2028年に行われるロサンゼルス五輪で追加競技として、120年ぶりにオリンピックに復帰することになったラクロス。1月に行われたアジアパシフィック選手権では、ラクロス女子日本代表が開催国でもあった強豪オーストラリアを破り、5戦全勝で優勝。
(インタビュー・構成=松原渓[REAL SPORTS編集部]、写真提供=日本ラクロス協会)
格上のホスト国を破って優勝。「どの試合でも…」
――1月上旬に行われたアジアパシフィック選手権では、全5試合で完勝し、アジアパシフィックチャンピオンになりました。今大会のラクロス女子日本代表は若手選手中心のメンバーで構成されたチームでしたが、中澤選手にとってどのような大会でしたか?
中澤:2019年大会のU19や2024年大会のU20でプレーしていた同年代の選手と一緒に世界大会に出られたことがうれしかったですし、印象に残る大会でした。2022年に出場した6人制の国際大会では私が一番年下で、代表ではいつも先輩方についていく立場でしたが、今大会では同年代の選手が多く、コミュニケーションが取りやすかったです。特に中学、高校と同じチームで一緒にプレーしてきた秋山美里選手とは共通認識も多く、いいコンビネーションを発揮できたと思います。
――決勝では、開催国であり、これまで勝利したことがない強豪オーストラリアを初めて破る最高の流れでした。どんなことが勝因だったのでしょうか。
中澤:切り替えの早さは日本の強みですし、全員で意識していました。相手より先にボールに触る、先に自陣に戻る、オフェンスを仕掛ける、といった場面が多く、どの試合でもスピードを生かせたことは、勝因だと思います。

「強度の高い練習を続けてきた」日常のアドバンテージ
――中澤選手はオーストラリア戦を含む5試合で7得点を決めました。特に、決勝トーナメント初戦のフィリピン戦(13-4)では4得点の活躍で優勝に大きく貢献しましたが、ご自身のパフォーマンスについてはどうでしたか?
中澤:私はアメリカでプレーをしているので、アメリカの選手やカナダ代表選手と強度の高い練習を続けてきた成果を見せたいと思っていましたし、戦える自信もありました。自分が通っているルイビル大が属しているカンファレンス(*)は、去年全米1位になったボストン大学をはじめ、全米でもトップクラスの大学のチームが揃っていて、毎試合強い相手と戦っていることも強みです。国際大会でその成果を発揮できればチームに貢献できると思っていました。大会前は緊張もしましたが、特にフィリピン戦は(決勝に進むために)何が何でも勝たなきゃいけない試合で、「絶対に勝つ!」という強い気持ちで臨んだので、自分の中でもスイッチが入った感じでした。私だけでなくチームのみんなが得点できて、いいゲームだったと思います。
(*)リーグはNCAA DIVISION1。ルイビル大が属しているカンファレンスはACC(ATLANTIC COAST CONFERENCE)。昨年のNCAA DIVISION1は 14のカンファレンス(127チーム/大学)で構成されていた
――普段、海外の選手たちとプレーしているアドバンテージは大きかったと思いますが、逆に、短期間で戦術面やコンビネーションを合わせる難しさもありそうです。
中澤:そうですね。代表は活動期間が限られるので、合わせるのは大変でした。
小さい頃はサッカーも「父から教えてもらった」
――ラクロスは「地上最速の格闘球技」と言われるスピード感と激しさを兼ね備えたスポーツですが、中澤選手にとってラクロスの魅力はどんなところですか?
中澤:その言葉通り、ラクロスはスピード感があって、かつ他のスポーツに比べてコンタクトプレーが多く、棒の先に網がついた「クロス」と呼ばれる道具を使って、直径6cmのボールを扱う多彩なスキルが求められるところも面白さだと思います。フィジカル面で相手と競いながら、頭を使って相手の逆をどうついていくか、味方とのコンビネーションも必要なスポーツです。
――中澤選手のポジションはMFですが、ご自身のプレーの最大の強みはどんなところですか?
