映画『Charlie Says(原題)』は、連続殺人鬼として知られるチャールズ・マンソン本人ではなく、マンソン・ファミリーの元メンバー、スーザン・アトキンス、パトリシア・クレンウィンケル、レスリー・ヴァン・ホーテン、3人の女性にまつわる物語だ。

だがこの映画でもっとも印象的なのは、ニュースでは取り上げられなかった日常生活にスポットライトを当て、ファミリー内のさほど印象的ではない出来事を描いたことだ。
質素で、コミューンと音楽に明け暮れる生活。

脚本を手がけたのは『アメリカン・サイコ』のグィネヴィア・ターナー。実は彼女もコミューンで生まれ育った。

ターナーが属していた「ライマン・ファミリー」は、あまり知られていない集団だ。他の有名なコミューンやカルト集団とは違い、ここでは集団自殺も、連続殺人も、施設の立てこもりも起きなかった。ターナーによればファミリーは今も健在で、自分たちをカルト集団ではなく、常に「ファミリー」と呼んでいる。だからといって、ボストンに拠点を置くライマン・ファミリーと、西海岸で共同生活していたマンソン・ファミリーを比べないわけにはいかない。1971年のローリングストーン誌の記事では、ライマン氏は「東海岸のチャールズ・マンソン」と評されている。

幼少時代を振り返れば、ターナーも世の常として、いい思い出と忘れたい出来事、両方の記憶が入り混じっている。だが大方の人間と違って彼女の場合、100人の大人と60人の子どもが固い絆で結ばれたコミューンで生まれたということだ。

「私の幼少時代には楽しい思い出がいっぱい詰まっています。自分よりもいい暮らしをしている子どもがいると考えたことは一度もありませんでした」とターナーは語る。
「他の人たちに申し訳ないと思っていました。だって私たちは選ばれた人間で、このあとUFOで火星に連れて行ってもらえると思っていましたから」

『Charlie Says(原題)』監督を手がけたメアリー・ハロン(『アメリカン・サイコ』の監督でもある)によれば、ターナーのライマン・ファミリーでの経験は貴重だったという。「彼女は他の誰よりも、カルトの力学を直感的に理解していました。本能で理解しているんだと思います。カルトがどう機能するのかを」

たとえば、カルト集団のリーダーが暴力的な行動パターンに陥ること、宗教的指導者でありながら父親的な存在として見られることなど、ターナーならではの知見を備えていたとハロン監督は言う。「カルトにいたとき彼女は子どもでしたが、若い女性にとってどんな感じだったのか理解していたんだと思います。(マンソンは)恋愛対象であったと同時に、恐怖や脅威の対象でもありました」と監督。「ですから、愛情と尊敬と恐れと虐待、虐待への反発が複雑に入り組んでいたのです」

マンソンと関係していた女性たちとは違い、ターナー氏は生まれたときからファミリーの一員だった。彼女の母親は1968年に入信したとき、すでに妊娠していた。ターナー氏は生後11カ月半まで、マサチューセッツやカンザス、ニューヨーク、カリフォルニアと様々な場所を転々としながらファミリーとともに過ごした。

だがターナー氏は集団を「カルト」という言葉で表現することには非常に慎重で、自分が語ることとができるのはあくまでも集団で過ごした1979年までのことだけだ、と念を押す。この時期、彼女はカルトの特徴と思われるいくつかの出来事を経験した。
カリスマ性を備えた支配的なリーダー、フォーク・ミュージシャンで作家のメル・ライマン氏の他、生物学的な家族関係の軽視、自宅学習、様々な教義の授業。そうした教義には、「世界は終焉に向かっているが、ライマン・ファミリーだけは救われて、エイリアンが彼らを金星の新しい住処へと連れて行ってくれる」というものもあった。マンソン同様、ライマン氏も自らを救世主と呼んだ。1作目の著書のタイトルもずばり『Autography of a World Savior(原題)』だった。

1966年、ライマン氏と信者らはボストンのフォートヒル地区にあった廃墟を何軒か購入。1971年にローリングストーン誌のデイビッド・フォルトン記者が取材で訪問したときには、改装してそこで生活していた。フォルトン記者が記事で描写していたのは、都会的なコミューンである反面、(信者本人による)厳格な統制下に置かれた強制的なセクトだった。そこでは、どんなルール違反も「カルマ軍団」に報告することが義務付けられた。ライマン氏の指示を破った場合、罰として「洞穴」と呼ばれる窓のない部屋に監禁され、自らの行いを反省させられることもあった。

