今回の「豊臣兄弟!」でも、そこまで熱く描かれる気配はない。
いやいや、別に朝倉氏は越前に引きこもっていた田舎のボンクラ大名ではない。本拠地である一乗谷は、京から逃れてきた公家や文化人によって独特の文化が築かれ、いまでは発掘調査により、繁栄した戦国時代の城下町であったこともわかっている。
■「愚か者」のイメージは遺跡のせい
にもかかわらず、なぜにここまで朝倉氏の評価は低いのか。
その理由は明確である。上洛もせず、越前に引きこもっていたためである。しかし、なぜ朝倉氏は上洛しなかったのか。そこには、単なる臆病や怠慢では片付けられない理由がある。それは、そもそも上洛する理由がなかったからである。
だいたい朝倉氏が「引きこもり大名」すなわち、愚か者みたいなイメージを持たれているのは、だいたい一乗谷遺跡のせいである。
この遺跡、とにかく訪問するのが一苦労。鉄道なら、JR福井駅から越美北線で15分、一乗谷駅で下車し、バスで10分ほど……まあまあ近い! ただし福井駅からの電車は一日8本、それも福井駅発午前9時40分の次は13時6分。
いや、待ってほしい。一乗谷が「辺鄙」というイメージ自体、完全な誤解である。そもそも一乗谷が朝倉氏の本拠地になったのは、戦略的な必然があった。足羽川支流の一乗谷川に沿って南北約3キロにわたって平地が連なり、川沿いの交通は至便。しかも三方を山に囲まれた谷地形は、少ない兵力で守りやすい天然の要塞でもある。
つまり、朝倉氏は、山の中に引きこもったのではなく、使いやすくて守りやすい場所を賢く選んだのだ。
■「辺鄙」は後付けの偏見だ
むしろ「辺鄙」というイメージは、朝倉氏滅亡後に生まれた後付けの偏見にすぎない。
信長に焼き討ちされた一乗谷は完全に放棄され、柴田勝家が新たな本拠を北ノ庄(現・福井市中心部)に置いたことで、一乗谷は文字通り田畑の下に埋もれた。その廃虚ぶりが、いつしか「最初から僻地だった」みたいな、印象にすり替わっただけである。
いってみれば、焼け落ちたのが一乗谷の「せい」にされた格好だ。栄えていた頃の姿は灰燼に帰し、残ったのは谷の静寂だけ。
だが発掘調査が示す事実は真逆だ。整然と区画された武家屋敷と町屋、複数の庭園、東南アジア産の陶磁器やヴェネツィアングラスまでもが出土しているのである。
ヴェネツィアングラスである。現在のイタリア、ヴェネツィアで作られたガラス容器が、越前の山あいの谷から出土している。大航海時代のヨーロッパ製品が、どういう経路をたどったかはわからない。だが確かに、この「辺鄙な谷」に届いていた。
■越前と琉球をつなごうとしていた
しかもそれは偶然の産物ではなかった。永禄10年(1567年)、朝倉義景は薩摩の島津義久に書状を送り、琉球を経由した南海貿易への参入を打診している。
東京大学史料編纂所が所蔵する島津家文書(架番号S島津家文書二-二五-四)がそれで、同所第36回史料展覧会図録にはその釈文が収録されている(東京大学史料編纂所編『東アジアと日本・世界と日本』〔第36回史料展覧会図録〕、2013年)。
今度琉球渡海勘合之儀、本望、御同心之旨、令申候処、仍太刀一腰・馬一疋、送給候、悦入候、猶永興寺可有御演説候、渡船之刻候、必期、御入魂之故候、種々御懇切之由、殊使者在国中、恐々謹言
七月廿三日 左衛門督義景(花押)
謹上 島津修理大夫殿
琉球への渡海勘合(貿易許可証)について、義景が島津側の「御同心」すなわち仲介への同意に謝意を述べ、太刀と馬を贈った返礼状である。これは義景が、日本海航路の北端に位置する越前と、東シナ海交易の結節点である琉球をつなごうとしていたことを示すものだ。
そもそも越前は、奈良時代から「大国」に分類された国である。古代の律令制度が国力に応じて国を大・上・中・下の四等級に分けた際、越前は大国の筆頭格に位置づけられていた。その豊かさの源泉は、越前平野の高い農業生産力と、敦賀を軸とした交通の要衝という二本柱にある。
■5代義景にかけて「むしろ成長・発展」
敦賀は日本海側と京都を結ぶ物流の結節点だった。朝倉氏はここに舟座(川舟座・河野屋座)を置き、保護する代わりに公事銭を徴収するという形で交易の利権を直接握った。国が安定するにつれ、敦賀や一乗谷周辺には商業・手工業が発展し、越前和紙や絹織物といった特産品の生産と流通も盛んになった。
こうして5代にわたって積み上げられた富が、義景の広域外交を支えた。南は薩摩の島津氏を通じた琉球貿易への参入に加え、さらに北は安東氏との交易も目指していたとされる。
ところで義景といえば、「上洛しなかった引きこもり大名」「信長に滅ぼされた凡将」というイメージが定着している。武田信玄に痛烈に批判されたこともその一因だ。しかし最近の研究は、このイメージを正面から覆しつつある。
