アメリカ時間4月29日、『ボーイズン・ザ・フッド』『ローズウッド』『フォー・ブラザーズ/狼たちの誓い』といった作品を手がけ、オスカー史上最年少、それもアフリカ系アメリカ人で初の監督賞にノミネートされたジョン・シングルトン監督が亡くなった。享年51歳だった。
シングルトン監督は脳卒中となり4月17日に入院、その後昏睡状態に陥った。遺族が出した声明によると、彼はただちに集中治療室に移されたという。「非常につらいご報告ですが、私たちの愛する息子で父親、そして友人だったジョン・ダニエル・シングルトンから、生命維持装置を本日撤去いたします」と遺族は声明で語った。「家族にとっては苦渋の決断でした。何日もかけてジョンの担当医とも話し合いを重ねた末の決断です」
1993年の『ポリティカル・ジャスティス/愛するということ』に出演したジャネット・ジャクソンは、Instagramで故シングルトン監督についてこう記した。「私に映画デビューのきっかけ、初めてのオスカー・ノミネーション、その他いろんなことを与えてくれたのはあなたです。本当にありがとう、作品を通して世界にたくさんのことを残してくれました。ブラック・カルチャーや女性、そして若い映画監督にも尽くしてくれました。ジョン、寂しくなるわ。ご遺族の皆さんに心からお悔み申し上げます」
エイヴァ・デュヴァーネイはTwitterで、シングルトンが与えた影響とレガシー、とくに黒人の映画監督に対する貢献をこのようにまとめた。「今どきこういうことができる人間はそう多くありません。俯瞰的にみればごくわずかです。
ドラマシリーズ『アメリカン・クライム・ストーリー/O・J・シンプソン事件』で、シングルトンが監督したエピソードにジョニー・コクラン役で出演したコートニー・B・ヴァンスも、ローリングストーン誌にこう語った。
「ジョンが監督したエピソードのひとつ『公判開始』は、ジョニー・コクランと彼の娘が意地悪な警察官に呼び止められるシーンから幕を開ける。あのシーンは感極まるね。コクランとダーデンが法廷で繰り広げる究極の対決シーンもだ。あれは黒人として、一人の父親として、そして俳優として、非常にやりがいのあるシーンだったし、同時に、一人の男、一人の弁護士としてコクランの生涯を語る上でも重要な場面だった。ジョンはそれをよく心得ていて、彼にしかできない方法でこのシーンに命を吹き込んだ。真正面から、嘘偽りなくね。ジョンは唯一無二の存在だ。
デビュー作『ボーイズン・ザ・フッド』が大成功をおさめたシングルトン監督が1992年、史上最年少にしてアフリカ系アメリカ人初のアカデミー賞監督賞にノミネートされたのは有名な話(脚本賞にもノミネートされた)。この映画は当時としては珍しく、ハリウッド意外のロサンゼルスの地域にスポットライトを当て、アメリカの黒人一家をリアルに描いた。
「本当に悲しくて、胸が張り裂けそうだ」。この映画の出演者の一人、モリス・チェストナットもローリングストーン誌に語った。「俺が30年間役者をやってこられたのは、ジョンが子どもたちに夢をかなえるチャンスを与えてくれたから。彼は忘れられない印象を世界に残していった。みんなが彼を愛し、心から悲しんでいる」
同じく映画に出演していたアンジェラ・バセットもこう付け加えた。「私がジョンに会ったとき、彼は大学を出たばかりで、初めて脚本家兼監督としてデビューしようとしていたときでした。オーディションでの最初の出会いは、これからもずっと忘れることのないいい思い出です。あの日彼からは、さまざまなオーラがにじみ出ていました……聡明さ、寛大さ、そして何よりも熱意! 何年もずっと、彼はそれを失くさず、保ち続けていました。あの日から今日まで、彼が明確なビジョンを持っていて、それを周りに与えてくれたことに、頭が下がる思いです。
『ボーイズン・ザ・フッド』は興行的に成功をおさめ、批評家からも高い評価を得たものの、「ギャング映画」とばっさり切り捨てられ、メディアの反応はほとんどが、公開直後に各地の映画館で起きた暴力沙汰に終始していた。中には、本編の銃撃シーンを盛り込んだ予告編が暴力騒動を引き起こしたとして、映画を非難するものもいた。だが1991年、ローリングストーン誌とのインタビューでシングルトン監督は、あのような予告編を作ったのは意図的だったと告白した。
