【インタビュー】西芳照シェフと3.11。代表選手が日本代表専属シェフにかけた言葉—後編—
【インタビュー】西芳照シェフと3.11。代表選手が日本代表専属シェフにかけた言葉—後編—

2011年3月11日午後2時46分。三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の国内観測史上最大の巨大地震が発生し、太平洋側を中心に激しい揺れが襲った。

地震によって発生した津波は太平洋側の沿岸部都市を飲み込み、沿岸部の市町村が壊滅的な被害に遭った。

人的被害は災害関連死を含め、死者1万9765人、行方不明者2553人と東日本一帯に甚大な被害をもたらした。

日本代表専属シェフだった西芳照(よしてる)シェフは当時、Jヴィレッジ(福島県・楢葉町、広野町)にいた。

震災により炉心溶融(ろしんようゆう、メルトダウン)など深刻な事故が発生していた福島第一原子力発電所とJヴィレッジの距離は約30キロメートル弱と危険な状況であったが、西シェフはある決断をした。

インタビュー後編は日本代表選手が西シェフにかけた言葉、福島に残り続ける理由を尋ねた。

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(高橋アオ撮影)

(取材・構成・撮影 高橋アオ)

代表選手にかけられた言葉

東日本大震災で被災した西シェフは、当時アルベルト・ザッケローニ監督が率いる日本代表の専属シェフを務めていた。2011年3月以降はワールドカップ・アジア予選でアウェーのウズベキスタン、タジキスタン、北朝鮮に帯同したという。

代表の海外遠征に帯同すると、選手、スタッフたちから温かい言葉をかけられた。

「みんなあの当時は本当に心配してくれてね。長谷部(誠)さん、川島(永嗣)さんが親身になって心配してくれる。『本当に何でもやりますから言ってください』と言っていましたね。ありがたい言葉ですね」と選手たちの申し出に心から感謝した。

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日本代表の海外遠征に帯同した西シェフを心配した川島(左)と長谷部さん(Getty Images)

代表専属シェフ以外にも多忙を極めていた。

代表戦の海外遠征と同時期に福島第一原子力発電所の事故処理作業員のために食事を提供していた。故郷が大地震と原発事故により傷ついた中、福島から離れて日本代表と帯同することに後ろ髪を引かれる思いはなかったのか。

西シェフに海外遠征の帯同に葛藤はなかったかと尋ねると、「それはないですね」と言い切った。

「ここの仕事より代表のほうがホッとできる。ホッとできるというか、みんなに会えるみたいなところもあります」と仲間たちとの再会に安堵(あんど)したという。西シェフにとって日本代表は震災の中で一息つける大切な場所だった。

ハワイ出店を断り福島に残り続ける理由

福島第一原子力発電所の事故処理作業員のために約6年間料理を作り続けた西シェフは、全国的にも知名度の高い料理人の一人だ。

これまでサッカー日本代表専属シェフとして長い間サムライブルーを支え続けた名シェフの元には数多くの出店オファーがあり、中には「以前うちのかみさんの知り合いから『ハワイに出店しないか』と言われたかな」と海外出店の申し出もあったという。

ただ西シェフはすべてのオファーを辞退して福島に残り続けている。広野町に住み続ける理由は「誰かがやらなくちゃいけないこと。本当にそれだけですよ」と地域のために西シェフができることをしている。

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ハワイ出店の話を振り返る西シェフ(高橋アオ撮影)

福島浜通り地域は東日本大震災により大きな被害を受けた。あれから14年目を迎え、避難していた人たちが戻り、復興も順調に進んでいる。

西シェフは「郷土愛はもちろんあります。ここでずっとやってきて、いろんな人に助けてもらったというのが大きいよね。震災の前からもそうだけど、震災以降は広野町に住民票を持ってきて、広野町の農家のおじさん、おばさん、おじいちゃん、おばあちゃんに『アルパインローズ』の片付けを手伝ってもらってつながりができました。そこから野菜を分けてもらえて、イベントで一緒に出品、出店してね。いまではこんなに人が戻ってきているけど、当時はおじいちゃん、おばあちゃんを含めて2、30人しかいなかったんですよ。

