最終盤を迎えるJ1リーグ。湘南ベルマーレは第34節終了時点で勝点26となっており、J2降格圏内の19位に沈んでいる。
残留圏となる17位の横浜F・マリノスとは8ポイント差となっており、次節の結果次第で降格が決まる絶望的な状況だ。
しかし望みが絶たれたわけではない。
今月22日、いまにも手がかじかみそうな湘南の練習拠点である馬入ふれあい公園サッカー場で「自分はベルマーレに拾ってもらった」と、残留への想いを燃やしているアタッカーがいた。
今季よりスコットランド1部のハーツから完全移籍で加入したFW小田裕太郎だ。
24歳は、異国の地でもがいていた自分を救ってくれたクラブに結果で恩返しをする。
(取材・文・構成 浅野凜太郎)
厳しい状況の中で
――きょうはよろしくお願いします。10月とは思えないくらい寒かったですね。
「しかも雨でしたよね。それなのにあれだけたくさんのサポーターが来てくれるとは思っていなかったです。サポーターの方からしたら、なかなか勝てていないので厳しいですけど、声援は僕だけじゃなくてみんなにも伝わっている。感謝しか出てこないですよ。だからこそ、プレーで返したいです」
――ここまでリーグ戦17試合勝ち無しで、次節アビスパ福岡戦で降格が決まる可能性もある。その中でもトレーニングの雰囲気は決して悪くなかったと思いました。
「きびしい状況ですけど、(山口智)監督も下を向く必要はないと言っていました。みんながそこまでネガティブになっていないのが、雰囲気にも出ているのかなと思いますね」
22日のトレーニング後にグラウンドを走る小田(写真 浅野凜太郎)――前節は3位の京都サンガF.C.に対して善戦(1-1)でした。
「もちろん勝ちたかったゲームでしたが、最後に追いつかれた。でも何というか結果は残念でしたが、前半から見ても落ち込む内容じゃなかったと思うし、そこまで悲観するべきではないと思うんです。
ただ、2得点目を取れなかったというのは課題。そこを取れれば、もっと楽に勝てたかもしれません」
――小田選手自身、ここまで苦戦しながらも調子を上げているように見えます。
「加入してからなかなか自分のプレーを出せる試合はあまりなかったですけど、それでも智さんが使い続けてくれた。試合を重ねるごとにコンディションも上がってきていると思いますし、最近は湘南でやるべきことを迷いなくやれている」
――“湘南でやるべきこと”とは。
「例えば、この場面ではこうプレーするとかそういった部分。そこはもう染み付いてきていると思います」
――以前取材させてもらったときに、パリ・サンジェルマン(フランス1部)のFWウスマヌ・デンべレ選手のプレスを参考にしていると言っていました。それはいまも継続中ですか。
「相手のディフェンダーにプレスで脅威を与えたいと思いますし、その姿勢は変わらずですね。
時期尚早だった海外挑戦
ハーツからの移籍は今年3月26日に発表され、約2年ぶりとなるJリーグ復帰となった。
J1ヴィッセル神戸の下部組織で育った小田にとって、初の海外挑戦は苦しいものだった。約2年間の在籍で、公式戦57試合7得点1アシストを記録するも、ふくらはぎの負傷をはじめとする度重なるケガに悩まされた。
小田は後にこの負傷が、ハーツ退団のきっかけにもなったと口にした。
――2023年1月11日に長年過ごした神戸からの海外挑戦が発表されました。どのような思いでしたか。
「小さいときからずっと神戸だったので、トップ昇格のときはうれしかったです。当時からメンツがすごかったので、正直『やれるのかな』と思いながらでしたね。
そのときは海外への気持ちが強かったわけではなくて、好奇心というか。海外ってどんな感じなのか、海外でやれるのかを味わってみたいと思い、ハーツに行かせてもらいました」
――当時21歳の小田選手にとって初めての海外移籍。率直にどうでしたか。
「ハッキリと言って自分には早かった。やっぱりトータルでいえばキツかったというか。もちろんハーツに加入してやれる部分もありましたけど、本当に実力不足だと感じました。ケガも多かったので、学びの方が多かったですね」
――具体的に足りなかった部分とは何ですか。
