J1リーグ連覇、そして天皇杯との二冠。今年の日本サッカーはヴィッセル神戸の、そして武藤嘉紀の一年といっても過言ではない。
(文=田嶋コウスケ、トップ写真=森田直樹/アフロスポーツ、本文写真=ロイター/アフロ)
JリーグMVP受賞の武藤嘉紀が語る「挫折」とは
ヴィッセル神戸の武藤嘉紀が2024シーズンのJリーグ最優秀選手に選ばれたことを、筆者はイギリスのロンドンで知った。
授賞式のスピーチで、武藤は「JリーグMVPという歴史と名誉ある賞をいただき、心よりうれしく思います」と語った。クラブやサポーター、家族に感謝の言葉を伝える武藤の人柄の良さを改めて感じつつ、スピーチの以下の一節に耳が止まった。
「僕は一見、華やかな経歴に見えますが、多くのケガ、挫折、紆余曲折を経て、今があると思っています。ヨーロッパでは1年間以上、ベンチにも入ることができず……家を出る時のドアが非常に重く、そして帰り道に泣きながら、Mrs. GREEN APPLEさんの『僕のこと』を大熱唱して運転していたのを今でも鮮明に覚えています。しかし、そういった苦しい経験、逃げ出したくなるような経験が、僕を人としても、サッカー選手としても強くしてくれたんだと、今では感じられます」
武藤の言う「挫折」が、イングランド・プレミアリーグのニューカッスル時代のことを指しているのはすぐに分かった。 武藤は、2018~21年までイングランド最北端のニューカッスルに在籍した。筆者はロンドンからニューカッスルまで片道4時間かけて通い、武藤の取材を続けた一人。側で見ていても、彼の苦しさを感じることができた。
ユナイテッド戦でリーグ初先発&初ゴール。しかし…
プレミアリーグ入りが決まったのは、2018年夏の移籍市場。ドイツのマインツからニューカッスルに籍を移した。
出だしは悪くなかった。当時クラブを率いていたのは、2005年に名門リバプールを欧州チャンピオンズリーグ制覇に導いたラファエル・ベニテス監督。武藤は、練習を3日こなしただけでトットナムとの開幕戦でベンチ入りし、後半36分からからピッチに立ってプレミアデビューを果たした。加入間もない頃はベンチスタートが多かったが、堅守速攻を志向するスペイン人の指揮官の下で徐々に出場時間を増やしていった。
こうして迎えた第8節のマンチェスター・ユナイテッド戦で、待望のリーグ初先発、そして初ゴールを叩き込んだ。武藤が「今日、先発で何もできなかったら、そこで俺の評価は決まってしまう。次、いつ使ってもらえるかも分からない」と覚悟を持って臨んだユナイテッドの本拠地オールド・トラフォードでの決戦。初得点を決めたことに「自分ならできるという自信もあった。結果を出せたことは、自分にとってさらなる自信になる」と語り、勝負所のビッグマッチで結果を残したことに胸を張った。
ここから3試合連続で先発し、上昇気流に乗ったように見えた。

「キツイですね…」。キャリアで最も苦しい経験となった2019−20シーズン
状況がさらに悪化したのが、挑戦2年目の2019−20シーズン。武藤が「ヨーロッパで1年間以上、ベンチにも入ることができず……」と言及したその年は、この2019−20シーズンである。
歯車が大きく狂うきっかけとなったのは、シーズンオフの監督交代だった。クラブ会長との強化方針の相違により、ベニテス監督が退任。代わりに英国人のスティーブ・ブルース監督がやって来た。
ブルース監督は現役時代にユナイテッドでプレーした、大柄な元センターバックである。彼が志向するのは、イングランドの古典的スタイル、いわゆるキック&ラッシュだった。5バックで守備を固め、攻撃になると1トップにロングボールを放り込む──超大味なサッカーである。このブルース監督の采配に緻密な戦術など存在せず、モダンフットボールとは対極にあるような指揮官だ。
その年の移籍市場でも、ブルース監督の好みが反映された。大型FWのジョエリントン(※のちにインサイドMFにコンバートされた)を筆頭に、ベテランFWのアンディ・キャロルという、これまた巨漢ストライカーを補強。既存戦力のFWホセルを合わせると、長身ストライカーが合計3人も揃った。
当時の武藤は2トップ一角のセカンドストライカーを最も得意としており、希望ポジションはあくまでもFWだった。しかし指揮官が志向するのは、5バックで守備を固め、1トップに長いボールを蹴るキック&ラッシュ。武藤は第6節までベンチスタートの途中出場が続いたが、扱いは「構想外」のそれに近かった。