横田拓也「朝倉氏による越前国支配構造の確立と変容」(『都市文化研究』第27号、大阪公立大学、2025年3月)では、朝倉氏五代の発給文書を網羅的に分析し「朝倉氏の支配は5代義景にかけてむしろ成長・発展していた」として、こう結論づけている。
5代義景は、越前国内の実質的・普遍的な支配を奉行人に委ねるようになり、文書システムが整えられ、当主を中心とした朝倉氏の支配は最盛期を迎えた。
■強敵だった「加賀一向一揆」
「暗君」どころか、義景の代に朝倉氏の統治機構は完成の域に達していたのである。つまり、一乗谷を本拠地として、交易ルートも確立させて国を富ませている最中であり、わざわざ将軍を擁立して上洛をする必要がどこにもなかったわけである。
これに加えて朝倉氏には代々「上洛? そんなことやってる場合か‼」というのっぴきならない事情もあった。豊かな国であれば、当然それを狙うライバルもいる。そして、朝倉氏には、信長なんか比べものにならない強敵がいた。北の加賀を支配する一向一揆である。
加賀一向一揆との対立は、義景の代に始まったことではない。初代孝景の時代から続く、朝倉氏にとって文字通り百年来の宿敵であった。
そもそも加賀国とはどういう国か。文明6年(1474)、一向一揆が守護富樫氏を滅ぼして以来、約100年にわたって「百姓の持ちたる国」として一向一揆が支配する、戦国時代でも類を見ない異形の国家である。守護もいない、大名もいない。本願寺を頂点とした宗教共同体が、武装した農民・町人を束ねて一国を丸ごと支配しているのだ。
この怪物が、越前の真北に居座っていた。
■繁栄期間のほぼすべてで、一向一揆と対立
つまり、義景にとって信長なぞは「最近出てきた新興勢力」にすぎない。
朝倉氏が本当に恐れ、本当に憎み、そして本当に手を焼き続けたのは、この加賀一向一揆だった。
朝倉氏は、その繁栄の期間のほとんどすべてで一向一揆と対立している。永正3年(1506)、一向一揆はついに越前に大挙侵攻した。朝倉軍は九頭竜川を挟んで迎え撃った。川を挟んだ一進一退の攻防、これは単なる国境紛争ではない。越前という国そのものの存亡をかけた戦いだった(辻川達雄『本願寺と一向一揆』誠文堂新光社、1986年)。
この戦いはその後も形を変えながら延々と続く。義景の代になっても状況は変わらない。加賀・越中・越前の三方面で戦線を維持しながら、朝倉氏は一向一揆の圧力を受け続けた。名将と名高い朝倉宗滴(教景)が生涯をかけて加賀への反攻を試みたが、それでも根本的な解決には至らなかった。
そこへ、永禄9年(1566)秋、ひょこひょこと一人の男が越前にやってきた。足利義昭――室町幕府最後の将軍となる男である(当時は義秋)。兄の将軍義輝を三好氏に暗殺され、あちこちを流浪した末に、義景を頼って越前に転がり込んできたのだ。最初は敦賀に置かれ、翌年の冬にようやく一乗谷への移住を許された。義景の「こっちに来るな」という本音が透けて見えるような経緯である。
義昭の要求はシンプルだった。「上洛させてくれ。将軍にしてくれ」である。義景としては、悪い話ではない。足利将軍を擁立して上洛できれば、天下に号令する大義名分が立つ。義景も当初は乗り気だった。そして義昭が一乗谷に滞在している間に、加賀一向一揆との間でなんとか和睦がまとまった。
■「越前の王」の世界線があったかもしれない
だが、考えてみてほしい。
百年来の宿敵と和睦がまとまった。それはいい。しかしその和睦が本物かどうか、誰が保証できるのか。今日和睦を結んだ相手が、明日また越前に攻め込んでこないとどうして言えるのか。朝倉氏は骨身に沁みて知っている。一向一揆との戦いに「解決」などというものはない、と。
ようするに朝倉氏は、静岡県民のソウルフード「さわやか」や、長野県のラーメンチェーン「みんなのテンホウ」のようなものである。
みんなのテンホウはかつて筆者が社長に取材した際、すかいらーくから全国展開を打診されたが断ったと語っていた。地元で圧倒的な存在感を誇り、地元で愛され、地元で完結している。全国展開など眼中にない。それの何が悪いのか。
信長に滅ぼされたから「負け犬」扱いされるが、滅ぼされなければ越前の王として悠々と君臨し続けたはずだ。「なぜ上洛しなかったのか」ではなく、「上洛する必要がどこにあったのか?」朝倉氏の歴史を丁寧に辿れば、そう問い直したくなるのである。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)

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