■秀吉の寵臣たちが散るなか、高虎だけが残った
藤堂高虎は、歴史ファンの間でとても人気のある武将だ。その理由は主に「築城の名人」だったことにある。
宇和島城・今治城・伊賀上野城など、高虎が築城に関与した城は壮大な石垣で知られ、また津城の多聞櫓(たもんやぐら)(石垣の上に建った長屋状の櫓)、丹波亀山城の層塔型天守(そうとうがたてんしゅ)(塔を積み上げた高層天守)の素晴らしさは伝説である(多聞櫓と層塔型天守はともに明治時代に解体されたが、古写真が現存する)。
だが、高虎がこれらの城の建設・修築に関与したのは豊臣秀吉・秀長の兄弟が死去した後だった。現在放送中のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」より後の時代である。
そもそも高虎は、豊臣秀長の家臣となったことで歴史の表舞台に登場し、才能を開花させた男だった。秀長に出会う以前は、仕えていた家中でさまざまな騒動を起こしては出奔、あるいは追い出され、そのたびに主君を替えるという変節を繰り返した問題児だった。
そのトラブルメーカーが、秀長という人物との邂逅(かいこう)によって頭角を現し、過酷な戦国時代から家康・秀忠2代にわたる徳川幕府黎明期を生き抜いたのだから、人の巡り会いは本当に不思議だ。
現代では非常に知名度の高い戦国武将であり、ファンも多い。「豊臣兄弟!」でもキーマンの1人と目されている。
高虎とは何者なのか。石田三成や加藤清正、福島正則ら秀吉に愛された武将たちが次々と挫折・失脚し、さらに豊臣まで滅亡するなか、なぜ高虎が基礎を築いた藤堂家は幕末まで安定した藩であり得たのか――。
■築城名人の過去は「問題児」
藤堂高虎の出自は、実は曖昧だ。通説では弘治2(1556)年、近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町)の生まれで、父は虎高といい、近江浅井氏に仕えていた。虎高は藤堂家に婿養子として入った人物で、妻は浅井家の幼女となって虎高と結婚したと伝わる(高虎関連史料『高山公実録』『老臣書上』より)。
高虎は次男だった。のちに藤堂家に仕えた玉置之長という人物が残した『玉置覚書』によると、乳母1人の授乳では足りず2人を加えたが、それでも不十分だったため、家臣の妻たちからも乳をもらうほどの大食漢だったという。おまけに泣き声は大きく、行いは乱暴。成人してからの身長は六尺二寸(約190cm)だったという。
永禄12(1569)年、織田信長が伊勢に侵攻する際に起きた大河内城の戦いで、高虎の兄が戦死する。主君の浅井が織田と同盟を結んでいたため、援軍として赴いた戦いだったという。これによって、次男の高虎が藤堂家の家督を継承することになった。
「豊臣兄弟!」4月12日放送回で、浅井長政の寝返りによって織田信長が窮地に陥る「金ヶ崎の退き口(のきくち)」が描かれるが、このとき高虎は浅井に仕えており、織田・浅井同盟が破綻したのちも浅井方として、姉川の戦い(元亀元/1570年)などで活躍した。
元亀元年の高虎は15歳。初陣だった可能性もある。
元亀3(1572)年、17歳だった高虎は浅井家中で山下某という者とトラブルを起こし、斬り殺してしまう。何が原因で揉めたかは不明だか、家臣同士の刃傷沙汰はご法度だった。高虎は出奔し、浅井家臣の阿閉貞征(あつじさだゆき)の下に身を寄せた。「ろう人分」、つまり正規の家臣ではなく牢人として雇われたという。
こうして高虎は浅井の家来ではなくなった。
■手を出すのも早く、主君を見限るのも早い
高虎は阿閉の下でもまた2人を斬り殺し、退去せざるを得なくなった。天正元年(1573)のことだった。理由はまたもや不明だが、喧嘩になると即座に相手に斬りかかる凶暴な資質が見て取れる。
若気の至りで済む問題ではないだろう。
次に高虎が頼ったのは元浅井重臣の磯野員昌(いそのかずまさ)だった。磯野は元亀2(1571)年、浅井方として信長と8カ月に及ぶ戦いの末に降伏し、織田に服属して近江国高島郡(滋賀県高島市)を与えられていた。そこに高虎が転がり込んだ。
推測に過ぎないが、この時点で高虎には、織田と浅井の戦いの行く末が見えており、浅井から織田へ鞍替えしたと見ることもできる。磯野もまた、織田家中の新参者として、武勇に長けた高虎のような人材が必要だったのかもしれない。双方の思惑が合致したのではないだろうか。
高虎が磯野の配下にいた天正元年9月、浅井長政が自刃し、浅井氏は滅びた。結果から見れば、高虎が磯野に仕えたのは生き残るうえで正しい選択だった。
■高虎の才能を見抜いた秀長
天正2(1574)年になると、磯野の元に信長が自分の甥(弟・信勝の子)である信重(のぶしげ)を養子に送り込んできた。この養子が、のちの津田信澄(つだのぶずみ)である。
ところが、高虎はまたしても信澄の下を出てしまう。理由は「納得できないことがあった」(『高山公実録』)から。「豊臣兄弟!」の時代考証を務める歴史学者の黒田基樹氏は『藤堂家覚書』に、当時80石の知行だった高虎が「加増してくれるよう信重に要請したものの、できないと返答され、それを受けて退去」と書かれている点を指摘している。
それに対して、300石を持って高虎を召し抱えたのが、羽柴秀長だった。天正4(1576)年のことだった。高虎の力を高く評価し、信重の4倍近い禄で遇したわけだ。
とはいえ、高虎の前主君・信重は信長の甥、すなわち織田一門である。兄の秀吉が織田の重鎮に成長していたとはいえ、一門衆とは身分に格差もあった。その垣根を越えて高虎をいわば“引き抜いた”のだから、秀長の剛腕ぶりは際立っていよう。
