“世界最高峰のGK”として君臨し続けたプロ生活28年――。17歳でプロデビューを果たし、史上最多10度のセリエA制覇を成し遂げ、45歳まで現役を貫いたジャンルイジ・ブッフォン。

イタリア代表では史上最多キャップを誇り、2006年にワールドカップ優勝を成し遂げた。その輝かしいキャリアの裏には、無数の失敗、敗北、葛藤、そして“立ち上がる力”があった。本稿では『ジャンルイジ・ブッフォン自伝 何度でも立ち上がる』の抜粋を通して、“ジジ”自身が初めて語る挑戦の物語をひも解く。今回は、1991年に13歳でその才能を見出されてパルマの下部組織に加入し、そこからわずか4年でプロデビューを飾ったACミラン戦について。

(文=ジャンルイジ・ブッフォン、訳=片野道郎、写真=Enrico Calderoni/アフロスポーツ)

規律を守ることができなかった1995年の夏

私にとって人生の転機になったのは1995年の夏に経験した、パルマでの2度目のプレシーズンキャンプだった。その冒険の始まりの記憶は今も鮮明で、まるでその場にいるかのような気持ちになるほどだ。

私は、アスプリージャ、ゾラ、センシーニ、そしてバロンドールを受賞したばかりの新戦力フリスト・ストイチコフといった面々とともに機上の人となった。パルマはこの1995/96シーズンに向けて大きな野心を抱いており、私たちはアメリカに飛んでカリフォルニアのゴルフクラブでプレシーズンのトレーニングを行うことになっていた。残念なことに、私はそこで自分の最悪な面をさらけ出すことになる。トレーニングは間違いなくしっかりこなした。しかしどうしても規律を守ることができなかったのだ。

ネヴィオ・スカーラ監督はきわめて真摯で高潔な指導者だった。合宿地となったゴルフクラブには、ゴルファーたちが移動のために使うカートが敷地内のあらゆる場所に置かれていた。

彼は起こり得る状況をすでに察知していたかのように、私たちに厳しくこう言い渡していた。

「あのカートに君たちの誰かが乗っている姿は絶対に見たくない」

にもかかわらず、私はその3時間後にはもう、ぴかぴかのゴルフカートで芝の上を疾走しながらヴァスコ・ロッシの歌を大声で歌っていた。この種の蛮行にとって完璧な共犯者であるアスプリージャは、そんな私を指差し大口を開けて笑っていた。

「神なき男」アスプリージャの10発の祝砲

その日の夕食時、偉大なセンターバックでありキャプテンのロレンツォ・ミノッティが私のもとにやって来た。

「ジジ、お前に話しがある。理由はわかってるよな」
「いいえ」と私は答えた。何も悪いことをした覚えはなかったからだ。
「お前、バカなことをやらかしたな。ミステル(監督)が、罰金100万リラだそうだ」
「え、どうして?」
「わかってるだろ」

確かにわかってはいたが、オフの時間にゴルフクラブの敷地内でカートを乗り回すのがそんなに悪いことだとは、どうしても思えなかった。当時、プロ契約の最低ラインだった70万リラしか月給をもらっていなかった私は、「そんな金額は払えません」と反論した。しかし時が経つとともに、スカーラ監督の厳しさは私に必要なものだったと理解するようになる。トップチームで最初に出会ったのがもっと甘い指導者だったら、私はきっとそれに甘えて増長していただろう。

もちろん、あのキャンプの中で奔放に羽目を外していたのは私だけではなかった。

しかし年上のプロ選手たちは私よりもずっと要領が良く、羽目を外す時には合宿から離れた場所を選んでいた。

その中でも一番の憧れはアスプリージャだった。彼のスーパーなタレントには、前年のキャンプですでに驚かされていたが、自らの本能に忠実なタイプで、ピッチの外ではやんちゃの限りを尽くしていた。そんな奔放さも彼を好きだった理由のひとつだ。いつも陽気でお調子者、中にはそんな彼を「神なき男」と評する者もいた。どんな馬鹿げたことをしてもまったく罪悪感を抱かないように見えたからだ。

何か小さなスキャンダルが起これば、そこには必ず彼の名前があった。ある時、試合を終えたばかりで翌日は遅くまで寝ていられるという日の深夜に、私たちは10発の銃声で起こされた。頭のおかしい誰かが、我々の宿舎に近いどこかの建物から天に向かってライフルをぶっ放したのだ。数日後、その犯人がアスプリージャであることが判明した。友人の誕生日を祝う祝砲だったのだそうだ。

「おいジジ、もうすぐ試合だぞ」これは現実なのか?

