ケガなどでコンディションが万全ではないとき、大事な試合に敗北した直後、どのように自身を奮い立たせ、周囲やメディアに対してどのように振る舞うのかは、アスリートにとってプロ意識が問われる瞬間だ。ラグビー・リーグワン1部リーグを首位と勝ち点で並ぶ2位で終え、頂点を懸けたプレーオフに挑んだ埼玉パナソニックワイルドナイツ。

今季も精神的支柱としてチームを支えた稲垣啓太の言動を改めて振り返ると、真のプロフェッショナルの一つの境地を垣間見ることができる。

(文=向風見也、写真=長田洋平/アフロスポーツ)

「その瞬間、この試合は難しいだろうな、と」

心なしか表情は朗らかだった。稲垣啓太は繰り返した。

「何もなかったということにしましょう。何もなかったんです」

ラグビー日本代表として通算3度のワールドカップに出て「笑わない男」の愛称で知られる34歳は、5月20日、埼玉パナソニックワイルドナイツの本拠地にいた。クラブハウスで記者団に応じていた。

10日前には、目と鼻の先にある熊谷ラグビー場で負傷していた。東京サントリーサンゴリアスとの国内リーグワン1部の最終節で、後半10分に登場するや、たった2分で退出を余儀なくされた。

敵陣ゴール前で最初の突進を繰り出し、味方にボールを託したその場でうずくまった。もともとテーピングを巻いていた、左のひざを抑えた。

以前、長期離脱した際の痛みに近い感触を覚えたため、「一旦、止まっていた」のだという。

「その瞬間、この試合は難しいだろうな、と」

レフリーの判断でゲームが止まるなか、トレーナーが本人のもとへ駆け寄よったあとすぐにタッチライン際を向く。両手を挙げる。

ストレッチャーを運んできてほしい、というサインだ。

その後、本人はスタッフに両肩を担がれて、患部を地面に着かないように外へ出た。

取材でその場面について聞かれる。「ストレッチャーなんか、僕が乗るわけないじゃないですか」と、周りを笑わせる。

「100パーセントでなければやらない」

「呼んでないですよ、僕は。あれは、トレーナーが『こいつ、動く気ないな。ストレッチャーを呼べば動き出すだろうな』と。で、肩を担がれていましたけど、あれもいらなかったですよ。全然、歩けました。ただ、周りにはそのように見えていなかった。『(状態が)わからない以上、(足を)着くな』と言ってきた。だから、なかったことにしてくれませんか。恥ずかしいんです」

それまでも一時故障で戦列を離れており、今回も残りわずかのシーズン出場は危ぶまれた。

それでも件のインタビューへ応じたその日は、次戦へのトレーニングで主力候補のグループで汗を流していた。

「本当にプレーできなければ、グラウンドには立たないです。ただ、自分ができるのであれば、100パーセントを出す。100パーセントでなければやらない」

つまり、その時、芝に立っている以上は、「何もなかったんです」。恐るべき頑丈さと職業倫理をうかがわせる。

「(サンゴリアス戦で)ケガをした時に、先のことを考えた。ここで無理するより、今の状態を把握することが大事だと。そして、(患部を)検査してみたら、僕が考えていたような大きなトラブルではなかった。それが不幸中の幸いでした。チームには申し訳ないし、心配もさせたんですけど、こうしてグラウンドに立っている。だから、何もなかったんです」

サンゴリアス戦の翌週は試合がなく、前半は休息期間に充てられた。

「皆、プロなのだから、何かしらしっかりと準備をしてグラウンドに立っているでしょうし、僕も約1週間、自分ができる準備をしてグラウンドに立っている。

ですので、何もなかったんです」

では、「何もなかった」ことにするために努力したことは?

