
昨夏、大きな決断をした青年がいた。
当時J3大宮アルディージャ(現J2・RB大宮アルディージャ)に所属していたMF種田陽(はるひ、アメリカNCAA・マーシャル大)は、昨年1月にトップチーム昇格を果たしたばかりのチームを同年5月に退団した。
契約解除とともに発表された大宮アカデミー出身の逸材が選んだ前例のない進路に、多くのファンが驚いた。
近年は十代の選手がプロ契約後すぐに欧州のリーグへ挑戦するケースも珍しくない。
だが、種田が選んだ進路は“アメリカの大学への進学”だった。
大宮でプロサッカー選手としての第一歩を踏み出した種田はなぜ、アメリカの大学行きを選んだのか――。
(取材・文・構成 縄手猟)
マーシャル大でプレーする種田(写真中央、Getty Images)『海外で活躍する選手』になるために
「いま実際に自分がアメリカにいることは、高2の自分からすると予想できなかったと思います」
髪を金髪に染め、初々しかった大宮時代から華やかさを増した種田が、アメリカの大学へ進学した経緯を語り始めた。
2022年の夏、当時高校2年だった種田は、日本の大学に進学するか、大宮のトップチームに昇格するかの二択で悩んでいた。
進路に悩む高校生に、アメリカの大学行きを紹介したのは種田の父の知人である中村亮氏(株式会社WithYou代表取締役)だった。
種田は「最初はアメリカの大学に行く気持ちにはなっていなくて、選択肢としてあることを教えていただきました。ただ、僕は将来の目標として『海外で活躍する選手』を目指しています。そのためには英語が必要になってきます。そこで大学生のうちから英語に触れて、アメリカで勉強しつつ、サッカーも高いレベルでやれて、なおかつ大学も卒業できる点が、自分にとって一番ベストな選択だと思いました」と、アメリカの大学行きの理由を語った。

同国の大学進学に大きなメリットを感じた種田は、高校3年の夏に初めて渡米し、現地でトライアウトを受けた。
大宮U18で背番号10を背負っていたMFは、持ち前のドリブルスキルで他を圧倒。
その後、日本で開催されたトライアウトに参加した種田は、ここでも抜群の存在感を示した。
「アメリカのときは、かなり(オファーが)多かったらしいので、エージェントからすべては聞いていません。数十大学以上あったと聞きました。その中で厳選して教えていただいたので、自分は詳しくは分かりません。
日本のときは10校以上の大学が来て、そのすべての監督が大宮のトップチームの練習場まで自分を見に来てくれました。そこに来ていた全大学のスカウトからオファーをもらいました」と、仰天エピソードを明かした。
トライアウトでひときわ輝きを放ったドリブラーだが、当時はまだ新たな挑戦と、育ったクラブへの情愛との間で心が揺れていた。
挑戦とクラブ愛の間で葛藤
アメリカの複数の大学から関心を受けた種田だったが、すぐに海を渡る決断ができたわけではない。
同選手は当時、大宮の2種登録選手としてトップチームにも登録されており、アメリカでトライアウトを受けた同時期に、プロ契約の打診も受けていた。
小学4年から大宮のアカデミーで育った背番号10にとって、自分を育ててくれたクラブからの打診を、そう簡単に断れなかった。
「正直、葛藤はありましたね。(大宮に)残ってプレーする気持ちは最後までありました。
それでも種田は、当時の実力ではトップチームのポジションを勝ち取れる保障はないと感じた。
「だったら、もっと新しい挑戦をして、違う世界も見てみたい」と考えたMFは、渡米を決断。アメリカ大学サッカーの名門マーシャル大へ進学した。
また、欧州のリーグへの挑戦も「なかったわけではない」と明かしたが、英語を学びながら「段階を追って成長したい」という気持ちが強かった。

