サッカー選手のデータの中で得点数はよく話題に上がるが、その一方でそれを何試合で達成したのかという「得点率」も重要なものだ。
今回は『The Football Faithful』から「代表チームにおいて、国際Aマッチでのゴール率が最も高いサッカー選手」のランキングをご紹介する。(※ただし、50ゴール以上の選手のみが対象になっているとのこと)
5位:釜本邦茂
代表:日本
成績:76試合75ゴール
日本代表における伝説的なストライカー、釜本邦茂。統計の取り方によってデータは異なっているものの、JFAの発表によれば76試合の出場で75ゴールを決めたと伝えられている。
早稲田大学在学中の1964年に代表デビューを果たし、4年後のメキシコ五輪では全試合に出場して7ゴール。得点王に輝き、チームを歴史的な銅メダル獲得に導いた。
キャリアを通して日本の年間最優秀選手賞を7回も獲得し、引退後もヤンマーディーゼルや松下電器(ガンバ大阪)の監督や日本サッカー協会副会長を務めるなど、同国のサッカーに大きく貢献。2025年8月10日に肺炎のため惜しまれながらこの世を去ったが、その記録は今も日本サッカーの歴史に刻まれている。
4位:ゲルト・ミュラー
代表:西ドイツ、ドイツ
成績:62試合68ゴール
「デア・ボンバー(爆撃機)」の異名をとった、ドイツの歴史上最高のストライカー。176cmと決して体格には恵まれていなかったものの、ペナルティエリアでの駆け引きとポジショニング、巧みなターン、卓越したシュートセンスで同世代の誰よりもゴールを量産した。
主にバイエルン・ミュンヘンでプレーした彼は、ドイツ・ブンデスリーガで通算453試合に出場して398ゴールを奪取。キャリアで7回もの得点王を獲得している。
さらに代表では8回ものハットトリックを達成するなど62試合で68ゴールを記録。ワールドカップでも2大会しか出場していないにもかかわらず通算14ゴールという圧倒的な数字を残している。
3位:シャーンドル・コチシュ
代表:ハンガリー
成績:68試合75ゴール
フェレンツ・プスカシュらが中心となった伝説のハンガリー代表「マジック・マジャール」。その一員であったシャーンドル・コチシュは、なんとA代表68試合で75ゴールを決めたというストライカーだ。
1950年から1954年まで32試合無敗(33試合という説もある)という信じられない記録を作り上げたチームの中心となって活躍し、1954年のワールドカップでは2回のハットトリックを含む11ゴールを奪って得点王となった。
数々のタイトルを獲得したあと、1966年に現役引退。その後はバルセロナでレストランを経営しながら指導者として活動していたが、白血病と胃癌との闘病の末、49歳という若さで病院の4階から転落して死去している。
2位:アーリング・ハーランド
代表:ノルウェー
成績:46試合51ゴール
まだ25歳という若さであるが、すでにサッカーの歴史に名を残すような記録をいくつも刻んでいるアーリング・ハーランド。10月11日に行われたイスラエル戦でハットトリックを決め、「国際Aマッチにおいて最速で50ゴールに達した選手」となった。
2019年のU-20ワールドカップでホンジュラスを相手に1試合9ゴールを決めて大きな話題を集め、その後トントン拍子でステップアップを進めた。
レッドブル・ザルツブルク、ボルシア・ドルトムント、そしてマンチェスター・シティ。それぞれのクラブで傑出した記録を残し、現在も他の追随を許さない得点力を見せつけている。
1位:ポール・ニールセン
Poul Nielsen of Kjøbenhavns Boldklub scored 382 official goals (RSSSF) in his career including 23+ hat-tricks. In the 1910/1911 Copenhagen Championship, “Tist” scored 47 goals in 10 games, which is unofficially the best goal to game ratio in a league campaign. Fantastic!!! pic.twitter.com/NruCWwXsgO
Brent Fredericks (@FredericksBrent) January 12, 2024
代表:デンマーク
成績:38試合52得点
アーリング・ハーランドの得点率を大きく上回っているのは、同じスカンジナビアの国が産んだ伝説的なストライカー、ポール・ニールセンだ。その数字は38試合52得点という凄まじいもので、いまだデンマークの最多タイ記録(ヨン=ダール・トマソンと並ぶ)となっている。
キャリアを通してKBでプレーした彼は、1910年にデンマーク代表でのデビューを果たし、それから15年間に渡って中心的な選手として活躍。1925年に国際試合を引退するまで7~8回のハットトリックを達成したという。
この時代にはまだワールドカップが存在しなかったため、彼が出場した国際大会は1912年のストックホルムオリンピックだけであったとのこと。
※選出基準は、各選手の実績に基づきながら筆者またはメディアの主観的判断も含んでおります。

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