1991年、『ボーイズン・ザ・フッド』左手前から順に:アイス・キューブ、ジョン・シングルトン監督、キューバ・グッディング・Jr(©Columbia Pictures/courtesy Everett Collection)
「おかげで劇場は満員御礼さ」と監督。「それにつきるよ。『ターミネーター2』の予告編で、ターミネーターが誰も殺さないと誓う場面を流していたら、誰も見に行こうとしないだろ……観客はさほど期待せずに映画を見に行った。きっといつものくだらない、ロサンゼルスのサウスセントラル地区の街角で起こるアクション・アドベンチャーだろうと思っていた。でも実際はそれ以上のものだとわかると、みんなくぎ付けになったのさ」
シングルトン監督はロサンゼルスのサウスセントラル育ち。幼いころから映画の虜となり、しまいには南カリフォルニア大学(USC)の映画脚本コースに入学した。「みんなリッチになりたがっていた。でも、そのために働くのは嫌だった」と監督。
USCでシングルトン監督はジャック・ニコルソン脚本賞を2度受賞。講師の助けを借りて、初期の脚本をエージェントに渡すことに成功。めぐりめぐって『ボーイズン・ザ・フッド』の脚本はコロンビア・ピクチャーズの元に行きつき、まだ若かったにも関わらず、シングルトン監督はスタジオの会長を説得して見事監督デビューを果たした。最終的にオスカーで歴史的快挙となるノミネーションを受けたとき、彼はまだ24歳だった。
『ボーイズン・ザ・フッド』で成功を収めた後、シングルトン監督は1993年の恋愛ムービー『ポエティック・ジャスティス』――主演はジャネット・ジャクソンとトゥパック・シャクール――や1995年の『ハイヤー・ラーニング』など、人種差別や暴力をテーマにした青春ストーリーを描いた。1997年の『ローズウッド』では史実ものに挑戦。白人集団が黒人の街を破滅させた、1923年のフロリダ州ローズウッドの虐殺事件を映画化した。
『シャフト』と『ハイヤー・ラーング』に出演したバスタ・ライムズは、シングルトン監督を「ショウビズ界の同業者の中でも一番の仲間」だと言った。「俺を導き、信じてくれた。映画に関しては自分では自信があったが、あいつも俺の可能性に気づいてくれた。あいつはさりげなく、相手に自分の意図を感じさせることができた。
2000年代にはヒットムービー監督としての実力も発揮。2000年のリメイク版『シャフト』の他、『ワイルドスピード×2』、『フォー・ブラザーズ/狼たちの誓い』『ミッシングID』などを手がけた。また終盤はTVに活動の場を移し、『エンパイア』『アメリカン・クライム・ストーリー/O・J・シンプソン事件』のエピソードでメガホンをとった。2017年、最後の作品となった犯罪ドラマ『スノーフォール』がFXで公開。80年代初期のロサンゼルスを舞台に、クラック・ブームがいかに始まって広まっていったかを時系列的に描いた。
2000年のリメイク版『シャフト』に出演したサミュエル・L・ジャクソンはこのようにコメントした。「仕事仲間で真の友人、ジョン・シングルトンの死を悼んで一言。彼は多くの若い映画監督に道を切り拓いた。いつも自分らしさ、自分のルーツに忠実だった!!! ブラザー、安らかに。早くに逝っちまいやがって!」
コロンビアの重鎮を説き伏せ、あれほどの若さで『ボーイズン・ザ・フッド』の監督に抜擢された当時の理念と原動力を生涯にわたって維持し続けたシングルトン監督は、その後何十年もハリウッドで傑出した存在として活躍した。「いい映画を作ったときに初めて、やっと認めてもらえる。
シングルトン監督は脳卒中となり4月17日に入院、その後昏睡状態に陥った。遺族が出した声明によると、彼はただちに集中治療室に移されたという。「非常につらいご報告ですが、私たちの愛する息子で父親、そして友人だったジョン・ダニエル・シングルトンから、生命維持装置を本日撤去いたします」と遺族は声明で語った。「家族にとっては苦渋の決断でした。何日もかけてジョンの担当医とも話し合いを重ねた末の決断です」