中澤:攻守において中盤で走り勝てるスタミナと、どんな局面でも「相手に負けない」という気持ちの強さだと思っています。
――お姉さんで2歳年上のこころ選手もラクロス日本代表選手ですが、ねがい選手がラクロスを始めたきっかけは何だったのですか?
中澤:姉の影響です。もともと走るのが好きだったので陸上がやりたい思いもあったのですが、両親から「姉と同じ学校で同じ部活をやったらいいんじゃないか」と提案されたことがきっかけでした。姉はラクロスを始める時にバドミントンと迷ったそうですが、私はバドミントンはあまりうまくなくて(苦笑)。ラクロスに興味を持って、中学1年生の時に始めました。
――走力はその頃からの武器だったのですね。お父さんが元プロサッカー選手という環境だと、幼少期から周囲にはサッカーの情報があふれていたと思いますが、サッカーという選択肢はなかったのですか?
中澤:小学生の時はサッカーが好きで、見るだけでなく自分でもやってみたかったので、父から教えてもらったりもしていたんです。ただ、サッカーもあまり才能がなかったみたいで……(苦笑)。自分自身もうまくできるイメージがなくて、あまり続かなかったんです。
――ラクロスをプレーしていて、喜びを感じるのはどんな瞬間ですか?
中澤:やっぱり得点に関わるシーンですね。自分で得点するのももちろんうれしいですが、自分のアシストでチームメートがゴールを決めた時や、自分のインターセプトから得点につながった時です。大学では姉と一緒にプレーしていた(昨年卒業)ので、私からのアシストで姉が決めた時はすごくうれしいですね。
五輪競技になることの意味。父のチャレンジから受ける刺激
――ラクロスは2028年のロサンゼルス五輪で追加競技として採用されることが2023年に決まっています。オリンピックの正式競技になることを知った時は、どんな思いでしたか?
中澤:「ラクロスがオリンピックの追加競技になるような動きがある」と初めて聞いたのは高校生ぐらいの時でした。それが正式に決まったのが大学1年生の時です。もともと、オリンピック競技になる前から、「いつかオリンピックにラクロスで出場できたらいいな」と思っていたので、決まった時は「また新しい目標ができた」と、すごく喜んだのを覚えています。
――中澤佑二さんはコーチ業をしながらラクロスの指導者のA級ライセンスも取得されたそうですが、娘さんでありラクロスプレーヤーとして、お父様のチャレンジをどのように受け止めていますか?
中澤:すごく頼もしく感じています。私は常にプレイヤー目線で見てしまうのですが、父は同じプレーを見ていても、自分にはない、「第三者から見た客観的な印象」や気づいたことを教えてくれますし、「こうしたらもっとうまくなると思う」といったアドバイスももらえるので、恵まれていると思いますし、頼もしい存在です。
――徹底した探究心はサッカーに通じるものがありそうですね。
中澤:そうですね。やっぱり日本とアメリカの環境はかなり違うので、アメリカの環境を父に話したりして、「もっとこうなったらいいね」というような話はしています。
【連載中編】ラクロス・中澤ねがいの挑戦と成長の原点。「三笘薫、遠藤航、田中碧…」サッカーW杯戦士の父から受け継いだDNA
【連載後編】「小さい頃から見てきた」父・中澤佑二の背中に学んだリーダーシップ。娘・ねがいが描くラクロス女子日本代表の未来図
<了>
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[PROFILE]
中澤ねがい(なかざわ・ねがい)
2003年11月12日生まれ、神奈川県出身。ラクロス女子日本代表。ポジションはミッドフィールダー(MF)。165cm/57kg。2歳年上の姉・こころの影響で中学1年生の時にラクロスをはじめ、日本大学高等学校を卒業後、姉と同じアメリカのルイビル大学に進学。