先日公開を開始した、エルトン・ジョンの自伝映画『ロケットマン』。ファンタジーに満ちたミュージカル作品において、事実に忠実であることは必ずしも重要ではなが、本作にはフィクションの部分が少なからず登場する。
エルトン・ジョンの半生を描く『ロケットマン』は、自伝映画という枠組みに収まらない。ファンタジーたっぷりのミュージカルとなっている同作は、1990年代初頭に薬物中毒により憔悴しきっていたエルトンが、リハビリ施設でその波乱万丈な人生を振り返るという設定で進行していく。登場人物たちが見事な振り付けを伴うパフォーマンスを披露したり、その時点で完成していないはずの楽曲が登場するなど出来事の時系列を無視していたり、同作では事実に忠実であることよりもエンターテインメント性が重視され、エルトンの半生がこの上なくドラマチックに描かれる。
「僕が何より重視したのは、ミュージカル映画としての娯楽性だった」同作の監督を務めたデクスター・フレッチャーは本誌にそう語った。「エルトンは僕に、アーティストらしくあれと言ってくれた。クリエイティブでアーティスティックな彼の生涯を描く上で、それこそが正しいアプローチだったんだ」
そういったコンセプトが明確である以上、同作のファクトチェックを試みることはアンフェアに思えるかもしれない。しかしエルトンについて多くを知らない観客の多くは、本作のどこまでが事実でどこがそうでないのか、きっと興味を持つに違いない。見落としている部分もあるはずだが、本作におけるフィクションの部分を以下に列挙する。
1. バーニー・トーピンが「人生の壁」の歌詞を書いたのは1967年ではない
長年のパートナーとなる作詞家のバーニー・トーピンをジョンに紹介したのは、Liberty Recordsの社長Ray Williamsだった。その事実は本作にも反映されているが、映画では2人が出会う前からトーピンによる「人生の壁」の歌詞が登場している。同曲が完成するのは、2人が出会ってから2年後のことだ。また草稿が一瞬登場する「ダンデライオン・ダイズ・イン・ザ・ウインド」は、1967年作で間違いない。
2. エルトン・ジョンという名前はジョン・レノンとは無関係
映画でも描かれているように、Reginald Kenneth Dwightとして生まれた彼は、エルトン・ジョンというステージネームの一部をBluesologyで活動を共にしたエルトン・ディーンから拝借している。しかし、苗字の部分がジョン・レノンにちなんでいるというのは事実ではない。正しくは1960年代のロンドンのロックシーンで活躍し、駆け出しだった彼が師と崇めたロング・ジョン・ボールドリーからきている。彼はロッド・スチュアートを見出した人物としても知られている。
3. エルトンがDick Jamesを前にしたオーディションの場で弾いたのは「ダニエル」「ブルースはお好き?」ではない
当初からエルトンの才能を確信していたRay Williamsとは異なり、彼の上司であるDick Jamesは懐疑的だった。本作によるとエルトンは、1967年に行われたオーディションの場で彼を前に「ダニエル」と「ブルースはお好き?」を弾いているが、前者は1972年作であり、後者は1983年の曲だ。
4. Troubadourで行われた初のアメリカ公演で「クロコダイル・ロック」は演奏されていない
エルトン・ジョンのキャリアにおける最大のターニングポイント、それは1970年8月25日にTroubadourで行われた初のアメリカ公演だ。観客を圧倒した同公演の様子は本編で細部まで再現されているが、その場で披露されるトーピンとの共作「クロコダイル・ロック」が完成するのは、実際にはその2年後のことである(揚げ足を取らせてもらうなら、同公演が行われたのは月曜ではなく火曜だ)。
5. Troubadour公演の1週間前にニール・ヤングは同会場でライブをしていない
Troubadourの小ささに驚くエルトンを前に、オーナーのDoug Westonはニール・ヤングが2週間前にそこを満員にしたと話す。当時ヤングはCSNYとしてのツアーを終えたばかりであり、会場はどこもTroubadourよりも遥かに大きかった。ヤングがそこでライブをしたのはエルトンの公演から1年以上前であり、それ以降一度も出演していない。
6. ジョンがバックバンドのメンバーと初めて会ったのはライブ当日ではない