1995/96シーズンの開幕を迎えるにあたって私は心を入れ替え、ルールを守り規律正しく振る舞うようになった。毎日のトレーニングにも常に全力で取り組み、冗談や監督への口答えもできる限り控えるよう心がけた。

11月のある週、正GKのルカ・ブッチが負傷した。代わって出場すべき立場にあったのはアレッサンドロ・ニスタだった。優秀なGKであり、今でも非常に親しい友人の1人だ。引退後はGKコーチとして活躍し、私も一時期指導を受けたことがある。しかし彼はその時人生の困難な時期を迎えており、いくつかの問題を抱えていた。彼の練習の様子を見たスカーラ監督は、次の試合にニスタではなく第3GK、すなわち私を起用しようと決断する。

問題は、その試合の相手がミランだということだった。当時のヨーロッパで最も強力なチームのひとつであり、チャンピオンズリーグで2年続けて決勝に勝ち進んでいた。私を助けてくれたのは若さゆえの無知だった。

それを物語っているのが、試合前に起こってチームメイトたちを驚かせた出来事だ。バスに乗り込むと、私はすぐにカーテンで窓を塞いで目を閉じた。それからスタジアムに着くまでずっと、私は深い眠りの中にいた。

誰かが私の肩を揺さぶる。「おいジジ、もうすぐ試合だぞ」。ピッチへと続く通路に足を踏み入れるまで、私は最高の集中状態を保ちつつも、自分がそこにいるのが信じられない気持ちだった。

私は17歳で、セリエAの公式戦にデビューしようとしていた。今とはまったく異なる時代だった。皮肉な話だが、1995年のサッカーは2000年代よりも1970年代のそれにずっと近かった。ピッチに続く通路には、当時マッサージで筋肉をほぐすために使われていたカンフルオイルの強烈な匂いが漂っていた。支給されるユニフォームもサイズが合っていないことが多く、だぶだぶのシャツに埋もれているように見える選手もいた。

満員のスタジアムの歓声はすさまじく、先発メンバーの名前がアナウンスされるたびに、壁が震えるほどだった。「ブッフォン、ムッシ、ベナリーヴォ、フェルナンド・コウト、センシーニ……」。

ミランの選手たちを間近で見ると心がざわついた。ウェアやマルディーニが目の前にいる。

これは現実なのか、それとも自分は映画の中に入り込んでしまったのか? GKのセバスティアーノ・ロッシは背がとても高く、頭が天井に届きそうだった。ボバン、バレージ、コスタクルタ、ロベルト・バッジョもいた。

パオロ・マルディーニの人間性と優しさ

TVで憧れていた彼らを前にして少し気後れし始めたその時、今でも忘れられない出来事が起こった。

パオロ・マルディーニが私の視線を探し、目を合わせてきたのだ。最初は、私の後ろにいる誰かを見ているのだろうと思ったが、その視線は私をはっきりと捉えていた。そして、にっこり笑って私に歩み寄ると、肩を軽く叩いた。その時の笑顔を何年経っても思い出す。それはちょっとした振る舞いに過ぎなかったが、デビュー戦のピッチに向かう通路で世界最高の左サイドバックが見せてくれた優しさ、人間性は、私にとって大きな励みだった。彼自身、16歳でセリエAにデビューした経験の持ち主だけに、かつての自分を私に重ねていたのかもしれない。

その後には、クリスティアン・パヌッチも声をかけて励ましてくれた。彼ら2人は、勝利を争う真剣勝負に向かう緊張の中で、目の前の若いGKに気を配ってくれた。他の選手たちが自分自身に集中する中、マルディーニとパヌッチには、かつて自分が通ってきたその瞬間への理解と共感があった。彼らが偉大なプレーヤーになった理由の一端がそうした人間性にあったことは明らかだ。

私は彼らの振る舞いを一生忘れないだろう。

ピッチに入場する時、スタジアムのスピーカーから、都市パルマを象徴する人物であるジュゼッペ・ヴェルディの『アイーダ・凱旋行進曲』が流れた。この曲は私がパルマで送ったすべてのシーズンを彩っていくことになる。10代の少年だった時にも、40歳でもう一度パルマのシャツに袖を通した時も――。

