昨年、卓球女子の早田ひな選手が「鹿児島の特攻資料館に行きたい」と語り、中国や韓国のネットユーザーから猛烈な批判を浴びる騒ぎがあった。1年以上前の出来事だが、なぜか心に引っかかるものがあった。
「特攻資料館に行きたい」
問題となった早田選手の発言は、昨夏のパリオリンピックで銀メダルを獲得した後の帰国記者会見で、「今やりたいことは?」と聞かれての回答だ。産経新聞によると「鹿児島の特攻資料館に行き、生きていること、そして、卓球が当たり前にできていることが、当たり前ではないというのを感じたいなと思い、行ってみたい」と語った。行き先として具体名を挙げたわけではなかったようだが、鹿児島の特攻に関する資料を集めた施設では知覧特攻平和会館が最も有名なので、知覧に行きたいのだなと受け止めた人が多かったようだ。
改めて確認すれば、特攻(特別攻撃)とは、太平洋戦争末期、米軍を中心とする連合国軍に圧倒されて窮地に陥った日本軍が、起死回生を狙って実行した敵艦への体当たり攻撃のこと。航空機による攻撃が中心だが、ロケット付きグライダーや小型ボート、小型潜水艇による特攻もあった。ノンフィクション作家の柳田邦男氏は「日本の戦史の中に特異な影を落とし…国際的には日本人を見る目を歪めさせる『カミカゼ』イメージを生み出す」作戦だったとしている(「零戦燃ゆ 渾身篇」より)。
特攻が初めて実行されたのは1944年(昭和19年)10月のレイテ沖海戦のとき。翌年春の沖縄戦で最も多くの特攻隊が編成され、南九州の陸海軍基地から米艦隊を求めて南の空に向かった。搭乗員はほとんどが10代を含む若者で、太平洋戦争を代表する悲劇として記憶されている。
早田選手の発言を報道で知ったとき、私は「過去の悲劇を学ぶことで平和の尊さを確認したいということだろう。
しかし、中国や韓国の受け止め方はまったく異なっていた。早田選手は中国で人気者だったが、報道によると、SNSには「発言を撤回してほしい」「中国人の感情への冒涜だ」などとする非難が殺到したという。韓国でも同様の反応が見られた。特攻は両国に対して行われたものではないが、日本軍国主義の象徴と位置付けられているためだろう。まさか早田選手が…と裏切られた気持ちになったファンもいたかもしれない。
「平和への祈りをこめて」
こうした反発は、それぞれの国の歴史認識を反映しており、早田選手の意図を理解してもらうのは容易ではない。ただ、同選手を批判した中国や韓国のSNSユーザーのうち、実際に知覧などを訪れた人はほとんどいないだろう。私もそうだったので、偉そうなことは言えない。このため、10月末から11月初めにかけて、遅まきながらかつての特攻隊基地跡を歩いた。
今回訪れたのは、いずれも鹿児島県の万世特攻平和祈念館(南さつま市)、知覧特攻平和会館(南九州市)、指宿海軍航空基地跡(指宿市)、海上自衛隊鹿屋航空基地資料館(鹿屋市)、串良平和公園(同)など。これら施設の多くに「平和」の二文字が冠されており、事実を伝えることで特攻の悲劇を繰り返してはならないという目的で設置されたことが分かる。
陸軍基地の跡に建設された万世と知覧の施設では、特攻隊員の遺書や遺品、写真などが多数展示されている。中でも目を引いたのは、万世記念館に掲示された少年飛行兵5人の写真。1人が子犬を抱きかかえ、周りの4人が子犬に手を差し伸べながらあどけない笑顔を見せている。彼らは全員17、18歳の少年で、翌日出撃して南海の海に散った。明日死ぬと分かっているのに、どうしてあんな笑顔でいられるのだろうか。涙なしには見られない写真であり、特攻を賛美するためならこんな写真を掲示することはありえない。同祈念館のパンフレットにも、「平和への祈りをこめて」のキャプションとともにこの写真が掲載されている。
鹿屋市で行われた戦没者合同追悼式にも参列した。鹿屋市出身の戦没者と、同市内の二つの海軍航空基地から出撃して散った特攻隊員らを追悼する催しだ。鹿屋市長は式辞で「戦争は破壊をもたらすだけ。二度と繰り返してはならない」と語気を強めた。
総じて言えば、今回訪れた施設や催しで、特攻を賛美したり、軍国主義の復活を促したりする意図は私には感じられなかった。だからと言って、中国などで「特攻」が日本軍国主義を象徴する言葉となっている現実を変えることはできないだろうが、早田発言を批判した人たちも、機会があれば知覧などを訪れてほしい。そう願った。
「最後の特攻」の不条理
最後に、今回の旅で印象に残ったあるエピソードに触れてみたい。鹿屋航空基地資料館は、現在の海上自衛隊の活動状況を紹介するだけでなく、本物のゼロ戦や二式大型飛行艇(当時世界最高の性能を誇ったと言われる)の機体はじめ、旧日本海軍航空部隊に関する資料や写真を豊富にそろえている。特攻に関する展示も多い。
その中に、鹿屋基地など九州の海軍基地で特攻作戦の指揮を執っていた宇垣纒(うがき・まとめ)中将の、いわゆる「最後の特攻」に関する資料や写真があった。これは、終戦の年の8月15日夕、すなわち玉音放送の後に宇垣中将が11機の艦上爆撃機を率いて沖縄に向かい、文字通り最後の特攻を仕掛けたという出来事だ。2人乗りの爆撃機なので、宇垣中将を含め22人が戦死した。
この展示を見た見学者の女性が、腑に落ちない面持ちで「なんで多くの人を道づれにしたのか。指揮官として責任を取りたいというなら1人で行けばいいのに」と案内人に詰め寄った。
当時の軍人にとっては、宇垣中将らの行動はそれなりに理解できるものなのかもしれない。しかし現代の価値観からすれば、戦争の終結が宣言された後で指揮官がそれに背く行動を取り、20人を超す有為の人材を死地に追いやることはまったく無意味としか思えない。実は、レイテ沖海戦で最初の特攻を命じたとされる大西瀧次郎中将は8月16日に割腹自殺した。自決が良かったとは言わないが、多くの若者を道づれにするよりはましだ。
特攻という「特異な作戦」は、玉音放送後の指揮官による突入という特異な形で終わった。やはり一種の狂気が支配した時代というほかない。私たちはその悲劇を繰り返してはいけないと改めて痛感した旅だった。