「それこそコンディション維持のところです。日本でも同じですが、特に海外ではケガで2、3試合離脱すれば、代わりに結果を残したやつに(ポジションを)奪われるという競争がある。そういった意味では一貫性が全然足りなかったですし、それは海外で絶対に必要だと思いました」
――小田選手がスコットランドでプレーしている間に、神戸はJ1を2連覇しました。
「一緒にやっていた選手もいたので、『すごいな』と思いながら悔しさもありました。改めて、この間の試合(J1第23節)ででっかいクラブだなと思いました。0-4で負けて悔しかったですけど、ファンも温かく迎え入れてくれたので、感慨深い気持ちになりました」
――スコットランドではケガに悩まされたという印象でした。
「めちゃくちゃケガしたんですよ。それこそ、この前の鹿島アントラーズ戦(J1第29節0●3)で田川亨介(きょうすけ、鹿島)くんと話をしていて『お前、またケガしたんか』って言われました。
――ハーツで共闘した田川選手は試合後に、小田選手の存在が大きかったと言っていました。
「スコットランドに行く前は日本人がいない方がいいと思っていたんです。自分でやっていく感じを楽しみにしていたから。でも、2023年の夏に亨介くんが途中から来てくれてありがたかったです」
――しかし2024年の夏に田川選手は鹿島に移籍してしまった。
「途中から来て、先に去って行ったから、『いや、置いていくんかい』と思いました」
――苦労もあったのではないですか。
「やっぱり言葉ですよね。英語の日常会話は結構いけるんですけど、ケガをしたときに意味の分からない単語が飛んでくる。あと、メディカルの設備も全然日本の方がいいので、ケガをしている間はキツかったです。あと、ご飯はやっぱり日本がうまい。それに寒いんです」
ハーツで構想外となった半年間
負傷によって本来の力を発揮できないまま、ハーツでの日々は2024-25シーズンに終わりを告げた。
苦しむ小田にハーツのニール・クリッチリー監督が「移籍していいぞ」と、事実上の戦力外通告を言い渡したからだ。
「かなりタフでした」と冬場には氷点下になるエディンバラで、小田は黙々と個別メニューを消化した。
――現地のサッカーについて教えてください。
「サッカーがマジで日本と違う。まったく別ものですし、Jリーグのレベルはとても高いと思います。例えばセルティックやレンジャーズは戦術もちゃんとしていますし、個でもクオリティの高い選手がそろっているから強い。でもスコットランド内には怪しいチームもあるんですよね」
――ハーツには約2年間在籍して今年Jリーグに復帰しました。どのような経緯がありましたか。
「それこそハーツが自分を見切った要因の一つはケガだと思います。『コイツ、ケガしかせんな』と。夏にシーズンが始まって最初はちょっと出ていましたが、そこからケガをしたときに監督が代わりました。その後にケガ明けから構想外というか、監督には『もう移籍していいぞ』と言われていました」
――「移籍していいぞ」ですか。複雑ですよね。
「Bチームではないですけど、みんなと一緒にいながらも、練習は一人だった。紅白戦にも入らずに走っていました。
――どのようなモチベーションで乗り越えたのですか。
「冬にはどこかへ行くと思っていたので、そのためにちゃんと練習しておこうというモチベーションでした」
――海外移籍も視野に入れていたのですか。
「Jリーグしか考えていなかったですね。何だかこのまま海外に行ってもとは思っていましたし、もう一回日本でやりたかった。その中で湘南が声をかけてくれました」
――神戸育ちの小田選手として抵抗はなかったですか。
「正直、そこを考える余裕はなかったです。『出て行っていい』と言われているのに、チームが決まらない1月から3月はもどかしかったです。その状況の僕をベルマーレが拾ってくれたと思っています」
パリ五輪の半年前に決まっていた不参加
大岩剛監督の下、2024年に行われたパリオリンピックに出場したU-23日本代表。
小田は同世代の常連として背番号9を背負い、2023年11月18日には強豪アルゼンチン代表との国際親善試合(5○2)にも先発出場していた。