1993年の『ポリティカル・ジャスティス/愛するということ』に出演したジャネット・ジャクソンは、Instagramで故シングルトン監督についてこう記した。「私に映画デビューのきっかけ、初めてのオスカー・ノミネーション、その他いろんなことを与えてくれたのはあなたです。本当にありがとう、作品を通して世界にたくさんのことを残してくれました。ブラック・カルチャーや女性、そして若い映画監督にも尽くしてくれました。ジョン、寂しくなるわ。ご遺族の皆さんに心からお悔み申し上げます」
エイヴァ・デュヴァーネイはTwitterで、シングルトンが与えた影響とレガシー、とくに黒人の映画監督に対する貢献をこのようにまとめた。「今どきこういうことができる人間はそう多くありません。俯瞰的にみればごくわずかです。
彼はその中でも突出していました。親切で、一生懸命で、才能に満ち溢れ、彼の作品は常識を覆しました。彼の作品は世間に一石を投じました。多くの人から惜しまれ、この先もずっと語り継がれるでしょう。ジョン、ありがとう」
ドラマシリーズ『アメリカン・クライム・ストーリー/O・J・シンプソン事件』で、シングルトンが監督したエピソードにジョニー・コクラン役で出演したコートニー・B・ヴァンスも、ローリングストーン誌にこう語った。
「ジョンが監督したエピソードのひとつ『公判開始』は、ジョニー・コクランと彼の娘が意地悪な警察官に呼び止められるシーンから幕を開ける。あのシーンは感極まるね。コクランとダーデンが法廷で繰り広げる究極の対決シーンもだ。あれは黒人として、一人の父親として、そして俳優として、非常にやりがいのあるシーンだったし、同時に、一人の男、一人の弁護士としてコクランの生涯を語る上でも重要な場面だった。ジョンはそれをよく心得ていて、彼にしかできない方法でこのシーンに命を吹き込んだ。真正面から、嘘偽りなくね。ジョンは唯一無二の存在だ。
彼の意思、彼の存在がなくなるのは本当に残念だ。だが、彼が作品に込めたスピリット――そして彼が次の世代の監督たちのために切り拓いた道は、この先もずっと受け継がれるだろう」
デビュー作『ボーイズン・ザ・フッド』が大成功をおさめたシングルトン監督が1992年、史上最年少にしてアフリカ系アメリカ人初のアカデミー賞監督賞にノミネートされたのは有名な話(脚本賞にもノミネートされた)。この映画は当時としては珍しく、ハリウッド意外のロサンゼルスの地域にスポットライトを当て、アメリカの黒人一家をリアルに描いた。
「本当に悲しくて、胸が張り裂けそうだ」。この映画の出演者の一人、モリス・チェストナットもローリングストーン誌に語った。「俺が30年間役者をやってこられたのは、ジョンが子どもたちに夢をかなえるチャンスを与えてくれたから。彼は忘れられない印象を世界に残していった。みんなが彼を愛し、心から悲しんでいる」
同じく映画に出演していたアンジェラ・バセットもこう付け加えた。「私がジョンに会ったとき、彼は大学を出たばかりで、初めて脚本家兼監督としてデビューしようとしていたときでした。オーディションでの最初の出会いは、これからもずっと忘れることのないいい思い出です。あの日彼からは、さまざまなオーラがにじみ出ていました……聡明さ、寛大さ、そして何よりも熱意! 何年もずっと、彼はそれを失くさず、保ち続けていました。あの日から今日まで、彼が明確なビジョンを持っていて、それを周りに与えてくれたことに、頭が下がる思いです。
彼は大勢の人々に耳を傾け、チャンスを与えてくれました。私も彼に救われた大勢の中の1人です」
『ボーイズン・ザ・フッド』は興行的に成功をおさめ、批評家からも高い評価を得たものの、「ギャング映画」とばっさり切り捨てられ、メディアの反応はほとんどが、公開直後に各地の映画館で起きた暴力沙汰に終始していた。中には、本編の銃撃シーンを盛り込んだ予告編が暴力騒動を引き起こしたとして、映画を非難するものもいた。だが1991年、ローリングストーン誌とのインタビューでシングルトン監督は、あのような予告編を作ったのは意図的だったと告白した。

1991年、『ボーイズン・ザ・フッド』左手前から順に:アイス・キューブ、ジョン・シングルトン監督、キューバ・グッディング・Jr(©Columbia Pictures/courtesy Everett Collection)