厳しい立ち位置が決定的になったのは、第7節のレスター戦だ。ブルース監督はこの試合で4−4−2に戦術を突然変更。
ちょうどこの頃、武藤が苦しい胸の内を明かした。
「なんで出られなくなったのかもわからない。キツイですね……。ケガもしてないし、状態も良い。自分は練習でも良い。だけど、フタを開けてみたら(ベンチ外)。やっぱり信頼されていない。(試合に)出なきゃ、本当に始まらない。
チームは今、基本1トップ。でもセンターフォワードには、自分以外に3人のFWがいる。監督は、自分のことを1トップの選手とは見ていないです。1トップ以外はプレーしない選手が3人もいるので、自分は練習でも自動的にサイドでやってます」
この取材時、武藤が漏らした「厳しい」「キツイ」という言葉は合計6回。トレーニングでは誰よりも良いとの感触があり、自信もあった。だが試合になると、アピールの場すら与えられない。最終的に、このシーズンは国内リーグ8試合に出場し、無得点(※ただしリーグ杯で1ゴールをマーク)。リーグ戦の先発はたったの2試合で、ベンチ外のほうが圧倒的に多かった。このシーズンは、武藤にとって非常に厳しい1年だった。
プレミアリーグでの活躍を阻んだ障壁とは
武藤の取材中、こんな噂を聞いたことがあった。当時ニューカッスルのオーナーは、スポーツ用品の安売りチェーン店『スポーツ・ダイレクト』を経営するマイク・アシュリー氏だった。クラブに投資をしないと悪名高いオーナーで、試合の度に地元サポーターがスタジアムで抗議活動を行っていた。
地元記者から聞いたのが「同オーナーが移籍金の高い選手を優先して先発で起用するように」と、監督に厳命しているとの噂。
もちろん、こんな話も噂に過ぎない。莫大な資金を持つプレミアリーグは、実力でのし上がっていかなければならない厳しい世界である。監督やクラブ首脳陣が思い描くプレーをしなければ、すぐに代わりの選手を取ってくる。それが「世界最高峰」と呼ばれる所以だ。武藤もそれを授賞式で「挫折」と表現した。 だが武藤の場合は、相次ぐケガ、アジアカップ参加での序列低下、まさかの監督交代、スタイル変更、そして2年目の終盤にコロナ禍とロックダウンと、多くの障壁が目の前に現れたことも事実だった。特にロックダウンは、イングランド最北端の地に身を置いた武藤にとって、精神的にも相当厳しかったはずだ。
腐ることなくトレーニングを続けたからこそ…
出番がないときの武藤は、試合後に他の控え選手とともに、観客のいないスタジアムで黙々とトレーニングに励んでいた。コーチの笛の合図とともに、フィールドの縦幅を全速力で走り切る。それを何本も繰り返していた。冬の極寒の中でも汗をかいてダッシュなど単調な練習に取り組む武藤の姿は、今でもよく覚えている。
武藤の取材で、印象に残っている一コマがある。ちょうどこの頃、試合に出られなくなり、武藤は苦しい時間を過ごしていた。
取材を終えて、彼と少しばかり雑談を交わした。すると武藤は言う。「本当にすいません。いつも取材に来てもらっているのに、試合に出られなくて」。こちらが「いや、心配しないでください。これが仕事ですから。負けずにがんばってください」と返すと、武藤は「いやぁ、本当に申し訳ないです」と、すまなそうに答えた。
一つだけ間違いなく言えるのは、武藤は構想外扱いとなっていた間も、トレーニングを懸命にこなしていたこと。武藤は自分に言い聞かせるように話していた。「試合に出ていない状況で、いきなり出番がきても、『動けませんでした』ではそれで終わりなので。とにかく、そこだけは逃さないよう準備だけはしっかりしたい」と。
ニューカッスル時代は、本人にとって受け入れ難い時間だったことだろう。当時のニューカッスルは成績不振によりチームの雰囲気も決して良くなかった。
だが、腐ることなくトレーニングを続けていたからこそ、今季のヴィッセル神戸での優勝、そしてMVP受賞があるのは間違いない。
イングランドで取材開始時の武藤は26歳。JリーグMVPの受賞スピーチを行う彼は、32歳の成熟したプレーヤーになっていた。
武藤選手、JリーグMVP受賞、本当におめでとうございます。
<了>
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