ザ・クラッシュによる最初で最後の来日ツアーで開催された、1982年1月下旬の中野サンプラザ公演を振り返る。パンクの顔として時代を駆け抜けてきた彼らは、そのとき厳しい局面を迎えていた。
今思えば、ザ・クラッシュは1982年のアジア/オーストラリア・ツアーを廻ることに、おそらく同意すべきではなかった。『コンバット・ロック』の張り詰めたセッションの途中に実施するだけでも無理があるのに、プロモーターは1カ月強で25回ものショウを行うという、狂気のスケジュールを取りまとめていたのだ。5年連続でツアーを続けていたバンドはすっかり消耗し、明らかにガタが来ていた。特に状態がひどかったのはドラマーのトッパー・ヒードンで、彼のヘロイン中毒はもはや制御不能となっていた。
「ジャズの時代にも、チャーリー・パーカーのようなサックス奏者がヘロイン中毒になっていたけど」ジョー・ストラマーは語る。「ウワモノという楽器の性質を考えれば、好きなように演奏していてもまだよかっただろう。だけど、ドラムは違う。床に釘を打ち込むように、然るべきところで正確にビートを刻まなければいけない。中毒になったトッパーは、まともな演奏ができなくなった。ドラムが機能しなくなったんだ」
しかしどうにかして、バンドはツアーをやり遂げていく。1月下旬の東京公演で、彼らは「Jimmy Jazz」「Tommy Gun」「Police on My Back」「White Riot」といった楽曲に加えて、ポール・シムノンの妻であるパール・E・ゲイツ(編注:のちに離婚)がリード・ボーカルを務める形で、ワンダ・ジャクソンの「Fujuyama Mama」も披露している。
「日本に到着したときは相当クレイジーだった」と、ミック・ジョーンズは述懐する。
彼らが到着して間もなく、ストラマーとヒードンはひどいケンカを始めだした。「ジョーと一緒にエレベーターに乗っていたらさ」ドラマーがそのときの様子を振り返る。「あいつが言ってきたんだ。『俺の後ろでお前がキマりまくってるのに、どうやって反ドラッグの曲を歌ったらいいんだ?』って」
その質問に対し、ヒードンは十分な回答を用意することができなかった。まもなくバンドがツアーから本国に戻ると、彼は解任され、クラッシュのオリジナル・ドラマーであるテリー・チャイムズが復帰した。
皮肉なことに、ヒードンが作曲した数少ない楽曲の一つ「Rock the Casbah」(歌詞はストラマーが担当)は、クラッシュのキャリアにおける最大のヒット曲となる。このシングルが電波に乗ってヒットする頃には、彼はすでにバンドを離れていた。後年になってストラマーは、ヒードンの離脱がバンドにとって運命の分かれ目になったと語っている。
「あれが終わりのはじまりだった」彼はそう断言した。「グループがどうあれ、俺たちは4人の化学反応によって機能していたんだ。誰かを別の人間と置き換えようとしたら、代わりが10人がかりだとしても、そこから二度とうまくいかなくなるのさ」
※関連記事:「パンク」史上最高のアルバム40選
今思えば、ザ・クラッシュは1982年のアジア/オーストラリア・ツアーを廻ることに、おそらく同意すべきではなかった。『コンバット・ロック』の張り詰めたセッションの途中に実施するだけでも無理があるのに、プロモーターは1カ月強で25回ものショウを行うという、狂気のスケジュールを取りまとめていたのだ。5年連続でツアーを続けていたバンドはすっかり消耗し、明らかにガタが来ていた。特に状態がひどかったのはドラマーのトッパー・ヒードンで、彼のヘロイン中毒はもはや制御不能となっていた。
「ジャズの時代にも、チャーリー・パーカーのようなサックス奏者がヘロイン中毒になっていたけど」ジョー・ストラマーは語る。「ウワモノという楽器の性質を考えれば、好きなように演奏していてもまだよかっただろう。だけど、ドラムは違う。床に釘を打ち込むように、然るべきところで正確にビートを刻まなければいけない。中毒になったトッパーは、まともな演奏ができなくなった。ドラムが機能しなくなったんだ」
しかしどうにかして、バンドはツアーをやり遂げていく。1月下旬の東京公演で、彼らは「Jimmy Jazz」「Tommy Gun」「Police on My Back」「White Riot」といった楽曲に加えて、ポール・シムノンの妻であるパール・E・ゲイツ(編注:のちに離婚)がリード・ボーカルを務める形で、ワンダ・ジャクソンの「Fujuyama Mama」も披露している。
「日本に到着したときは相当クレイジーだった」と、ミック・ジョーンズは述懐する。
「たくさんの叫び声と一緒にプレゼントが投げ込まれ、俺たちはビートルズか何かのように追いかけ回されたんだ」
彼らが到着して間もなく、ストラマーとヒードンはひどいケンカを始めだした。「ジョーと一緒にエレベーターに乗っていたらさ」ドラマーがそのときの様子を振り返る。「あいつが言ってきたんだ。『俺の後ろでお前がキマりまくってるのに、どうやって反ドラッグの曲を歌ったらいいんだ?』って」
その質問に対し、ヒードンは十分な回答を用意することができなかった。まもなくバンドがツアーから本国に戻ると、彼は解任され、クラッシュのオリジナル・ドラマーであるテリー・チャイムズが復帰した。
皮肉なことに、ヒードンが作曲した数少ない楽曲の一つ「Rock the Casbah」(歌詞はストラマーが担当)は、クラッシュのキャリアにおける最大のヒット曲となる。このシングルが電波に乗ってヒットする頃には、彼はすでにバンドを離れていた。後年になってストラマーは、ヒードンの離脱がバンドにとって運命の分かれ目になったと語っている。
「あれが終わりのはじまりだった」彼はそう断言した。「グループがどうあれ、俺たちは4人の化学反応によって機能していたんだ。誰かを別の人間と置き換えようとしたら、代わりが10人がかりだとしても、そこから二度とうまくいかなくなるのさ」
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