ただ、マーシャル大の入学時期は2024年8月から。アメリカの大学トップリーグであるNCAAの開幕も同月からとなる。
種田が大宮に退団の意思を伝えたのは2023年冬だったため、半年以上は無所属の期間を過ごすことに。年明け以降は個人でのコンディション調整を覚悟していた。
そのとき、種田に手を差し伸べてくれた人物が、原博実フットボール本部長だった。
「原さんから『アメリカに行くまでの期間はどこでプレーするんだ』と聞かれて、そのとき僕は何もアイデアがなかった。原さんから『その期間だけでもトップチームでプレーしてみてはどうだ』と、ありがたい提案を受けました。
その後、大宮のトップチームと短期間のアマチュア契約を結んだMFは、公式戦3試合に出場。J3・FC岐阜とのルヴァンカップ1stラウンド1回戦では、勝ち越しゴールを決めて、チームの勝利に貢献した。

プロの舞台で経験を積んだ高卒ルーキーは、2024年6月1日にホームで行われたJ3第15節AC長野パルセイロ戦でサポーターに別れを告げ、大学が所在するアメリカ・ニューハンプシャーへ飛んだ。
次項では、名門マーシャル大のレベルやアメリカでの生活について話を伺った。
すると、意外な選手とのつながりも見えてきた。
世界的名門クラブ出身選手としのぎを削る日々
トライアウトで数十校の大学からオファーを受けた種田は、全米屈指のサッカー名門校マーシャル大へ入学。
同大を選んだ理由について、「(マーシャル大の)サッカーのレベルは全米でトップを争うレベルです。トップレベルの選手が集まるので、そこが魅力的でした。日々の練習の中で成長できる環境があります。
それと、ほとんどのアメリカの大学は日本のプロ以上に環境設備が整っていて、マーシャル大もかなり環境がいい。特にこの大学はサッカー部が強いので、大学がいろいろな投資をしてくれています。
あとはオファーの内容が良かったです。授業料が無料だったり、寮や食費など、生活のバックアップをしてくれる体制が整っていました。

昨夏にマーシャル大サッカー部へ入部したチャンスメイカーは、日々レベルの高さを実感しているという。
アメリカの大学サッカーは、全米チャンピオンを狙う名門校ともなれば、世界各国から優秀な人材をスカウトしている。
過去には、プレミアリーグの名門マンチェスター・ユナイテッドの下部組織出身である元U-21イングランド代表FWジャック・ハリソン(プレミアリーグ・リーズ)が、アメリカのウェイク・フォレスト大でプレーした。同選手はその後、MLSニューヨーク・シティからドラフト指名を受けてプロデビュー。2018年からは母国に戻り、現在もプレミアリーグの舞台で戦っている。

マーシャル大も、レアル・マドリーやアトレティコ・マドリー(以上スペイン1部)、シャルケ(ドイツ2部)、フラメンゴ(ブラジル1部)など、世界的名門チームの下部組織出身者がポジションを争う。
それでも同大は昨季、全米王者を決めるNCAA D1全米チャンピオンシップの決勝でバーモンド大に敗れて涙を飲んだ。
世界中の名門チームで育成された選手が集う環境は、種田に思わぬ縁をもたらした。
今年からマーシャル大サッカー部に入部した前レアル・マドリーCのスペイン人FWダヴィド・デ・ラ・ヴィボラとは特に仲がいいという種田。
「自分はレアルから来たデラと仲が良くて、ご飯もよく行きます。この前、僕が日本のカレーライスをつくりました。

