スポーツ通訳として活動する佐々木真理絵さんは、わずか1年の留学経験からスタートし、複数のプロスポーツの現場で実績を重ねてきた。バスケットボール、バレーボール、女子バスケットボール日本代表、近年はラグビー日本代表にも帯同し、言葉の壁を越えてアスリートと指導者を支えている。

帰国子女でも語学エリートでもなかった彼女がプロの現場に立ち続けてこられた理由とは何か。通訳という立場で見てきたスポーツ現場のリアルと、仕事観について話を聞いた。

(インタビュー・構成=松原渓[REAL SPORTS編集部]、写真提供=佐々木真理絵)

「とにかく英語が好きだった」学生時代

――佐々木さんのスポーツ歴と、語学を学ぶようになったきっかけについて教えていただけますか?

佐々木:本格的にスポーツに取り組んだのは、大学時代にラクロス部で4年間プレーしたのが初めてです。同学年の選手やスタッフと家族以上に長い時間を共にして、居心地のよさを感じていました。中学・高校時代は勉強をまじめに取り組んでいて、好きな教科は英語でした。ただ、特別成績が良かったというわけではなく、好きで授業に一生懸命取り組み、帰宅後に洋画を観たり洋楽を聴いたりして、自分で英語に触れる時間がとても好きでした。

――キャリアのイメージはどのように描いていたのでしょうか。

佐々木:当時は、英語が好きということと将来の職業が結びついていませんでした。ただ、大学進学の際、英語は勉強する癖がついていて独学できるという自負があったので、あえて違う分野を学ぼうと思い、経営学を専攻しました。授業以外の自分の時間を使って英語を学び、アメリカの大学に1年間、語学留学をしました。

――文法や単語の学び方などで工夫したことはありますか?

佐々木:それが、これといって苦労や工夫をした記憶がないんです。英語の勉強自体が楽しかったので、テストのために単語を暗記するというよりは、ただ楽しく繰り返すうちに自然と覚えていきました。

「世間知らずだった」留学経験1年で飛び込んだプロの世界

――通訳業を目指した原点はなんだったのですか?

佐々木:大学卒業後に英会話スクールで営業職に就いたのですが、英語を話す機会が少なく2年で退職しました。その後、小規模の英会話スクールでスクールマネージャーを務め、営業の仕事もこなしつつ、外国人講師とのスケジュール調整や生徒との相談対応などで、英語を使う場面が増えていきました。

 その日々の中で、もっと英語を突き詰めて話す仕事がしたいと思い始めた頃、大学時代のラクロス部で過ごした日々を思い出し、「あの熱量で働きたい」と考えました。その時に、中学生の頃に日韓で行われた2002年のFIFAワールドカップで通訳をしていたフローラン・ダバディさんの姿が浮かびました。「私が目指したい仕事はこれだ!」と思い出したんです。

――当時、女性のスポーツ通訳は今以上に少なかったと思いますが、どのようにして情報収集やきっかけをつかんだのですか?

佐々木:スポーツ業界は、信頼関係や人とのつながりを重視して仕事を得たり、ステップアップしていく傾向があります。私は業界にまったく縁がなかったので、最初はどうしたら入れるのかまったくわかりませんでした。情報も少なかったのですが、インターネットで「スポーツ 英語 仕事」とキーワードを入れてひたすら検索したところ、いくつかのプロバスケットボールチームが求人を出しているのを見つけて、地元に近い(現Bリーグの)大阪エヴェッサに応募したのがきっかけです。

――1年の留学経験で飛び込むのは勇気がいりますね。

佐々木:今考えれば、本当に世間知らずだったと思います(苦笑)。帰国子女でもなく、留学も1年間という状態の英語力ではさすがに難しいと今ならわかりますが、当時は通訳に必要な英語力の基準もわからず、「とにかく入りたい!」という思いだけで面接を受けました。今、同じ状況の方に相談を受けたら、「こういうふうに段階を踏んだほうがいいですよ」とアドバイスすると思います(笑)。

――その時はどのように採用されたのですか?

