ジェームス・ヘンケは、ローリングストーン誌のライター兼編集者として、U2、ブルース・スプリングスティーン、エリック・クラプトン、ニール・ヤング、クラッシュなど、数多くのアーティストの記事を1977年から1993年まで執筆した。その後、ロックの殿堂へ転職してチーフ・キュレーターとして活躍していたが、現地時間7月8日朝、認知症に伴う合併症で睡眠中に静かに息を引き取った。
享年65。

「ジムは昔からの友人で、長年ローリングストーン誌の音楽部門の世話役を行ってくれたし、責任を持ってロックの殿堂設立に尽力した。本当に彼は大きな力になってくれた。私たち全員が彼の不在を寂しく思うだろう」と、ローリングストーン誌の創設者ヤン・ウェナーが述べた。

ヘンケはU2初期からの推進者で、1981年のデビュー・アルバム『ボーイ』のリリース直前に、アメリカの音楽ファンに向けて彼らの紹介記事を最初に書いたライターである。「彼らのオリジナリティに溢れるサウンドを表現するなら<知性のあるポップ・ミュージック>だろう。彼らの音楽は聴きやすい上にメロディックで、テレビジョンなどの幻想的で趣のある空気感に、ザ・フーに近いハードロックのエッジが加えられている」と、ローリングストーン誌の記事「U2: Here Comes the Next Big Thing(原題)」で述べていた。

数年後、ヘンケはマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの伝記本『Let The Trumpet Sound: A Life Of Martin Luther King Jr.(原題)』をボノにプレゼントし、これに触発されたボノが1984年のヒット曲「プライド」を書き上げる。実際、ヘンケの地元クリーブランドでコンサートを行うたびに、ボノはステージで必ずこの話をしていた。

ヘンケがローリングストーン誌で働き始めたのは、オハイオ・ウェスリアン大学卒業後間もなくだった。その頃に彼が書いた記事の題材は、ワイヤレスマイク、欠陥レコード(アナログ盤)、のちの警察発表で11人の死が明らかになったシンシナティでのザ・フーの悲劇的なコンサート、ジェリー・ガルシア、クイーンなど数多くある。ヘンケはアメリカの媒体が注目するよりも早くにバンドやアーティストの才能を見出す能力に長けており、その証拠にデビュー・アルバムがリリースされた1カ月後の1984年6月にはザ・スミスの紹介記事がローリングストーン誌に掲載されている。


「The Smiths: Out to Save Rock & Roll(原題)」と題されたその記事で、彼は「最初からモリッシーと(ジョニー・)マーの目標は、聴きやすくて示唆に富んだ楽曲を書くことだった。彼らのこの目標はほぼ達成された。アルバム『ザ・スミス』の楽曲はシンプルで、ギター中心のロックだ。シンセサイザーは一切ない。華美な作り込みもない。アメリカのラジオ局が放送するのを嫌う唯一の点はモリッシーの声だ。彼は歌うというよりも歌詞を話しているようで、抑揚なく歌詞を発する点にイラつく可能性がある」と書いている。

1988年、ヘンケはローリングストーン誌を一時離れて、アムネスティ・インターナショナルが主催した「Human Rights Now!」ツアーに、ブルース・スプリングスティーン&ザ・Eストリート・バンド、ピーター・ガブリエル、トレーシー・チャップマン、ユッスー・ンドゥールと共に参加する。この歴史的なツアーの記録を1988年の著書『Human Rights Now!(原題)』として残した(これ以外の彼の著作には『Marley Legend: An Illustrated Life of Bob Marley(原題)』、『Lennon Legend: An Illustrated Life of John Lennon(原題)』、『The Jim Morrison Scrapbook(原題)』などがある)。

エレクトラ・レコーズの製品部門のバイス・プレジデント職に就くためにローリングストーン誌を離れる少し前、ヘンケはブルース・スプリングスティーンが自身のキャリアについて本音で語った素晴らしいインタビューを行っている。このインタビューで、スプリングスティーンは苦悩に満ちた離婚からEストリート・バンドの解雇に至る経緯、セラピストの治療について、ありとあらゆることを語った。「文字通り、ブルースとは世界中をまわったんだ。
アムネスティ・インターナショナルの例のツアーで、彼は僕を信用するようになった。それがあったおかげで、あのインタビューを記事にすることができたし、厳しい質問を投げかけられたし、正直な答えを得られた。あの記事を読んだ人は衝撃を受けていたし、ローリングストーン誌編集部もそうだった。でも彼の人となりをあれだけ深く掘り下げられたことにみんな敬服していたよ」と、2017年にヘンケ自身がローリングストーン誌に明かしてくれた。

エレクトラ・レコーズでのヘンケは、ジャクソン・ブラウン、モービー、ブリーダーズなどと仕事をしていたが、1994年、ロックの殿堂のチーフ・キュレーター職に就くために同社を去った。ロックの殿堂に展示されるコレクションの入手と確保でヘンケは非常に重要な役割を担い、2012年までロックの殿堂のキュレーター部署で采配を振っていた。同部署在籍中は膨大な数の展示を監督しており、その中には「In the Name of Love: Two Decades of U2(原題)」、「From Asbury Park to the Promised Land: The Life and Music of Bruce Springsteen(原題)」、「Lennon: His Life and Work and Roots(原題)」、「Rhymes and Rage: The Hip-Hop Story(原題)」などが含まれる。特に「Rhymes and Rage~」は主要博物館で開催されたヒップホップに特化した展示としては史上初のものとなった。

「父と一緒に過ごした日々をとてもありがたく思っています」と、ヘンケの息子アーサー・ヘンケとクリス・ヘンケが声明で述べている。「父の寛大さ、音楽に対する情熱は、記事を通して父と触れた人々の中で、レガシーとして永遠に生き続けるでしょう」と。
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