音楽、文芸、映画。長年にわたって芸術の分野で表現し続ける者たち。
本業も趣味も自分流のスタイルで楽しむ、そんな彼らの「大人のこだわり」にフォーカスしたRolling Stone Japanの連載。三組目のゲストは、芸歴の長さで言えばベテランの域に入るFUJIWARAです。

Coffee & Cigarettes 03 | FUJIWARA

芸歴の長さで言えばベテランの域に入るFUJIWARA。原西の一発ギャグや藤本の飄々としたキャラがハマり、今やテレビのバラエティには欠かせない2人の強烈な色。その凸凹感が不思議なコンビの軌跡をたどる。

FUJIWARA。結成から既に29年が経つ、お笑いコンビとしては中堅以上の存在で、バラエティ番組への出演なども含め、2人のことを知らない読者はいないと思う。喫煙歴約20年の愛煙家で大好きなタバコを吸いながら撮影に臨んだのが、ツッコミとネタ作り担当のフジモンこと藤本敏史。プライベートでは木下優樹菜の旦那さんで2児のパパ。お笑い芸人としてだけではなく、理想の夫婦や育メンとしての露出も多い。相方は原西孝幸。強烈なボケ担当で、破壊力抜群の一発芸でも有名。
漫才内でもピンでも披露するこの原西の一発芸には多くのファンがいる。

インタビューが始まると両者の性格が対照的なのにすぐ気づく。藤本は気配りの人で、よくしゃべり質問に的確に言葉を返してくれる。ネタ作りもする藤本は分かりやすく言えば、論理的な人間だ。一方の原西は藤本の真逆で、マイペースで、独特の間で独特の角度から言葉を短く返してくる。破壊的な一発芸を武器とする原西は感覚的なタイプのようだ。”コンビ”とはうまく言ったもので藤本と原西は完全に凸と凹の関係で、2人の存在は真逆だからこそ一つのコンビになるんだなぁと、インタビュー開始早々から思った。

そんな2人が出会ったのは地元の大阪府寝屋川市にある公立高校。高校3年のとき、たまたま同じクラスになったのがきっかけだった。

藤本は、小さい頃からお笑いが好きだったが、ダウンタウンが司会を務める関西ローカルの『4時ですよ~だ』を観たことで、その気持ちが増幅し、ついに心斎橋にある2丁目劇場に足を運ぶようになる。劇場でもテレビでも、藤本が目にしたのは黄色い声援に包まれるお笑い芸人。これを見た藤本は、芸人になることを決めた。
そしてNSCというダウンタウンも卒業した吉本のお笑い養成学校があることを知り、就職も進学も諦め、「俺はNSCに行って芸人になるでぇ」とクラスでも宣言をするようになる。

そんな藤本の話に反応したのが原西だった。とはいえ、原西はプロの芸人志向ではなかった。当時の様子を西原は振り返る。「オモロイことは好きやったんですけど、大学に行くことが決まってたんです。しかも、オモロイことをしてお金をもらえるシステムがそもそも分からなかったし、”笑いのプロ”っていう意味が分からなくて。なので、NSCに行くのも、たとえるなら、高校のテニスサークルで全国大会に出るような感覚ですよ。サークルで全国大会に出てもお金ってもらえないじゃないですか? そんな感じだったんで、大学に行きながらNSCに行こうと思って」

かくして、2人ともNSCに入るが、プロ志向の藤本と、プロになることの意味すら分かっていない原西には相当の温度差があった。その温度差に敏感だったのは藤本。「こっちは真剣だったんで、原西に対しては”お笑いはそんなに甘いもんじゃないで”と思ってて。だからコイツとだけはコンビ組みたくないと思ってましたね。しかも、僕も原西も当時はすごく汚い格好してたんですよ。
これからのお笑い芸人にはルックスも必要やと思っていたんで、原西と組んだら絶対に売れへんと思ったのもあって頑なに相方に誘うことはしなかったです」と。

だが、NSCにはネタ披露をする授業があり、周囲は誰かとコンビを組んで、ネタ合わせを始め出す。藤本もネタ披露の授業のためにお笑いの価値が合うヤツを探すも、なかなかコイツだ!という相方が見つからない。そうこうしているうちにネタ披露のタイミングが近づいてきたので、原西とは実家も近くネタ合わせもしやすいと思い、仕方なく声をかけコンビを組んだ。そしてネタを披露。これがウケた。

こうしてコンビが結成された。名前は2人の苗字から一文字ずつ取り”藤原”(当時の表記は漢字)。凸と凹が合わさった瞬間だ。時は1989年。ちなみに、この感動的な話を原西はこう振り返った。「NSCに入ったらコンビを組まないとアカン!という意識はなくて。
きっと大勢で文化祭の演劇のオモロイ版みたいのをやるのかと思っていたほどなんで、何でコンビなんや?って思ってましたね」と。コンビは結成当初から圧倒的に凸凹だった。