当時のライマン・ファミリーの特徴、つまり移動続きの共同生活、行動統制、哲学的思考をもつフォーク・ミュージシャンのリーダー、エイリアンによる救済の契約――はすべて、そのような環境下で育った人間にとっては当たり前のことだった。それが彼らの知る唯一の生き方だった。これこそが、ターナー氏が『Charlie Says』の脚本に盛り込んだ点だ。
映画でもっとも胸を打つのは、殺人の場面でも、女性たちが刑務所で更生する場面でもない。ごく平凡な、しかも和やかなマンソン・ファミリーでの日常生活なのだ。

ハロン監督いわく、これは完全に意図したもので、ターナー氏の知識(コミューンのキッチンの配置に対するこだわりや、些細な会話に至るまで)に寄るところが大きいという。「ファミリーの衝撃的な一面を描かない限り、女性たちがバカな妄想女にしか見えないという点で、私たちは意見が一致しました」と監督。「そのせいで批判を受けるでしょうね。みんなが見たいのは絶叫ホラー・マンソン映画ですから」

『Charlie Says』では、登場人物の中でもとりわけヴァン・ホーテンの物語に焦点を当てている。高校時代のプロムクイーンはマンソン・ファミリーに加わり、ラビアンカ事件ではローズマリー・ラビアンカを押さえつけて16回も刺した。殺人罪で刑務所行きとなったマンソンや他の2人の女性と同様、ヴァン・ホーテンも当初は死刑を宣告されていたが、1972年にカリフォルニア州最高裁判所が死刑を違憲としたため、終身刑に切り替えられた。

ファミリーの女性たちに焦点を当てて映画を作るにあたり、ヴァン・ホーテンを主人公に選んだのは当然の結果だった。彼女はマンソン同様、他の女性たちにも熱を上げていたからだ。「パトリシア・クレンウィンケルはマンソンに狂おしいほど首ったけだったのに対し、レスリーは恋愛感情を抱いていませんでした。彼女は精神世界の探究者だったのです」とハロン監督。
「カルト内で彼女がもっとも強い絆を感じていたのはパット(パトリシア)でした。2人の関係はとても強く、それが――マンソンの存在同様――2人をカルトにつなぎとめていたのです」

ターナーいわく、語り尽くされた物語に新たな視点を見出すのに、最初は苦労したという。そのとき出会ったのがカーリーン・フェイス氏の著書『The Long Prison Journey of Leslie Van Houten: Life Beyond the Cult(原題)』だ。著者のフェイス氏は『Charlie Says』の中にも登場する。

大学教授のフェイス氏は、服役中のマンソン・ファミリーの女性たちに刑務所内で講義を行っていたが、次第にヴァン・ホーテンと親しくなり、2017年に他界するまで彼女の釈放を訴えた。生前のフェイス氏と言葉を交わしてヴァン・ホーテンとの友情を理解したターナーは、「ヴァン・ホーテンなら、もっとも深みのある、真に迫った人物が描ける」と感じた。フェイス氏はターナーに対して、映画のせいで仮釈放の可能性がふいになることは絶対にしないでくれ、と強く念を押した。

同じタイミングに、ヴァン・ホーテンという影のある人物像を描いたメジャー映画が世に出ることで、釈放への機運が高まるかもしれないが、2014年に『Charlie Says』に取り掛かった当時、そのような意図はターナー自身にとってまったくなかったと言う。実際のところ彼女とフェイス氏は、被害者の遺族に1969年8月の惨劇(映画監督ロマン・ポランスキーの妻で臨月を迎えていた女優のシャロン・テートの殺害)を思い出させてまで、映画を作る価値があるのかどうか意見が衝突していた。「現実の人々を描いていることは、自分でもはっきり分かっています。現実にいらっしゃる被害者と遺族の方々。その重みを、我々は自分のこととして感じるべきだと思うのです」

ターナーは故シャロン・テートの妹、デブラ・テート氏にも接触しようか迷っていた。
彼女は被害者の権利を主張している人物だ。だが、ひとたび映画が完成したところで考えを変えた。「脚本を書いている間、ずっと彼女のことを考えていました。もし私が彼女の立場だったら、当然こう言うでしょう。『あなたたち、こんなお粗末な映画で私をバカにするつもり?』。だから彼女と話をするべきだと思ったんです。映画を見てもらって、『私たちの見解はこうです』と言うべきだと」とターナー氏は説明した。

結局ターナー氏は自分の視点、自分の個人的な経験を下敷きにして、丁寧かつ奥行きのある脚本を書くことが、3人の若い女性が殺人を犯すに至った動機を理解する助けになるだろうと思った。「この映画でできることのひとつは、彼女たちの物語に新たな視点を与えることだと思います」と彼女は言う。「歴史的に見ても、彼女たちにのためにもなると思います。世間が彼女たちを違った角度から見るきっかけになってほしいですね」
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