2025年8月12日、台湾のポータルサイト・vocusに「『タコピーの原罪』は『無責任』な作品なのか?」と題した記事が掲載された。
記事はまず、「昨年夏、『負けヒロインが多すぎる!』が大きな話題を呼んだが、今年の夏はそれ以上に豊作である。
続けて、「一時的な話題が落ち着いたあと、『タコピーの原罪』には何が残ったのか。強烈な画風、コントラストの効いた映像、説明しがたい不安感や混乱は残った。しかし、同作が扱う社会問題についての掘り下げはほとんどなかった。物語には、いじめや心の傷、家庭環境など、深く議論できるテーマが多く含まれている。それにもかかわらず、作中ではそれらを正面から語らず、背景として消費している印象が強い。もちろん、作品が解決策や前向きな価値観を必ず示す必要はない。しかし、敏感なテーマを使うなら、その重みを表現として引き受ける必要がある。テーマをただの視覚的インパクトや感情操作に使うだけでは、それはもう『表現』ではなく『消費』なのだ」と指摘した。
また、「『タコピーの原罪』では、加害者が過度に美化されて描かれている。
記事は、「創作者の責任を語る上で、日本アニメ史の二大巨峰、宮崎駿監督と庵野秀明監督は避けられない。宮崎監督は『紅の豚』、『千と千尋の神隠し』、『となりのトトロ』などで、壮大な世界観と温かい倫理観を描き、観客に対して誠実な責任を果たしてきた。彼の作品は単なる娯楽ではなく、思想や価値観を伝える手段でもある。一方、庵野監督は『新世紀エヴァンゲリオン』で、自分の感情や創作への正直さを最優先し、観客の理解や好みに合わせることを拒んだ。彼は妥協せず、時には観客を置き去りにしてでも、自分が本当に描きたいことを追求した」と説明した。
その上で、「表面的に2人は正反対に見える。宮崎監督は、秩序を重んじ倫理的な視点を持つが、庵野監督は混沌(こんとん)を受け入れ、退廃的な表現も恐れない。
しかし、「『タコピーの原罪』を振り返ると、そこにあるのは意味を持ちうる残骸だけで、それらを集めて一つの物語に仕上げようとする意志は見えない。未完成な作品は必ずしも悪いわけではないが、『タコピーの原罪』の場合は責任からの逃避に近い。テーマと現実のつながりを断ち、時代の不安を描くだけで応えようとしない姿勢が見える。宮崎監督や庵野監督の作品では、『責任』が物語の芯を通す光のように機能していた。ただし『タコピーの原罪』はその光を自ら消し、観客との対話や共鳴を放棄した。
そして、「物語を最後まで語るとは、立場を明確にし、その結果を引き受けることだ。しかし、何でも多義的に解釈できる時代では、沈黙が最も安全で、最も芸術的だとみなされがちだ。こうして『責任』という言葉は口にされなくなり、探されなくなっていく。それでも『物語は最後まで完成させるべきだ』と信じる人たちだけが、廃墟のような未完の作品を振り返り、その沈黙の中にまだ隠れた意味や続きがあるのだと探そうとするのだ」と結んだ。(翻訳・編集/岩田)