しかし、その後突如として小田の名前は同世代のメンバー表から消え、パリ五輪の最終予選を兼ねたU23アジアカップ、本大会にも招集されなかった。
同世代のストライカーとして期待されていた男には、思わぬ壁が待っていた。
――パリオリンピックは落選という形でしたが、どのような心境でしたか。
「これは話すと難しいんですけど、剛さんがハーツまで何回か来てくれて、ハーツとJFA(日本サッカー協会)でパリオリンピックに行けるかどうかの話をしてくれていたんです。その中でアジア予選の前に、チームの都合で行けないことになりました」
――そんなやりとりがあったんですね。
「だから俺にとって最後の代表参加はアルゼンチン戦。それ以来参加していないんです」
――その判断を聞いたときに、怒りや葛藤はありませんでしたか。
「もちろん少しは『行かせてくれよ』と思いましたけど、冷静でした。オリンピックの半年くらい前には行けないと分かっていましたから、『そうか』と納得するだけでした。でもハッキリと言って、それでも(パリ五輪)に行けていたかは分からないですけどね」
――パリ五輪や同世代の活躍はどのように見ていましたか。
「もちろん刺激は受けていますが、逆に何も思わないようにしています。『自分は自分だ』って。あの世代はA代表に行っている人も多い。でもいずれは追い抜く。A代表は誰も目指す場所ですけど、特に同じアンダーでやってきた選手たちが入ってきているので、ひそかに闘争心を燃やしています」
――ふつふつとA代表への想いを燃やしている。
「ただ、自分はまだA代表とかを語れる立場にないと思っています。湘南で1試合、1試合やるべきことを全力でやって、結果を出していく先に代表がある。それでもいまの日本代表は入れるかどうかじゃないですか。だからあまり考えずに、毎週、毎週ピッチで全力を出そうとしています」
湘南は手を差し伸べてくれたクラブ
湘南ではここまでリーグ戦21試合1得点と、決して満足のいく結果を残せていない。
クラブは26日午後2時40分にアウェイのベスト電器スタジアムで福岡と対戦する。
同試合の前日午後2時に行われる横浜FM対サンフレッチェ広島の試合で横浜FMが勝利し、湘南が引き分け以下となれば、J2降格が決まる。
まさに正念場だ。
不退転の覚悟で臨む週末の大一番を前に、小田は湘南への想いを語った。
――湘南はJ1残留に向けて厳しい状況です。どのように打開していきたいですか。
「まずはチームとしてやるべきことを、みんなが当たり前にやる。プラスアルファで守備でも攻撃でも強度を出して、チームのためにプレーしたいです。
そして何よりも結果。ゴールとアシストが少ないので、そこを取れるようにしたいですが、まずは強度の部分を出すというのは心がけたいです」
――残留争い真っただ中ですが、どのように過ごしていますか。
「考え出したら嫌じゃないですか。だから、もう試合に勝つことだけを考えています。次の試合に向けてはそれだけです。自分が勝利に貢献するためのプレーしか意識していません」
――残留への想いを聞かせてください。
「湘南が自分を拾ってくれたというか。あのきびしい状況の自分を見つけてくれた、手を差し伸べてくれたと思っています。だから言葉ではもちろんですけど、ピッチでもっと自分のプレーを出して、恩を返すしかないと思いながらやっています」
――言葉よりも結果で示したい。
「スコットランドではなかなかプレーできなかったので、あまり比較はできませんが、『やれんだぞ』というのは失っていない。
ハーツでも最後のシーズンは最悪の成績でしたが、ネガティブにはなっていなかった。それはいまも同じ。逆にあれ以上キツいことはないと思うし、逆に何があってもタフでいられている。それをピッチの上で表現しなければいけないと思っています」
誰も諦めていない
J1残り4試合で崖っぷちの湘南。自力での降格圏内脱出は不可能だが、平塚のトレーニング場に集まったイレブンとスタッフ、そしてサポーターの目は死んでいなかった。
まずは目の前の1試合に全力で挑み、必ず勝利したい。
小田は苦しんでいた自分に手を差し伸べてくれた湘南への感謝を結果で表現する。

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