Troubadourでのライブが決まったとDick Jamesから聞かされると、劇中のエルトンは不安そうな表情を見せる。
7. バンドにギタリストが加わったのは1970年
Troubadour公演でエルトンのバックを務めたのはマーレイとオルソンの2人のみだった。映像こそ残っていないものの、当日の演奏はライブアルバム『11/17/70』で聴くことができる。彼らのバンドにギタリストのデイヴィー・ジョンストンが加入したのは1972年だ。マレーは1992年に逝去したが、Troubadourでのライブから49年後の現在でも、オルソンとジョンストンは彼のバックで演奏を続けている。
8. ジョン・リードと出会った時期が異なる
映画によると、エルトンとバーニーはTroubadourでの公演後に、Mama Cassの自宅で行われたパーティーに参加している。バーニーが席を外し、エルトンが1人でいるところに声をかけるスコットランド人男性、それが1998年まで彼のマネージャーを務めることになると共に、向こう数年間エルトンの恋人となるジョン・リードだ。彼との出会いはエルトンの生涯における重要な1ページに違いないが、実際に2人が出会ったのは同年後半に行われたモータウンのクリスマスパーティの場だった。
9. 1971年~1990年の出来事の時系列が不正確
Troubadourでの衝撃的ライブの後にエルトンが経験した出来事の数々が、劇中では実際の時系列を無視して描かれている。彼がヘッドラインを飾った新聞やゴールドディスクのモンタージュ写真が登場したかと思えば、突如1976年に飛び「恋のデュエット」をキキ・ディーと共にレコーディングする。
10. Renate Blauelと結婚したのは1984年
映画では1979年の『恋に捧げて~ヴィクティム・オブ・ラヴ』表題曲のレコーディング時に出会い、「僕の瞳に小さな太陽」をデュエットしたサウンドエンジニアのRenate Blauelにエルトンが恋をする。他者との確かな結びつきを切実に求めていた彼は、ゲイであることを自覚しながら彼女と結婚するが、2人の関係はやがて破綻する。映画ではスタジオで出会った直後に結ばれたかのように描かれているが、2人が結婚したのは1984年のことだ。
11. エルトンとバーニー・トーピンのタッグが解消されていた期間が長すぎる
劇中では「口論になったことがない」と語っていたジョンとトーピンが、その直後に幾度となく衝突する。とりわけ激しい喧嘩の最後に、バーニーは「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」を歌いながら去っていき、その後何年にも渡って2人がタッグを解消していたかのように描かれている。70年代末にエルトンがゲイリー・オズボーンをはじめとする複数の作詞家と仕事をしていたことは事実だが、そういった状況で作られたアルバムは数枚であり、80年代初頭以降はエルトンの曲の歌詞の大半をトーピンが手がけている。
12. 「アイム・スティル・スタンディング」が完成したのはリバビリ施設に入るずっと前
リハビリによってドラッグとアルコールを断つことに成功したエルトンが「アイム・スティル・スタンディング」を書き上げ、シラフでも優れた曲を生み出せることを再確認するという感動的なシーンで本作は幕を閉じる。実際には同曲は1983年に完成しており、彼がリハビリを終えたのは1990年だ。
繰り返しになるが、こういった事実との相違点は決して重要ではない。エルトン・ジョンの生涯について正確に知りたいのであれば、より適した本やドキュメンタリーが多数発表されている(あえて挙げさせてもらうなら、『Elton John: Tantrums & Tiaras』と『Elton John: Me, Myself and I』をお勧めする)。
エルトン・ジョンの半生を描く『ロケットマン』は、自伝映画という枠組みに収まらない。ファンタジーたっぷりのミュージカルとなっている同作は、1990年代初頭に薬物中毒により憔悴しきっていたエルトンが、リハビリ施設でその波乱万丈な人生を振り返るという設定で進行していく。登場人物たちが見事な振り付けを伴うパフォーマンスを披露したり、その時点で完成していないはずの楽曲が登場するなど出来事の時系列を無視していたり、同作では事実に忠実であることよりもエンターテインメント性が重視され、エルトンの半生がこの上なくドラマチックに描かれる。
