【注:文中にネタバレを想起させる箇所が登場します】
ニヤニヤ笑いの男が、初めてスターの座をほしいままにした。
『バットマン』(1989年)でジョーカー役を演じたジャック・ニコルソンのように、正義の味方と人気を二分したキャラクターでもなければ、今は亡き偉大なヒース・レジャーが『ダークナイト』(2008年)のジョーカー役でオスカーを受賞したのとも異なる。
映画『ジョーカー』では、ホアキン・フェニックスがジョーカーの役どころを見事に掘り下げ、今までにない恐ろしさを持ち合わせ、思う存分役になりきった。みぞおちに重いアッパーを食らわせるような彼のパフォーマンスを表現するには、「素晴らしい」という言葉では物足りない。大げさ? そうかもしれない。だが、無味乾燥なハリウッドに一石を投じるなら、地獄行きを運命づけられた男に命を吹き込む術を心得た役者を起用するのが一番だ。ゲイリー・グリッターの「Rock n Roll (Part 2)」に合わせて、階段で踊りながらヒステリックに笑い、不自然なほど顔や身体を捻じらせるフェニックスは、解き放たれた自我を演じる天才だ。彼から目を離すことなど、どうしてできよう。
ただし、コミックのファンは冷静を保つ必要が出てくるだろう。というのも、スコット・シルバーと共同脚本も手掛けたトッド・フィリップス監督とフェニックスは、DCユニバースの規範にしばられない、独立したオリジナル・ストーリーを作り上げたからだ。これまでとの違いは、マーティン・スコセッシ監督作品からの影響によるところが大きい。1981年の現実的なゴッサムシティは『タクシー・ドライバー』(1976年)をヒントにしたものだし(ローレンス・シャー ASCの無機質なカメラワークに敬服)、あの映画の主役トラヴィス・ビックル(ロバート・デ・ニーロ)は、我らがピエロ顔のアンチヒーローとまさに同じ苦しみを味わっていたのだから。
フェニックス演じる主人公のアーサー・フレックは、心身に問題を抱え、孤独にひっそり生きている。
アーサーは同じ建物に住むシングルマザー、ソフィー(快活なザジー・ビーツ)に恋心を募らせる。セクシーで心優しい女性がアーサーに何の用があるというのか? そう、最初の気のある素振りは、本作が拠りどころとしているスコセッシの2作品と同様、説得力に欠ける。だがここで重要なのはアーサーの願望だ。フェニックスは驚くほど、痛々しいほどに親しみを込めて演じている。
『ジョーカー』を通して問われる「正義」と「悪」
フィリップス監督は『ロード・トリップ』『アダルト♂スクール』『ハング・オーバー!』三部作といったおバカ映画で有名だが、アメリカン・ニューシネマの影響をフル活用して、自分の持ち駒にダークな要素を加えた。だが物語が進行するにつれ、彼らしい鋭いスタイルが顔をのぞかせる。フェニックスにとっては、アーサーの精神を蝕む慢性的な鬱やトゥレット障害のような激発をジョーカーの狂気じみた笑いとうまく組み合わせることが最大の挑戦だっただろう。どこまでが現実でどこまでがアーサーの脳内世界なのか、判断は観客にゆだねられる。思わず見入ってしまうこのキャラクターと一緒になってあざ笑うことはできても、冗談で笑い飛ばすことは決してできない。
当然のごとく、アーサーがおどけた犯罪のプリンスへ転身するまでの経緯は暴力的だ。身をやつした哀れな男(フェニックスは役作りのために52ポンド=約23キロ減量したらしい)は、はじめは街のチンピラから、のちに地下鉄でウォール街のオオカミたちから容赦なく虐げられる。彼らにとってこの道化、このマザコン野郎は、ケツを蹴り飛ばしてほしがっている恰好の獲物なのだ。そして胸糞悪くなるようなR指定級の大殺戮により、我らがメイク男はタブロイド紙の人気者となる。それが引き金となって、ピエロの仮面をつけた集団がデモ行進を起こし、富裕層たちに立ち向かう。富裕層の代表格は市長候補のトーマス・ウェイン(ブレット・カラン)。ブルース・ウェインの父親だ。
バットマンとの比較、とくにアーサーの母親につながっていく場面では思わず顔をしかめるだろう。そこで一瞬勢いがそがれるが、その後のシーンでフィリップス監督はなんとか持ち直す。ただしこのシーンに関しては、ファンはこの先長いこと議論を戦わせることになるだろう。『マレー・フランクリン・ショー』に出演したフレックは、司会者から辱められる。この悪魔に同情することは、自警団を正当化することになるのだろうか? それともフェニックスとフィリップスは、今日の社会に悲しく鳴り響く明白な事実、すなわち犠牲者が加害者へと変貌する経緯をさらに掘り下げようとしているのか? エンターテインメントとしても挑発的作品としても、『ジョーカー』はとにかく桁外れだ。