戦うアスリートたちの姿を見て、勇気やパワーをもらったという経験は、スポーツ好きの人なら誰しもあることだろう。スポーツには、人の心を動かす力がある。
(インタビュー=岩本義弘[REAL SPORTS編集長]、構成=REAL SPORTS編集部、撮影=大木雄介、写真提供=【PR(L)AY for JAPAN】)
「自分はサッカーをしていていいのか――とにかく何か力になりたい」
永里選手が東日本大震災の復興支援を目的に行っているチャリティ活動【PR(L)AY for JAPAN】は、いつから活動されているのですか?
永里:2011年から始めて、その年と翌年は宮城県の東松島の小学校を訪問しました。女川を訪問するようになったのは、2013年からです。
2011年の3・11の震災当時はどこにいましたか?
永里:ドイツにいました。震災のことを知ったのはチームメイトからのメールだったんですよ。朝起きたら「日本がすごいことになっている」とメールが入っていて、インターネットで確認したら……。
それで知ったのですね。当時の所属チームは?
永里:トゥルビネ・ポツダムです。
海外のほうが、映像もショッキングだったのでは。
永里:ショッキングでした。これは映画じゃないのか、と。燃えている家がそのまま流されていたり……。家族や友人のことが心配になったけれど、すぐには連絡がつかないし、数日間安否が確認できない友人もいて、とても不安だったことは覚えています。でも、それをきっかけに「(こういう状況の中で自分は)サッカーをしていていいのか」ということをすごく考えさせられたんです。
当時は僕も、スポーツメディアの仕事をやっていていいのか考えました。でもサッカー界では、国内はもちろん海外もすごく動きが早くて、世界中のクラブから東日本大震災に関する応援メッセージが届いたり、サッカーには世界を繋げる力があるというのをすごく感じました。
永里:それは感じましたね。私も地震が起きた3日後くらいに試合があったのですが、試合前には黙とうをして、試合中もチームメイトたちが喪章をつけてくれたのを鮮明に覚えています。
3・11の経験は、日本人の人生において大きな出来事でした。だからこそ、今もチャリティ活動を継続されているのですね。
永里:当時は、とにかく自分も何か力になりたいっていう想いがきっかけでした。
シーズンオフ中の冬に行ったのですね。
永里:はい。とにかく現地へ行って何かをしたくて。
“目的意識”がチームに一体感を
その年のワールドカップで劇的な優勝をして、日本中が力をもらったと言われていましたが、選手として実際どう感じていましたか?
永里:当時のなでしこジャパンの中でも共通の目的意識が生まれて、優勝に結びついたと思うんです。でも、日本で見てくれていた人たちにどれだけ感動や勇気を持ってもらえたのか、実感は湧かなかったです。実際に被災地へ足を運んで現地の方たちと触れ合って、少しずつ実感が湧いてきました。
やっぱり、普段とはまったく違うパワーをもらったと思います。
永里:今回のラグビーワールドカップ(2019日本大会)の開催中にも台風被害がありましたが、同じく目的意識が日本チームにさらに一体感をもたらしたはず。
選手たちにとっては、自分たちができることをやるしかないっていう気持ちになるのですね。
永里:なるんですよ。
女川でチャリティ活動をやるようになったきっかけは?
永里:最初に被災地へ訪問したのは震災のあった2011年の年末で、その際は(女川の)お隣の東松島市の小学校へ伺いました。大学時代の友人が先生として働いていたことがきっかけで訪問することとなり、その学校の生徒たちとサッカーをやったりしていたんですけど、この活動を毎年行っていく中で2013年頃に「コバルトーレ女川」(東北リーグ1部/実質5部)というサッカーチームと接点ができ、もっとサッカーをやっている子たちと関わりたいなと思い始めて。ちょうどそのタイミングで、次の年にコバルトーレのジュニアユース女子チームができるという話があったので、それがきっかけで行くようになったんです。
女子チームの立ち上げにも関わったんですよね。
永里:そうです。アドバイザーとして入ることになったのを機により深く関わるようになりましたが、女川に行き続けている理由は、単純に自分が行きたいからなんですよね。町がすごく好きだし、人もいいし。復興のスピードもたぶん、被災地の中で一番早いと思います。なので、「復興支援に行っている」という感覚は、今はないです。
競技とは関係ない活動を通して、サッカー選手としても成長する
イベントでは、サッカー以外にも地域と連携してワークショップや震災の講話もやっているようですが。
永里:地域の方たちがそういった活動をしているので、先方のアイデアもあって。私が主催するイベントでも子どもたちに震災の話をして、そのような事実があったということをしっかり伝えていくというのは、絶対に必要だと思ったので。年月が経てば、震災のことを覚えていない子たちも出てきますし。
あとは、サッカーとは全然関係ない活動をするほうが、やっぱりサッカー選手としても成長するということを、自分の経験からすごく感じているので。小さい頃からサッカー一本ではなく他のことにも興味を持ってもらえるように。子どもたちが、いろいろなことから吸収して勉強できるような機会というのは、大人がもっと与えていかなきゃいけないなと思います。
永里選手自身は、サッカー一本だったから?