佐々木:面接では熱量は伝えましたが、「その英語力では通訳は難しい」と言われました。ただ、チームに人手が足りなかったこともあり、「チームマネージャーとして働きながら、簡単な英語で外国籍選手とやり取りしてほしい。

英語の部分は他のスタッフもサポートします」と言われて採用していただきました。そのようなスタンスで受け入れてもらえたことは幸運でした。

未知の現場で味わった葛藤

――情熱が伝わったんですね! エヴェッサにはどのぐらいの期間、勤めていたのですか?

佐々木:1年だけでしたが、プロスポーツの現場を初めて体験し、特にバスケという競技における仕事に関して、自分の中に基準ができた大きな1年でした。当時はチーム状況も苦しく、マネージャー業は想像以上に大変でしたが、現場での英語のやりとりにも挑戦できる機会がありました。至らぬ点ばかりでご迷惑もおかけしましたが、温かく受け入れてくださったことには感謝しかありません。

――英語力以外に、戦術的なことへの理解など別のスキルも必要だと思いますが、現場で培っていった部分が大きかったのですか?

佐々木:はい。ただ、最初は「ちょっと訳してみて」と言われても全然うまくいかなくて。とはいえ、2年目から移った京都ハンナリーズでは、同じようにマネージャー業をしながら会見や番組収録の通訳も担当させてもらえるようになり、徐々に専門用語やチーム戦術への理解も深まりました。時間を重ねるうちに選手個々への理解も深まり、「こういう質問をされたら、この選手はこう答えるだろう」と予測できるようになったり、英語のアクセントや口癖なども理解して、訳す際に迷いが減った実感はありました。

――その後はバレーボールの名門、パナソニックサンダーズ(現・大阪ブルテオン)に“移籍”されたのですね。

佐々木:そうなんです。初めて「通訳」としての肩書で雇っていただきましたが、バレーボールは競技としても未経験で、また一からの挑戦でした。バスケでの3年間を経て、英語力が飛躍的に伸びたわけではなかったので、2年間苦労しました。

優勝争いに絡むレベルの高いチームで、選手にもスタッフにも高いクオリティが求められる中で、うまく訳せないことに対して厳しい目が向けられることもあり、練習に行く足取りが重くなることもありました。緊張感や責任感の重さを感じながら取り組んでいました。

「キラキラした世界ではない」なかで見つけたやりがい

――厳しい環境の中でも、2年間続けられた理由は何だったのですか?

佐々木:「どうして続けられたの?」とよく聞かれるのですが、正直、自分でもよくわかりません(笑)。「自分に負けたくない」という気持ちはありましたが、強烈なやりがいがあったとか、明確な目標があったわけでもなくて。ただ、「やめる」という選択肢がなかったというか、「今はとにかく目の前のことをやるしかない」と思い込んでいたように思います。

――通訳としてさまざまな現場を経験されてきました。今、感じているこの仕事のやりがいはどんなところですか?

佐々木:うーん、難しい質問ですね。正直、スポーツの仕事を“キラキラ”したものとしては見ていません。フリーランスになってからは苦しいことも多くて、業界に嫌気が差した時期もありました。でも、さまざまな競技の現場を経て、今はラグビーを中心にお仕事をいただく中で、一つ、その答えがわかった気もしています。

 選手やスタッフが真剣に競技と向き合っている姿を見て、その熱量や責任感に心を動かされ、「私もこの人たちの力になりたい」「この競技を理解したい」と思えるようになります。それぞれの競技への強い愛があるというよりは、一緒に頑張っている仲間のために自分ができることをしたい。

そう思える瞬間が、今の自分にとっての原動力だと思います。

※連載後編は8月4日(月)に公開予定

<了>

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[PROFILE]
佐々木真理絵(ささき・まりえ)
1987年生まれ、京都府出身。スポーツ通訳。学生時代にサッカー日韓ワールドカップで見たフローラン・ダバディ氏の姿に憧れ、スポーツ通訳の道を志す。大学卒業後、英会話スクール勤務を経て、2013年に日本プロバスケットボールリーグ「大阪エヴェッサ」に通訳兼マネージャーとして加入。バスケットボール、バレーボール、ラグビーなど多競技の現場で経験を積み、女子バスケットボール日本代表チームのマネージャーも務めた。現在はフリーランスとしてラグビー日本代表のエディー・ジョーンズ ヘッドコーチのアシスタントを務めているほか、モータースポーツの大会運営にも携わる。言葉の壁を越え、現場の信頼関係を築く通訳として活動している。

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