2025年12月1日、中国のポータルサイト・捜狐に「『ドラえもん』を世界にもたらしてくれたことに感謝」と題した記事が掲載された。
記事は、「『ドラえもん』と言えば、誰もがすぐに丸い頭と丸い手の青いロボット猫の姿を思い浮かべるだろう。
また、「51年に漫画家デビュー。54年に上京し、手塚氏も居住した伝説のアパート・トキワ荘に移り住み、真の漫画家を目指す仲間たちと切磋琢磨(せっさたくま)した。しかし、一度は連載の遅れで業界から締め出しに遭うなど、厳しい現実にも直面した。再起後の64年、連載開始した『オバケのQ太郎』が大ヒットし、社会現象を巻き起こす。しかし、藤子氏はすぐに創作スランプに陥り、自信を失いかける。この時期、彼は青年誌向けにSF短編の創作を始め、日常に根差した独自のテーマを確立した。このSFの精神は、彼の後の作品全体を貫くことになる」と説明した。
そして、「69年、再び締め切りが目前に迫る極限状態の中、娘の起き上がりこぼしと猫、当時流行していたロボットのアイデアを結びつけ、翌70年『ドラえもん』の連載が始まった。連載初期の評価は低く、一度は完結も決意されたが、単行本化で予想外の大ヒットとなり、重量級の賞も受賞した。79年からの映画化で『ドラえもん』の人気は確固たるものとなり、国民的漫画の称号を得る。
記事は、「創作に全てを注ぐ一方、午後11時までには必ず帰宅し、休日は家族と過ごすなど、彼は家族との時間を大切にした。彼は『一方の足は日常に、もう一方の足は不思議な世界に。両足でしっかり自分の立ち位置を保つ』という自身の立ち位置を守り続け、『漫画は日常であり、日常もまた、漫画のように楽しさに満ちあふれることができる』というメッセージを、作品と自身の人生をもって私たちに伝えてくれたのである」と結んだ。(翻訳・編集/岩田)