永里:はい。それも大人になってから気づいたので。
だからこそ、サッカーのためにも、それ以外のことを経験したり学ぶことはいいんだよ、ということを伝えたいのですね。それは、やった人じゃないと言えないことだと思います。いろいろな人に会う中で、それぞれの分野でやり切っている人には「それだけをやっていればいい」と言う人はいませんよね。やっぱりその競技をやる上でも、いろんな視点を持たないといけないと感じます。永里選手がサッカーと並行して、こうしたチャリティ活動を続けるのどういった理由からですか?
永里:約10年間、日本の外の世界を見てきて、その中で自分が見て感じてきた日本の姿がありました。国家の歴史が一番世界で長い国であり、この国にしかない文化と風習があって。そこに込められている精神こそ、今の世界に必要なことだなというのをヒシヒシと感じていて。
縁もゆかりもない関係から、活動を通じて家族のような温かい関係に
今では、女川の人たちとの関係性も築いてきて、現地の人たちと触れ合うことを楽しみに、みんなの顔がまた見たいから行くという感じなのですか?
永里:理由の一つに、中学生の女の子で、自分のことをとても慕ってくれていて女子サッカー選手になることを目指しているっていう子が1人いるんですよ。その子の存在も大きいです。毎年、私が来るのを楽しみにしてくれていて。彼女のためにもっと何かやってあげたいなっていう気持ちもありますね。
その子がプロサッカー選手になってもならなくても、お互いにとってすごくいい経験になりますよね。
永里:そうですね。もう4、5年彼女を見ているので。
今は女川を中心にチャリティ活動をされていますが、復興のスピードも他の地域よりも早いということで、何か違いを感じることはありますか?
永里:ありますね。
もともとは縁もゆかりもなかったのに、ある意味、家族みたいな感じの関係ができてきたんですね。
永里:そうなんですよ。女川に行った時、夜にバーへ行くと地元の知らない人たちとふつうに飲んだり。そういうことができちゃうところなんですよ。
温かいですね。
永里:温かいんです。なんか、海外にいるみたいな感覚です。
宮城県は全体的にも、ボランティア活動が活発だと聞いたことがあります。
永里:女川は町長の須田(善明)さんが面白いんですよ。須田さん自体が、イベントをやるのが好きで、とにかく面白いことをやりたいという方なんです。
女川という町が危機にあって、その長である町長さんを中心に、みんなで盛り上げていこうっていうチーム意識が強い町なのですね。あと、女川の町おこしも含めて、面白いことをいろいろやっていこう、というマインドのある人なのでしょう。
永里:完全にそうです。
上に立つ人のパワーが、他の地域との違いなんですね。
永里:違いますね。
これから先の未来、女川はどんな町になっていってほしいなと考えていますか?
永里:女川から、日本をリードし世界で活躍するような人が出るようになって、女川が世界を繋ぐ町になってほしいと思っています。
<了>
[PROFILE]
永里優季(ながさと・ゆうき)
1987年生まれ、神奈川出身。シカゴ・レッドスターズ所属。ポジションはフォワード。2001年に日テレ・ベレーザに入団。2010年にドイツへ渡り、ブンデスリーガ1部トゥルビネ・ポツダムへ移籍。2013年イングランド1部チェルシー、2015年1月にドイツ1部ヴォルフスブルク、8月にフランクフルトへ。2017年よりアメリカのシカゴ・レッドスターズへ加入。女子日本代表“なでしこジャパン”として、2011年FIFA女子ワールドカップでは優勝、2012年ロンドンオリンピックでは銀メダル獲得に大きく貢献。