学校が始まったときくらいかな。子どもの親は周りから白い目で見られることもあった。『なんで子どもを連れて帰ってきたんだ』ということもありました。原発の放射能で『線量が高いのになんだかんだ』とかね。当時は広野町の人もそうやって避難していたからね。(規制が)解除したけど、解除したって帰ってくる人はほんのちょっとしかいなかった。そこでみんなと花火大会に、夏のイベントを駅前でやって『こんなことをやっているから顔を出してね』みたいなことをやっていましたね」と広野町に住む人々とともに様々な困難を乗り越えた経験を振り返った。

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元日本代表の岡崎慎司さんが福島の子どもたちにサッカーを教える様子。現在は子どもたちが安心して遊べる環境に(高橋アオ撮影)

「ここに住む人たちと一緒にここで生きていこう」と西シェフがいうように、いまも広野町で信念を持って浜通り地域で料理を作り続けている。この場所から離れる選択肢はない。作業員に料理を提供していた『アルパインローズ』は2018年2月28日をもって閉店したが、現在はイオン広野店のフードコート内で営業しているレストラン『くっちぃーな』は地域住民やサッカーファンの憩いの場となっている。

現在の福島に思うこと

あの日から14年目を迎え、西シェフが住む広野町は徐々に賑わいを取り戻しつつある。

「広野町は20キロ圏外だから解除も早かった分、人口も9割くらい戻ってきているんですかね。広野はいいですけど、まだこれから浪江町、双葉町、大熊町はね。いまやっと大熊と双葉は駅前にビルを建てていて、スーパーができてこれからだからね」

Jヴィレッジが所在する楢葉町(一部施設が広野町にも所在)が公表する町内居住者数によると2015年時点で1000人を切っていた町内居住者が2017年4月30日時点で1616人(854世帯)まで増え、今年1月31日には4477人(2427世帯)まで回復した。ただ震災前の2010年は総務省統計局の国勢調査によると人口7700人だったと考えれば、現在も復興の途上にある。

ただ完全な復興まで前途多難のようだ。

西シェフは「ただこんなことを言うと叱られるけど、補助金だからね。(新しい)レストランは5年くらいタダで家賃もかからないし、はっきりは分からないけど、光熱費もかからない。そういう(補助金が)あるからいいけど、楢葉だって5年経って去年から家賃が発生している。

だから、やっていけないところはすぐ出ちゃって、夜は閉めているね。いまはいいけど、その後だよね。

5年後にどうなっているか。行政のやりたいことは5年後には人がいっぱいいて、たくさんの人の賑わいを作り出すためにやっているけど、なかなか難しいよね。広野だって(工事)作業員用の宿舎、アパートと仮設(施設を)いっぱい作って、ホテルも作ったけど、ある程度(復興の作業が)終わっちゃっているからほとんど作業員がいない。作業員の人たちは大熊、双葉の近くに行っちゃう」といま町が抱えている現実を吐露した。

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復興について本音を吐露する西シェフ(高橋アオ撮影)

一方で未来の担い手である子どもたちが増えつつある。楢葉町の町内居住者数によると、2017年4月30日時点で14歳以下の町内居住者が113人だったが、今年1月31日までで421人に増加した。子どもが増えたことでこの地域は活気を取り戻しつつある。

また2013年1月には元日本代表の小笠原満男(岩手県出身)さん、同代表の柴崎岳(鹿島、青森県出身)ら東北出身の選手が発起人となって立ち上げた『東北人魂を持つJ選手の会』が広野町、いわき市の小中学生を招待してサッカー教室を開催した。

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広野町で地元の子ども向けにサッカー教室を開催した元日本代表の小笠原さん(Getty Images)

西シェフは「小笠原さん、岳ちゃん、本山(雅志)さん、西(大伍)さんと、アントラーズの選手が広野の運動公園で、10人もいない子どもたちに向けてサッカー教室を開いてくれました。2回くらい震災の後にやってくれましたね。