試合の最初の数分間、見たことがないほどの速さでボールが芝の上を走るのを目にした。本当の試合は、練習とはまったく別物だった。最初のセーブをした瞬間、すぐ背後のゴール裏スタンドで湧き上がった大きな歓声を聞いて、私はすっかり興奮してトランス状態に入った。心臓の鼓動が高まり、ダイブしても痛みをまったく感じなかった。毎日の厳しいトレーニングで、自分の勇気を示すために狂ったようにダイブを繰り返すうちにできた傷口の感覚もまったく消えていた。

このデビュー戦は私にとって大成功だった。失点せず、いくつかのビッグセーブを決めて、マスコミから高く評価され、監督の信頼も得た。時々、あの日の自分は勇敢だったのか、それとも単に無鉄砲だったのかと考えることがある。しかし結局のところ、それはサッカーの試合に過ぎない。

信じられない光景の連続。すべてが発見と驚きに満ちていた

このパルマ対ミランが、私のプロサッカー選手としてのキャリアのスタートだった。

当時のサッカーが2000年代よりも1970~80年代のそれにずっと近かったと私が言う時に思い浮かべているのは、ピッチ上で起こった様々な出来事のことだ。スタンドからはありとあらゆるものが降ってきた。サン・シーロでは卵やオレンジが投げ込まれた。ある試合では、ペナルティエリア内だけで20個は下らなかった。ナポリ対パルマの試合では、ファウスト・ピッツィのシュートをセーブした直後、ゴールポストの近くから「ドン」という重い音が聞こえた。振り返ると、それはサッカーボールほどの大きさのコンクリート片だった。信じられない光景だった。ジェノヴァでは、ジャンルカ・パリウカに向かって洗面台が投げ込まれたことがあったし、サン・シーロのゴール裏では、2階席から1階席に向かって燃えているスクーターが投げ下ろされたこともあった。

当時のサッカー選手はカンフルオイルの匂いがして、今のように筋骨隆々ではなかったし、タトゥーもほとんど見かけなかった。筋肉自慢の選手は、例えばインテルのポール・インスがそうだったように、ピッチに入る直前まで上半身裸のまま、鍛えた大胸筋を誇示していた。

私たちGKは、関節部を打撲から守るためにガソリンスタンドで調達した廃タイヤを膝や腰に巻いていた。まるでムッシュ・ビバンタム(ミシュランのマスコット)のような見た目だった。毎日の練習でできる打撲の痣が地図を描くように広がっていくのを抑えるために、どれだけの廃タイヤを使ったことだろう。私はまだ若く、新しく経験するすべてが発見と驚きに満ちていた。

結局、そのシーズンに出場できたのは9試合だけだったが、終了後に行われたU21欧州選手権に控えGKとして招集され、優勝メンバーに名を連ねることになった。正GKはアンジェロ・パゴットで、決勝のスペイン戦でPKを2本止めて優勝の立役者になった。本来ならもっといいキャリアを送るにふさわしい、優れたGKだった。

優勝カップを掲げた主力選手の中には、ネスタ、トッティ、カンナヴァーロがいた。10年後にベルリンの地で再び顔を揃え、もう一度優勝カップを掲げることになる面々である。

(本記事は東洋館出版社刊の書籍『ジャンルイジ・ブッフォン自伝 何度でも立ち上がる』から一部転載)

※次回連載は1月23日(金)に公開予定

【連載第1回】ジャンルイジ・ブッフォンが語る「GKとしての原点」。困難を乗り越える“レジリエンス”の重要性

<了>

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[PROFILE]
ジャンルイジ・ブッフォン
1978年1月28日生まれ、イタリア、トスカーナ州マリーナ・ディ・カッラーラ出身。世界最高のゴールキーパーの一人と称される。1995年にパルマでプロデビューし、ユヴェントスでは長年にわたり守護神として活躍。セリエA優勝やコッパ・イタリア制覇など数々のタイトルを獲得した。2006年のFIFAワールドカップではイタリア代表の優勝に大きく貢献。晩年は古巣パルマでプレーし、2023年に45歳で現役を引退した。その献身とリーダーシップは世代を超えて尊敬を集めている。

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