2026年1月2日、中国のポータルサイト・捜狐に、人気アニメ「鬼滅の刃」の猗窩座がなぜ鬼になったのかを考察した記事が掲載された。

記事の筆者は、「『鬼滅の刃』に初めて触れる観客として、劇場版『鬼滅の刃』無限城編 第一章 猗窩座再来の内容を理解できるのか不安だった。

実際、物語の序盤は戸惑う部分も多かった。しかし物語が進むにつれ、その曖昧さは次第に薄れ、物語の輪郭がはっきりと見えてくるようになった。その上で、同劇場版の核心にあるのは『生への執着』だと考える」と論じた。

そして、「主人公・竈門炭治郎(かまどたんじろう)は、自分と妹の生存のために戦う。一方で、上弦の参・猗窩座(あかざ)もまた、生きるために戦っていた。2人は似通った過去を持ちながらも、性格や選択の違いによって、まったく異なる道を歩むことになった。物語の始まりを改めて知ってみると、当初の炭治郎は、危険に直面すると膝をついて命乞をするような少年であり、現在の粘り強く果敢な姿とは大きく異なっていたことが分かる。それに対して猗窩座は最初から決して命乞いをせず、常に命を懸けて戦い、決して頭を下げなかった」と説明した。

また、「同じように追い詰められ、成長を強いられながらも、その姿はまったく異なるものになった。その違いは性格や境遇だけでなく『未来への希望』があったかどうかにあると感じられる。炭治郎には妹という守るべき存在があり、希望が残されていた。しかし猗窩座はすべてを失い、どれほど多くの仇を討ったとしても、新たな希望を見出すことはできなかったのである」と考察した。

そして、「希望を失った彼は、過去にとらわれるしかなかった。かつて、弱さゆえに家族を守れなかった経験から『強くなること』が彼の執念となった。同劇場版では、猗窩座の過去に多くの描写が割かれており、炭治郎以上に立体的な人物として描かれていると感じた。人はしばしば、このような悲劇性を帯びた人物に心を引かれ、彼の痛みは多くの観客の共感を呼び起こす。彼を理解した瞬間に、作品タイトルの意味も腑に落ちた」と述べた。

同筆者は、「彼の再来は、過去の自分が現在の自分に向けて放った一撃だったのかもしれない。長い殺りくと強さの追求の果てに、彼は自分自身を見失っていたが、炭治郎の何気ない言葉をきっかけに少しずつ本来の自分を取り戻していく。そして、過去の自分が現在の自分に終止符を打った。彼にとって死こそが、真の解放だったのだ」と言及した。

また、「もしかすると、鬼になる前から彼はそう望んでいたのかもしれない。ただ、鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)がその執念につけ込み、彼を別の存在へと作り変えてしまったのだ。正直に言えば、猗窩座に関するエピソードが特別好きというわけではない。

別の視点から見れば、父や恋人の存在は装置的であり、猗窩座を強大な敵として成立させるために用意された筋書きのようにも映る」と指摘した。

その一方で、「それでもなお、この猗窩座に心を動かされてしまう。彼は一見、最も冷酷に見えるが、実は誰よりも心が柔らかい。父にや恋人を守るために強くなろうとした結果として鬼になったが、強者となった時には、もはや彼を必要とする者は誰も残っていなかった。このむなしさが、彼の孤独をより濃く描き出している」とも評した。

さらに、「もしもう一度やり直せるとして、生まれるかどうか、同じ道を辿るかどうかを問われたなら、彼はそれでも『生きる』と答えたのではないだろうか。人はきっと成功や名声を得るためではなく、いくつかの輝く瞬間のために生きているのだ。それは、ごくありふれた夜に、大切な人と共に温かい夕食を囲む、そんな瞬間である。他の登場人物たちもそれぞれに個性と悔恨を抱えているが、最も強く心に残ったのは、猗窩座の『生への執着』であった。父と過ごした日々、師や恋雪と過ごした日々、鬼となった後でさえ、彼の生命力は強くまぶしかった」とした。

そして、「特に印象的だったのは、彼が大量殺りくを始めたのは、鬼になってからではなかったということだ。それ以前からすでに、鬼にしかできないことを成し遂げていた。

彼は自ら望んで鬼になったのではなく、心が完全に死に、誰にどうされても構わない状態にあった。実のところ、その瞬間に彼はすでに死んでいたのだ。『生への執着』が消え、その後に残ったのは、鬼という器だけであった。鑑賞後には強い疲労感が残り、重苦しさの中に、熱血感を併せ持つ作品だと感じた。それでもなお、十分に観る価値があり、今後の展開を期待させる作品だと感じた」と結んだ。(翻訳・編集/岩田)

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