外で遊ばなかった子どもたちが一生懸命に走り回っている姿は忘れられないね。お母さんが『きょうこうやって子どもが走り回っている姿や、うれしそうな顔を見て戻ってくることにしました』と言っていました。その10人くらいだった子どもがね、いまこんなにたくさんいるというのがね」と目を細めていた。

現在は野菜作りにも挑戦中

昨年10月から『道の駅なみえ・フードテラスかなで』の総料理長に就任した西シェフ。『代表カレー』や『代表ハンバーグ』などのメニューを販売している。

ボランティアで月4回ほど通っているというが、「クレームが来ているらしいです。『(西シェフが店に)行ってもいない。詐欺だ!』って(笑)。『毎日はいません』と言っているのに(苦笑)」と、熱心なファンから苦言を受けているという。

また最近は自家菜園での野菜作りに取り組んでおり、「いまは野菜が高いじゃないですか。野菜は高い、米は高い。限られた500円の予算の中で作らなくちゃいけないから、本当に大変ですよ」と、昨年から料理以外にも新たな挑戦として自家菜園に力を入れている。

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試行錯誤しながら野菜作りに励む西シェフ(高橋アオ撮影)

日本代表選手が「美味しい、美味しい」と舌鼓を打つほどの絶品を作る調理の手腕を持っている西シェフだが、初めての野菜作りは試行錯誤の連続だった。

「一番取れる野菜がナスとピーマン。大根、白菜、キャベツ、とうもろこし、ジャガイモ。冬野菜はハウスがないからね。まだやり始めたばかりだから分からないことも多い。だからYouTubeを視ながら(笑)。野菜が大きくなるまでに3カ月もかかると知らなかったから、『やべ、早く種を撒かないと!』って感じにね(苦笑)。今年は早め早めに動こうかなと思っています」と、野菜作りにも精を出している。

笑顔があふれる町に

Jヴィレッジは2018年7月28日から一部施設の運用を再開し、2019年4月20日から全面営業を再開した。そして静岡県に一時移転していたJFAアカデミー福島が昨年度から福島での活動をリスタートした。

西シェフは現在JFAアカデミーの男子中学世代、女子チームの選手たちのために料理を作っているという。あれから14年目を迎えて震災前に従事していた仕事に西シェフはやりがいを感じている。

「かわいいよ。自分の子どもみたいだ。ついつい自腹でおいしいものを出しちゃう(笑)。うちのかみさんは(子どもたちに)コンビニでねだられているみたい。「きょう綺麗ですね!」とか言われると、「そう?何でも買ってあげるよ」とか言って(笑)。夏の暑いときにアイスクリームを買ってあげてね。楽しいですよ(笑)」と満面の笑顔を浮かべた。

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子どもたちの話を笑顔で語る西シェフ(高橋アオ撮影)

平穏を取り戻しつつある浜通り地方で、西シェフの表情はどこか充実しているように見えた。この地域の未来に願うことを尋ねると、「また難しいことを聞くね(笑)」と大笑いしながら、「なんだろうなあ。このまま何事もなく、福一のデブリ(残骸)を取り出して、早く収まってほしいというのが一番でしょうね。また何かあったらどうなるか分からない。もう一回同じようなことになったらもう誰も絶対に戻ってきませんよ」と事故の収束を願っていた。

あの震災により多くの命が失われ、原発事故により消えない影を落としてしまった。復興により賑わいを取り戻しつつあるものの、この地域に住む人たちは不安をぬぐい切れていない。震災前の日常は戻ってこないかもしれない。それでも西シェフはこの地域に住む人たちの幸せを願っている。

「みんなここに住んでいる人たちが少しでも幸せになって、笑顔があふれる町であれば一番いいんじゃないですか。以前のように。そこには喧嘩したり、泣いたりは普通にあるけど、昔の日常に戻ることが一番ですね。戻らないかもしれないけど、せめてここいる人たちはそういう気持ちでみんな戻ってきているからね」

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(高橋アオ撮影)

あの日被災しながらも前を見据え、地元のためにフライパンを振り続けた西シェフ。平穏と賑わいが戻りつつある浜通り地域で、充実した生活を送っている。復興は14年目を迎えた現在も途上であるが、近い将来、笑顔があふれる日常に戻ってほしい。

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