高虎にとっても、ようやく(この時点での)“安住の地”を見つけた思いだったかもしれない。実際には秀吉・秀長の死後、高虎はまたもや主君を徳川に鞍替えするのだが、それは先の話だ。
■槍から城へ才能を広げた豊臣時代
秀長が高虎を召し抱えた理由は何だったのだろうか。
事実、高虎は天正8(1580)年頃から羽柴軍の三木城攻めで戦功をあげ、続いて鳥取城攻略では先陣を務めている。
そして運命の本能寺の変(天正10/1582年)を経て、山崎(対明智光秀)、賤ヶ岳(対柴田勝家)、小牧・長久手(対徳川家康・織田信雄)、紀州征伐(対雑賀衆)の各合戦に従軍し、着々と地位を高めていった。
紀州征伐に勝ったことで秀長が紀伊を統治すると、粉河(こかわ)(和歌山県紀の川市)に1万石を拝領した。
高虎が普請奉行を命じられ、猿岡山(さるおかやま)城の改修や和歌山城の築城に関わったのは、この時期である。和歌山城は高虎が手がけた最初の本格的な近世城郭といわれているが、どの程度関与したのか、正確にはわかっていない。
また、豊臣政権下では京・聚楽第(じゅらくてい)の内にあった徳川家康の屋敷を建設する際、渡された縄張のままでは警備上に難点があるとして、自費で門の造営を差配したという。このことに家康が感謝し、後々まで高虎を信頼したと伝わっている。
この他にも大和郡山城の拡充や、建築用の木材を熊野の山中から調達する仕組み作りなどに関与した、といわれている。
そうだとしたら、のちに「築城名人」と呼ばれる萌芽をこの時代に培った、と考えても良いように思う。
■戦場の外でも強かった
豊臣政権下の高虎に目立つのは、築城より外交手腕だろう。例えば前述の聚楽第の件も、家康との外交の一環といえる。
家康との外交でいうと、小牧・長久手の戦いで和平交渉がまとまった際、次の重要な案件は、家康が羽柴に差し出す人質だった。この人質交渉の調整役を担ったのが高虎ではなかったかと、戦国史研究家の諏訪勝則氏が述べている。なお、このときの人質が結城秀康である。
また天正13(1586)年、秀長は秀吉の命の下、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を攻めた。元親がこの戦いに降伏したのが同年7月。和平交渉は蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)が担当したという説があるが、黒田基樹氏は高虎も関与していた可能性を指摘している。
というのも、このとき秀吉が秀長に宛てた長宗我部の処遇を記す覚書が、『藤堂文書』として藤堂家に残っているからだ。黒田氏はこのことを、覚書の条件を元親にのませたのが高虎だったからではないかと考えている。
とするなら、高虎は高度な政治交渉術も兼ね備えていたことになるだろう。
このように高虎は若い頃は血気盛んで、ともすれば即座に相手を斬り殺す無謀な行為も辞さなかったが、秀長との出会いによって居場所を見つけると、次第に軍事一辺倒から外交や、対人折衝へも才能を発揮しはじめ、同時に築城術にも磨きをかけていったとわかる。
■“天性の嗅覚”で誰よりも出世した
もともと多方面にわたって能力を振るうことができる逸材だったのだろうが、秀長と邂逅する以前の主君たちは、その才能に気づかなかった。若く、粗暴だったのだから、それも仕方ない。
しかし、時代は血筋や家格ばかりにとらわれず、能力があればのし上がっていける人材を求めていた。近江の土豪から出てきた高虎も、自分を“高く買ってくれる主君”の出現を待ち望み、そのために主家を渡り歩いたとも見て取れる。
つねに強い方につく“世渡り上手”な一面を否定的に見る人は少なくない。高虎は人気のある武将だと書いたが、昭和の頃は主君を平気で見捨てる打算的な変節漢と、ネガティブに見る向きもあった。
高虎は確かにそうした非情な一面を持っていた。だが、情勢の変化をいち早く察知する高い政治センスは、“天性の嗅覚”ともいえる。さらに、その嗅覚をもって常に「勝つ側」につく選択をできる。
藤堂家は慶長13(1608)年に移封されて津藩主となって以降、外様でありながら幕府の介入も、これといった御家騒動もなく世襲によって藩は安定運営され、幕末の戊辰戦争では、真っ先に新政府軍に与した。
俗説だが「藤堂家は藩祖・高虎の(裏切りの)教えを脈々と受け継いでいた」と皮肉まじりに噂されたという。仮にそうであったとしても、誹られることだろうか。
情勢を読み、勝つ方につくという藩是(方針)が徹底されていたとしたら、むしろ強みとして誇示しても良いとさえ、個人的には思う。
藤堂高虎は、今こそ再評価したい人物ではないだろうか。
参考文献
・黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち 秀吉兄弟の天下一統を支えた18人』(角川選書、2025年)
・黒田基樹『羽柴秀長と藤堂高虎』(NHK出版新書、2025年)
・諏訪勝則『図説 藤堂高虎』(戎光祥出版、2025年)
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小林 明(こばやし・あきら)
江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表
編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。
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(江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

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