「おかげで劇場は満員御礼さ」と監督。「それにつきるよ。『ターミネーター2』の予告編で、ターミネーターが誰も殺さないと誓う場面を流していたら、誰も見に行こうとしないだろ……観客はさほど期待せずに映画を見に行った。きっといつものくだらない、ロサンゼルスのサウスセントラル地区の街角で起こるアクション・アドベンチャーだろうと思っていた。でも実際はそれ以上のものだとわかると、みんなくぎ付けになったのさ」
シングルトン監督はロサンゼルスのサウスセントラル育ち。幼いころから映画の虜となり、しまいには南カリフォルニア大学(USC)の映画脚本コースに入学した。「みんなリッチになりたがっていた。でも、そのために働くのは嫌だった」と監督。
「僕はお金儲けのために映画を始めたわけじゃない。身近な人々を題材に、誰もやったことのない方法で、世に残る作品を作りたかったんだ」
USCでシングルトン監督はジャック・ニコルソン脚本賞を2度受賞。講師の助けを借りて、初期の脚本をエージェントに渡すことに成功。めぐりめぐって『ボーイズン・ザ・フッド』の脚本はコロンビア・ピクチャーズの元に行きつき、まだ若かったにも関わらず、シングルトン監督はスタジオの会長を説得して見事監督デビューを果たした。最終的にオスカーで歴史的快挙となるノミネーションを受けたとき、彼はまだ24歳だった。
『ボーイズン・ザ・フッド』で成功を収めた後、シングルトン監督は1993年の恋愛ムービー『ポエティック・ジャスティス』――主演はジャネット・ジャクソンとトゥパック・シャクール――や1995年の『ハイヤー・ラーニング』など、人種差別や暴力をテーマにした青春ストーリーを描いた。1997年の『ローズウッド』では史実ものに挑戦。白人集団が黒人の街を破滅させた、1923年のフロリダ州ローズウッドの虐殺事件を映画化した。
『シャフト』と『ハイヤー・ラーング』に出演したバスタ・ライムズは、シングルトン監督を「ショウビズ界の同業者の中でも一番の仲間」だと言った。「俺を導き、信じてくれた。映画に関しては自分では自信があったが、あいつも俺の可能性に気づいてくれた。あいつはさりげなく、相手に自分の意図を感じさせることができた。
まるで自分のことのように、心から気にかけてくれた。あいつが『ハイヤー・ラーニング』や『シャフト』で俺を起用してくれたときは、自分にとっては念願の夢が叶ったようで、言葉にできないくらいうれしかったよ」
2000年代にはヒットムービー監督としての実力も発揮。2000年のリメイク版『シャフト』の他、『ワイルドスピード×2』、『フォー・ブラザーズ/狼たちの誓い』『ミッシングID』などを手がけた。また終盤はTVに活動の場を移し、『エンパイア』『アメリカン・クライム・ストーリー/O・J・シンプソン事件』のエピソードでメガホンをとった。2017年、最後の作品となった犯罪ドラマ『スノーフォール』がFXで公開。80年代初期のロサンゼルスを舞台に、クラック・ブームがいかに始まって広まっていったかを時系列的に描いた。
2000年のリメイク版『シャフト』に出演したサミュエル・L・ジャクソンはこのようにコメントした。「仕事仲間で真の友人、ジョン・シングルトンの死を悼んで一言。彼は多くの若い映画監督に道を切り拓いた。いつも自分らしさ、自分のルーツに忠実だった!!! ブラザー、安らかに。早くに逝っちまいやがって!」
コロンビアの重鎮を説き伏せ、あれほどの若さで『ボーイズン・ザ・フッド』の監督に抜擢された当時の理念と原動力を生涯にわたって維持し続けたシングルトン監督は、その後何十年もハリウッドで傑出した存在として活躍した。「いい映画を作ったときに初めて、やっと認めてもらえる。
そうすれば、いい映画として受け入れてもらえるんだ」と、1991年ローリングストーン誌に語ったシングルトン監督。「大事なのは目新しさじゃない。もちろん、いまでは多くの黒人新人監督が出てきているよ。でも、僕は新参者じゃない。この業界にもう長いこと足を突っ込んでいる。長く続けてもいないのに、映画業界の人間だとは言えないよ」
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