「僕が何より重視したのは、ミュージカル映画としての娯楽性だった」同作の監督を務めたデクスター・フレッチャーは本誌にそう語った。「エルトンは僕に、アーティストらしくあれと言ってくれた。クリエイティブでアーティスティックな彼の生涯を描く上で、それこそが正しいアプローチだったんだ」
そういったコンセプトが明確である以上、同作のファクトチェックを試みることはアンフェアに思えるかもしれない。しかしエルトンについて多くを知らない観客の多くは、本作のどこまでが事実でどこがそうでないのか、きっと興味を持つに違いない。見落としている部分もあるはずだが、本作におけるフィクションの部分を以下に列挙する。
1. バーニー・トーピンが「人生の壁」の歌詞を書いたのは1967年ではない
長年のパートナーとなる作詞家のバーニー・トーピンをジョンに紹介したのは、Liberty Recordsの社長Ray Williamsだった。その事実は本作にも反映されているが、映画では2人が出会う前からトーピンによる「人生の壁」の歌詞が登場している。同曲が完成するのは、2人が出会ってから2年後のことだ。また草稿が一瞬登場する「ダンデライオン・ダイズ・イン・ザ・ウインド」は、1967年作で間違いない。
2. エルトン・ジョンという名前はジョン・レノンとは無関係
映画でも描かれているように、Reginald Kenneth Dwightとして生まれた彼は、エルトン・ジョンというステージネームの一部をBluesologyで活動を共にしたエルトン・ディーンから拝借している。しかし、苗字の部分がジョン・レノンにちなんでいるというのは事実ではない。正しくは1960年代のロンドンのロックシーンで活躍し、駆け出しだった彼が師と崇めたロング・ジョン・ボールドリーからきている。彼はロッド・スチュアートを見出した人物としても知られている。
3. エルトンがDick Jamesを前にしたオーディションの場で弾いたのは「ダニエル」「ブルースはお好き?」ではない
当初からエルトンの才能を確信していたRay Williamsとは異なり、彼の上司であるDick Jamesは懐疑的だった。本作によるとエルトンは、1967年に行われたオーディションの場で彼を前に「ダニエル」と「ブルースはお好き?」を弾いているが、前者は1972年作であり、後者は1983年の曲だ。
4. Troubadourで行われた初のアメリカ公演で「クロコダイル・ロック」は演奏されていない
エルトン・ジョンのキャリアにおける最大のターニングポイント、それは1970年8月25日にTroubadourで行われた初のアメリカ公演だ。観客を圧倒した同公演の様子は本編で細部まで再現されているが、その場で披露されるトーピンとの共作「クロコダイル・ロック」が完成するのは、実際にはその2年後のことである(揚げ足を取らせてもらうなら、同公演が行われたのは月曜ではなく火曜だ)。
5. Troubadour公演の1週間前にニール・ヤングは同会場でライブをしていない
Troubadourの小ささに驚くエルトンを前に、オーナーのDoug Westonはニール・ヤングが2週間前にそこを満員にしたと話す。当時ヤングはCSNYとしてのツアーを終えたばかりであり、会場はどこもTroubadourよりも遥かに大きかった。ヤングがそこでライブをしたのはエルトンの公演から1年以上前であり、それ以降一度も出演していない。
6. ジョンがバックバンドのメンバーと初めて会ったのはライブ当日ではない
Troubadourでのライブが決まったとDick Jamesから聞かされると、劇中のエルトンは不安そうな表情を見せる。
というのも、彼にはまだバックバンドさえいなかったからだ。自分が何とかすると話したRay Williamsを信じ会場に向かったエルトンは、現場でメンバーたちと初めて顔を合わせる。実際はどうだったかというと、ロサンゼルスに行く4ヶ月前の1970年4月から、エルトンはドラマーのナイジェル・オルソンとベーシストのディー・マレーと共にイギリス各地で演奏している。
7. バンドにギタリストが加わったのは1970年