種田はマーシャル大卒業後、JリーグかMLSでプロデビューするイメージを持っているという。将来的には欧州5大リーグでの活躍が目標だ。
「将来的にヨーロッパ5大リーグでプレーできたらいいと思います。自分のプレースタイル的にはスペインのサッカーが合うかなと。でも、5大リーグで活躍できれば、自分を一番評価してくれるところに行きたいです」
種田が近い将来にスペインへステップアップできれば、まだ直接会ったことはないという中井との共演も実現するかもしれない。
また20歳のMFは、サッカー選手としての成功を目指しながら、毎週大学の講義に参加してスポーツビジネスを学んでいる。「昔からビジネスには興味があった」と言う種田は、現役引退後は“商業大国”アメリカで得た知識や人脈を生かしたいと考えている。
今後のキャリア設計をしっかりと見据えている聡明な同選手だが、まだやり残したことがある。
最終項では、種田が古巣・大宮で歩んできた軌跡と、今季の目標について語った。
「いつか恩返しをしたい」
種田は小学4年のときに、大宮アカデミーのセレクションを受けて見事に合格した。
「実家が浦和なんですけど、(J1浦和)レッズは受けませんでした。(周りは)レッズのファンばかりで、アルディージャのファンはほぼいなかったです。友達からは『浦和で育ったのに、なんでレッズじゃないんだ』と言われました(笑)」
赤一色の街で生まれ育ちながら、あくまでも“プロサッカー選手になる”という夢を追い求めて、育成に定評がある大宮の下部組織へ入団した。
種田が大宮ジュニアに入ると、一足先にセレクションに受かって入団したDF市原吏音(りおん、大宮)がいた。
2005年生まれで同学年の二人はその後、種田は背番号10、市原は守備の要として、ともに大宮ジュニア、U15、U18の各世代のチームで中心選手に成長した。

また市原とは同じ高校に通い、高校1年のときにはクラスメイトとして過ごした。
「(市原と)ジュニアから一緒だったので、学校まで一緒になるのはちょっと違和感がありました。しかも同じクラスだったので、『なんで同じ学校にいるんだろう』という不思議な感じがしました(笑)。
最初は違和感があったんですけど、1年のときは一緒のクラスだったので、昼はかたまってご飯を食べたり、体育祭のリレーをアルディージャ(の選手)で走ったりしたのは思い出ですね」と、青春時代を振り返った。
公私ともに仲が良い二人だが、サッカー選手としては良きライバルだ。
2023シーズンは、種田は市原とともに大宮のトップチームに2種登録選手として登録された。
だが、同シーズンにトップチームで頭角を現した市原とは対照的に、種田はU18での出場に限られた。
当時を回想したドリブラーは「正直、悔しかったです。納得がいかない部分もあって、コーチに『なんで自分もトップチームに行かせてくれないんだ』と聞きました。僕は、自分の方がやれるんじゃないかという気持ちがありましたし、早くトップチームで活躍したい想いもありました。正直、焦りましたね」と、唇をかみしめた。
それでも、コーチから「U18はお前が引っ張っていかないと駄目だ」と言われた種田は、心機一転してU18でのプレーに全力を注いだ。最終的に同チームは、U-18プレミアリーグEASTで12チーム中9位となり、なんとか残留に成功した。

翌シーズンにトップチームデビューを果たした種田は、ルヴァンカップの岐阜戦でプロ初得点を挙げた。
「小さなことですけど、少しだけでも恩返しできたかなと。そこは本当に良かったと思います。だけど、まだ足りない」と種田。
アカデミー時代から9年間を過ごし、最後まで自らの意志を尊重し続けてくれた大宮へ、いつか恩返しをしたいと考えている。
「大宮で育ってきましたが、それをクラブに恩返しできなかった。最終的には大宮でプレーして、自分を温かく受け入れてくれたサポーターの皆さんやスタッフの方々に、何か形として恩返しできればと思います」

夢の欧州挑戦へ、また愛する古巣に恩返しをするために、今後さらなる成長が求められる。まずはマーシャル大で着実に結果を残すことが重要だ。
今季から種田は、背番号を18番から10番に変更した。
「今季はありがたいことに、背番号10をいただきました。10番をもらうときにスタッフから『10ゴールぐらい決めてくれるよね。うちの大学を背負うということは、そのぐらいの活躍を期待するよ』と言われました。2年目で10番をもらえると思っていなかったので、それがいいプレッシャーになっています。
僕、10番が好きなんですよ。大宮のジュニアユース、ユースでずっと10番だったので、またこの番号をつけたいと思っていました。小学校、中学校、高校、大学と10番をつけてきたので、プロでも10番をつけたいですね」と、目標を高らかに掲げた。
大宮のアカデミー時代に背番号10を背負い続けた経験が、種田の挑戦に静かな自信を与えている。アメリカの地で再びエースナンバーを背負う青年の目は、未来を見据える。