「うーん。いっぱいあるんですけど、それを言っちゃうと、いろいろ探られるじゃないですか。だから、何もなかったことにしてください」

「僕のポジションは、考えるよりも先に動かなくてはいけない」

5日後に控えていた試合は、プレーオフの準決勝だ。

当日、東京・秩父宮ラグビー場でぶつかるクボタスピアーズ船橋・東京ベイとは、5月3日にも同じ場所で戦っていた。レギュラーシーズン第17節である。結果は29―29の引き分けだ。

看板の組織防御が味方のタックルミスで破られ、5点リードで迎えたラストワンプレーで無理に攻めようとして逆襲された。稲垣は「個人的な感覚で言うと負けに近い」。短期決戦における普遍的な勝ち筋を整理して述べる。

「全チーム、プレーオフでは戦い方が似てくると思います。反則をしない。反則を奪ったほうが確実にスコアする。これだけです。

僕らも、向こうも、1点差でもいいから勝てばいい。点差は拮抗する。ラグビーはシンプルになる。だからこそ、最後の苦しい時間帯に適切な判断ができるかどうか。慌てる必要はないんです」

理路整然と語れるのは、自分の役目も然りだ。この午後はちょうど、肉弾戦での働きをチェックする個人メニューにも取り組んでいた。

スクラム最前列の左プロップにして接点周りでの突進、タックルで存在感を発揮するその人が、セッションの意図を聞かれて簡潔にまとめる。

「指定されたエリアでボールキャリーをし続ける、クリーンアウト(サポート)をし続ける、起き上がり続ける、速くセットし続ける……。ディフェンスでも自分の限られたエリアでタックルして、起き上がって、セットし続ける……。僕の役割って、突き詰めればそれしかないんです。タイトファイブ(プロップを含めた前列5人)は、その仕事のクオリティと回数だけ(が問われる)。時間が経っていくと、いろんなことを考えられるようになって、考えるほうが先になってしまう。

そうじゃない。僕のポジションは、考えるよりも先に動かなくてはいけない。考えてから動くだと、一歩、遅い。考えて起き上がるのではなく、自然と起き上がれるようにする。(件の練習は)それの、刷り込みです」

「結構いろいろな駆け引きはありましたよ。前半…」

5月25日。セミファイナルには40分、出た。肉弾戦での衝突はもちろん、最重要な職責にあたるスクラムでも光った。

南アフリカ代表フッカーのマルコム・マークスらと対峙した。前半35分頃の1本こそ味方が足を滑らせ反則を犯すも、それ以外では好姿勢を保った。

一気に押し込みにかかるか、その場で耐えるかの繊細な判断を下していた。

「結構いろいろな駆け引きはありましたよ。

前半、もっと仕掛けてもいいと思いました。(自分たちが)仕掛けようとしたところ、イメージで言うところの『カウンター』のようなものを狙っている感覚もあって、攻めあぐねましたが」

しかし敗れた。10―22とリードされたまま交代し、24―28で屈した。ラストワンプレーのシーンでは、相手ボールのスクラムが重なった。

皮肉にも、稲垣は戦前に「僕は残り1分半で勝っていて、スクラムがあるのだったら、(最後まで)スクラムを組みますよ」と証言していた。実際には、ライバルがそのようにした。

リーグワン元年覇者のワイルドナイツは、総じて敵陣ゴール前でエラーを重ねていた。これも痛かった。4季連続での決勝進出を逃した。

「ミスが多かったように感じますね。ボールロストが前半、後半とも多かったような。スコアするべき場所でスコアできなかったのが敗因でしょうね。お互いにディフェンスに自信を持っているチーム(の対戦)。きれいに(走者が)抜けるようなシチュエーションは少なかったですね。じゃあ、どこで命運がわかれたか。反則、ミスです。ボールロストもそうですし、(ペナルティーゴールで追加点を与えた終盤を指して)反則を重ね、エリアもコントロールされました」

「敗者から勝者に言えることは何もない。スピアーズに…」

スタンド下のミックスゾーンでも、稲垣は毅然としていた。印象的だった言葉はこれだ。

「敗者から勝者に言えることは何もない。スピアーズに優勝してほしい。それだけですね」

このフレーズから思い出されるのは、2019年10月20日のある光景だ。

この夜、日本代表の1番をつけた稲垣は、初めて進んだワールドカップの決勝トーナメント1回戦で南アフリカ代表と激突した。

大型選手たちのパワーに苦しみ3―26と敗れると、こう述べた。

「悔しさが大き過ぎて、いま何かを考えることは難しいです。ただ一つ言えるのは、南アフリカ代表さんのパフォーマンスは素晴らしかった。セミファイナルに向けて、頑張ってほしいですね」

大会を制したのは、南アフリカ代表だった。

ワイルドナイツを制したスピアーズは、6月1日、国立競技場の地でディフェンディングチャンピオンの東芝ブレイブルーパス東京とぶつかり2季ぶりの日本一を目指す。

<了>

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