解雇された少年が、クラブの「象徴」として帰ってきた──。イングランド代表MFエベレチ・エゼが、クリスタル・パレスからアーセナルに電撃移籍。
(文=ジョナサン・ノースクロフト[サンデー・タイムズ]、翻訳・構成=田嶋コウスケ、写真=ロイター/アフロ)
アーセナル下部組織から解雇されたエゼ少年の帰還
イングランド代表MFエベレチ・エゼにとって、この夏ほど長く感じられた時間はなかった。
8月23日、クリスタル・パレスからアーセナルへの移籍が決まり、エゼは赤と白のユニホームをうれしそうに眺めていた。背番号は「10」。27歳のMFにとって、この移籍は格別の意味を持っていた。
エゼはナイジェリア系の両親の下、ロンドン南東部のグリニッジで生まれた。幼い頃にボールを蹴り始め、8歳でアーセナルの下部組織に入団。小さなエゼ少年は、サッカー選手への道を踏み出した。しかし13歳のとき、クラブから解雇を言い渡される。幼少期からアーセナルを愛してきたエゼはショックのあまり涙を流し、1週間ほど自分の部屋で塞ぎ込んだという。
そこから始まったのは、長く険しい航海だった。フラム、レディング、ミルウォールのユースを渡り歩いたが、なかなか芽は出ない。
ここで救いの手を差し伸べたのが、チャンピオンシップ(イングランド2部)所属のQPRだった。必死の思いで臨んだトライアルで見事合格。ミルウォール退団から半年後の2017年1月、FAカップでトップチームデビューを飾ったのだ。今から約8年半前の出来事である。
QPRの一員として2部リーグで4シーズンを戦った後、プレミアリーグのクリスタル・パレスにステップアップ移籍を果たした。そして昨シーズン、エゼは中心選手としてFAカップ優勝に大きく貢献。苦労を積み重ねた末に手にした栄冠は、特別な喜びをもたらした。
手に汗握る紆余曲折の移籍劇
そんなエゼにとって転機となったのは、今年6月にミケル・アルテタ監督と初めて交わした移籍に関する会話だった。やりとりは非常に前向きなもので、エゼは「再びアーセナルのユニホームを着られるかもしれない」という期待が胸に広がった。
しかしその後、アルテタとアーセナルから連絡は途絶える。その間にも「アーセナルがノニ・マドゥエケを獲得」、「イーサン・ナワネリと契約延長」といったニュースが次々と舞い込み、移籍のチャンスが萎んでいく不安に駆られた。
エゼが望んだのはUEFAチャンピオンズリーグ(CL)に出場できるクラブへの移籍だった。第一希望のアーセナルから音沙汰はなかったが、ライバルのトッテナムから正式なオファーが届いた。トッテナムもCL出場権を得ていたため、エゼは心の中で移籍の準備を整えていた。
ここから紆余曲折があった。
エゼの移籍交渉を担当したクリスタル・パレスの関係者によると、トッテナムは移籍金の金額を巡り、非常に粘り強く交渉を進めていたという。パレスが設定した「エゼの契約解除金」は6000万ポンド。しかしトッテナム陣営は数百万ポンドでも安くするため、数週間にわたり交渉を続けていたという。トッテナムの提示は「5500万ポンド+出来高のボーナス」。駆け引きが長引いた結果、契約解除条項の有効期限は過ぎてしまった。
一般的に、契約解除条項の有効期限が過ぎると、買い手にとって有利に働くとされている。さらなる値引きが可能になることが多く、トッテナム移籍は秒読みと思われた。
だが、ここで動いたのはエゼ本人だった。
アーセナルの事情も追い風となった。アタッカーのカイ・ハバーツが8月17日のプレミアリーグ開幕戦で膝を負傷し、軽度の手術を行うことになった。さらに、エゼが電話をかけたその日の午後に、アーセナルの取締役会が控えていた。エゼが電話を入れたのは、図らずも絶妙のタイミングだったのである。
アルテタはオーナーのジョシュ・クロエンケ率いる取締役会を前に、「逃してはならない特別な存在だ」とエゼの補強を強く訴えた。その結果、「移籍金6000万ポンド+750万ポンドの出来高」を加える条件でパレスとクラブ間合意に至った。エゼが電話をかけてから、わずか3日後のことだった。
王者リバプールに挑むアーセナルの本気
「アーセナルは本当に交渉しやすいクラブだ」
エゼの移籍交渉について語ったパレス関係者は、アーセナルの姿勢をそう評価する。
今回のエゼ獲得は、「アーセナルが今夏の移籍市場でどれほど積極的に動いたか」を示す象徴的出来事だったと思う。一人の才能を加えたというレベルにとどまらず、クラブの姿勢そのものを映し出している。背景には2つの要因がある。
まず一つは、ミケル・アルテタ監督の強い訴えだ。アルテタはクラブ首脳に対し「王者リバプールとの差を埋めるには大型補強が不可欠だ」と訴え続けていた。プレミアリーグの頂点に立つには、現戦力の奮闘だけでは足りない。確固たるクオリティを持つ選手をさらに加え、層の厚みを増さなければならない――その考えが、首脳陣を動かした。
もう一つは、今年3月にスポーティング・ディレクターに就任したアンドレア・ベルタの存在だ。イタリア人のベルタは、アトレティコ・マドリードでロドリ、ヤン・オブラク、アントワーヌ・グリエーズマンらの獲得に関わり、その手腕を高く評価されてきた。「世界で3本の指に入るSD」とまで言われる男が、豊富な人脈とデータ分析を駆使して移籍市場で即座に結果を出したのである。就任から間もないことから「不発戦力の売却」で成果を上げ切れてないものの、補強面での手腕は際立っていた。
アーセナルが今夏に新戦力獲得に投じた資金は総額2億4600万ポンド(約490億円)。純支出(※選手売却で得た額を差し引いた正味の支出額)では、欧州クラブのトップに立った。アーセナルの本気度が伝わってくる数字だ。
エゼの補強は「主力級の補強」という単純なストーリーではない。フットワークの軽さと、積極的な投資。2004年のリーグ無敗優勝から21年も遠ざかるタイトル獲得に向け、強い決意表明でもあったのだ。王者リバプールにいかに挑むか──。アーセナルがギアを上げた「象徴的な出来事」だった。
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<了>
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[PROFILE]
ジョナサン・ノースクロフト(Jonathan Northcroft)
英紙『サンデー・タイムズ』でサッカー部門の主筆を務める敏腕記者。分析記事やインタビューを中心に執筆し、英BBC放送や衛星放送スカイ・スポーツなどのサッカー番組にも多数出演。きめ細かい取材に定評。