Troubadour公演でエルトンのバックを務めたのはマーレイとオルソンの2人のみだった。映像こそ残っていないものの、当日の演奏はライブアルバム『11/17/70』で聴くことができる。彼らのバンドにギタリストのデイヴィー・ジョンストンが加入したのは1972年だ。マレーは1992年に逝去したが、Troubadourでのライブから49年後の現在でも、オルソンとジョンストンは彼のバックで演奏を続けている。
8. ジョン・リードと出会った時期が異なる
映画によると、エルトンとバーニーはTroubadourでの公演後に、Mama Cassの自宅で行われたパーティーに参加している。バーニーが席を外し、エルトンが1人でいるところに声をかけるスコットランド人男性、それが1998年まで彼のマネージャーを務めることになると共に、向こう数年間エルトンの恋人となるジョン・リードだ。彼との出会いはエルトンの生涯における重要な1ページに違いないが、実際に2人が出会ったのは同年後半に行われたモータウンのクリスマスパーティの場だった。
9. 1971年~1990年の出来事の時系列が不正確
Troubadourでの衝撃的ライブの後にエルトンが経験した出来事の数々が、劇中では実際の時系列を無視して描かれている。彼がヘッドラインを飾った新聞やゴールドディスクのモンタージュ写真が登場したかと思えば、突如1976年に飛び「恋のデュエット」をキキ・ディーと共にレコーディングする。
かと思えば1975年に行われたドジャースタジアムでのコンサートが描かれ、1989年にトレードマークとして確立されたはずのスパンコールのハット姿で1979年作の『恋に捧げて~ヴィクティム・オブ・ラヴ』」のレコーディングに臨む。かなりいい加減なように思えるが、エルトンが」何年も後に入所したリハビリ施設で当時のことを回想しているという設定を考慮すれば、時系列の混乱はむしろ自然なことなのかもしれない。
10. Renate Blauelと結婚したのは1984年
映画では1979年の『恋に捧げて~ヴィクティム・オブ・ラヴ』表題曲のレコーディング時に出会い、「僕の瞳に小さな太陽」をデュエットしたサウンドエンジニアのRenate Blauelにエルトンが恋をする。他者との確かな結びつきを切実に求めていた彼は、ゲイであることを自覚しながら彼女と結婚するが、2人の関係はやがて破綻する。映画ではスタジオで出会った直後に結ばれたかのように描かれているが、2人が結婚したのは1984年のことだ。
11. エルトンとバーニー・トーピンのタッグが解消されていた期間が長すぎる
劇中では「口論になったことがない」と語っていたジョンとトーピンが、その直後に幾度となく衝突する。とりわけ激しい喧嘩の最後に、バーニーは「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」を歌いながら去っていき、その後何年にも渡って2人がタッグを解消していたかのように描かれている。70年代末にエルトンがゲイリー・オズボーンをはじめとする複数の作詞家と仕事をしていたことは事実だが、そういった状況で作られたアルバムは数枚であり、80年代初頭以降はエルトンの曲の歌詞の大半をトーピンが手がけている。
12. 「アイム・スティル・スタンディング」が完成したのはリバビリ施設に入るずっと前
リハビリによってドラッグとアルコールを断つことに成功したエルトンが「アイム・スティル・スタンディング」を書き上げ、シラフでも優れた曲を生み出せることを再確認するという感動的なシーンで本作は幕を閉じる。実際には同曲は1983年に完成しており、彼がリハビリを終えたのは1990年だ。
繰り返しになるが、こういった事実との相違点は決して重要ではない。エルトン・ジョンの生涯について正確に知りたいのであれば、より適した本やドキュメンタリーが多数発表されている(あえて挙げさせてもらうなら、『Elton John: Tantrums & Tiaras』と『Elton John: Me, Myself and I』をお勧めする)。
そういった作品には、劇中でリハビリ施設入所時にエルトンが来ていた巨大な真っ赤な悪魔の衣装も、プールの底で幼い頃の自分自身と「ロケット・マン」をデュエットするというエピソードも登場しない。だがエンターテインメントという観点から言えば、『ロケットマン』がそういった作品よりもはるかに優れていることは確かだ。
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