そんな凸凹のまま、NSCを出た後に2人はプロの道を歩んで行く。だが、運命は確実に良い方に転がり出していたようで、デビューしてほどなく、ナインティナインや雨上がり決死隊などが所属していた若手ユニット「吉本印天然素材」に参加することになり東京に進出。1991年、同名のテレビ番組も始まり多くのファンを獲得し、同世代の中では一歩抜きん出た存在となった。

ところが、「吉本印天然素材」が93年に活動休止。そこから雲行きが怪しくなる。「吉本印天然素材」がなくなったFUJIWARAの2人は活動の場を大阪に戻すが、そのときの大阪は千原兄弟が2丁目劇場の人気を独占していて、FUJIWARAが活動する隙間はどこにもなく、仕事が一気になくなってしまう。必然的に、経済的にも精神的に追い込まれることになった2人だが……。

藤本は吉本が運営する”吉本金融”という貸金業から金を借りて生活をすることになる。一方の原西は窮地に追い込まれずにすんだ。原西は「散財するタイプでもなかったので、前に稼いでいたときのお金が残っていたので普通に生活していました」と飄々と当時を振り返る。
これが同じようなタイプの2人だったら、2人とも金銭的に追い込まれ、引退をしていたかもしれない。やはり、コンビを組むなら違うタイプの相方に限るということか。どちらがピンチでもどちらは平気。そのうち、ピンチを乗り越えることができるからだ。とはいえ、漫才をする場所がなかったのはしんどかったようだ。漫才をする場所といえば、2丁目劇場だが、2丁目劇場を取り巻く千原兄弟のファンたちは自分たちのことを白い目で見ている妄想に取りつかれ、どうにも劇場に出ることに尻込みしていたFUJIWARAの2人。そんな折、彼らのことを気にかけてくれていた吉本の社員が劇場に出ることを熱心に勧めてくれた。自分たちのファンなど一人もいないアウェイな2丁目劇場で漫才をするのは、どうにも気が引けたが、いよいよそうも言ってられない状態になり、意を決して2丁目劇場の舞台へ上がった。

すると、思いのほかウケた。何度か2丁目劇場の舞台に上がったが、そのたびにウケた。原西の破壊力抜群の一発芸を擁するFUJIWARAの漫才はアウェイの2丁目劇場でも通用したのだ!と思いきや、原西が当時のことをこう語ってくれた。「一発芸、当時はまだやってなかったんですわ。
どうやって笑わせたんでしょうねぇ?」と。

何はともあれ、2丁目劇場でウケたことで自信も回復し、運も巡ってきて、関西ローカルのバラエティ番組『吉本超合金』への出演が決まった。時は97年。4年ほどの低迷を乗り越え再びシーンに返り咲いた。原西がまた飄々とこう付け加える。「『吉本超合金』からですね、一発芸をやり出したのは」と。

FUJIWARAが『吉本超合金』に出演したときから既に20年が経つが、今や空前のお笑いブームだ。若い人の中にも芸人を目指す人が多いという。では、紆余曲折を経験し、スランプも不思議な運命で打破してきたFUJIWARAの2人にお笑いを志す人へのメッセージを聞いてみた。原西がこの日の取材で初めてまともな発言をする。「笑いって頭で考えていたこととはぜんぜん違うことが起きるんですよ。絶対にオモロイと思っていたことがウケへんときもあるし、絶対にウケへんと思ったときに爆笑が起きることもある。理屈じゃ説明できないから、お笑いをやってみたいならやってみたらええと思う」と。すると、藤本が「吉本以外の事務所に入ること! 給料安っすいでぇ」と笑わせてくれる。取材中、2人は同じタイプの答えをしない。こういうバランスは本人たちも気づいていない阿吽の呼吸なんだろう。さすがは結成29年の凸凹コンビだ。

いよいよ来年はFUJIWARA結成30周年ということになる。30周年のイベントなどはあるのだろうか? そう質問すると藤本が「ないです!!」と即答する。30年もコンビを組む2人の関係性は今どうなんだろうか? 「2人で飲みに行くことは絶対にないですね」と今度は原西が即答する。藤本が「2人が会話するのもネタの打ち合わせぐらいやし」というと、原西が「仕事でも2人きりだとよう話さないですね」と続く。

2丁目劇場時代から変わらないFUJIWARAの不思議な「凸凹感」

Photo by Tsutomu Ono

会話の最終、藤本がタバコに火をつける。藤本がふかすタバコの煙がFUJIWARAの2人を包む。煙は手に取ることはできない。でも、煙は確実にそこに存在している。29年のコンビの絆、呼吸というのは、そういうものかもしれないと、凸凹の2人を見ながらそう思った。

FUJIWARA
よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。1989年4月結成。若手時代にナインティナインや雨上がり決死隊などが所属していたユニット「吉本印天然素材」に参加。97年には関西ローカルのバラエティ番組『吉本超合金』にレギュラー出演し一躍ブレイク。現在はテレビのバラエティ番組を中心に活躍する。
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