6月から7月にかけての香港といえば、雨季が明け、夏の日差しと熱い風がたくさんの人たちを旅へとかきたてる季節。しかし、2019年の6月より、香港は暗闇の中にいたのだ。
毎週末には香港各地で抗議デモが行われ、官僚、警察、暴力団のスキャンダルが露呈。警察からの催涙ガスと発砲に若者たちが抵抗するという光景が日常となり、デモを取材する記者、現場にいる救急員までもが警察の標的となったのだ。

今まで文化的で楽しく魅力的な街だった香港は、一気に抗争の街となってしまった。2人のカメラマンのレンズを通して、この夏、香港に何があったのかをより深く理解してほしい。

はじまり──声を上げる市民、それを無視する政府

はじまりは2018年、ある事件がきっかけだった。それは台北で起きた殺人事件で、香港人男性の陳同佳容疑者が交際相手を殺害。この事件により、香港政府は《逃亡犯条例》と《刑事相互援助条例》の改正案を提出し、陳同佳を台湾に引き渡し台湾の法廷で裁くよう求めた。しかしその時点から、香港弁護士会の中国の司法制度への疑念が生まれ、改正案に対して一連の反対の声が上るようになった。一方で、台湾も改正案に協力しないと明言。論争の中、政府と親中派議員は改正案の通過を進め続け、それに対する反発で、改正案反対の旗を揚げる初めてのデモが起こり、13万人もの市民が参加した。それに続くように法律家たちによるデモも行われた。当時からこの運動を追跡し続けているフリーランスのフォトジャーナリスト陳朗熹(Hei)氏は、「当時は社会の反響はそれほど強くなく、今日のような状況に発展するとは想像もしていなかった。」と話す。


今回の運動の最初のターニングポイントとなったのは、6月9日の改正案反対の大規模デモである。参加者数が香港人口の7分の1である103万人に達したにも関わらず、香港政府はデモ終了後に市民の訴えを無視し、その日の夜に改正案の続行を発表したのだ。深夜には警察と市民の衝突が相次ぎ、参加者の多くの若者や学生は逮捕されてしまった。「あの夜は多くのプレッシャーがあり心が痛かったし、無力感にも苛まれ、泣きたくても涙も出ないほど辛かったんです。6月9日までは、警察がそんなふうに武力をもってデモ隊を追いかけ逮捕するのを見たことがなかった。デモ隊は全く武装などしていなかったのに…。」とHei氏は当時を振り返る。

中年世代の力

6月12日。市民の呼びかけにより数万人の市民が政府本部を取り囲み、政府に改正案の撤回と行政長官のキャリー・ラムの退任を要求。その際政府本部前で起こった少数グループの衝突は、警察の強制排除対象となる。傘やペットボトル、バリケードなど一般装備しか持たないデモ隊を鎮圧するため、警察は150本を超える催涙ガス弾、20発のビーンバッグ弾、数発のゴム弾を発砲。多くの人が負傷し、騒動が暴動と定義されることになった。

前線にいた若者が世論の的となり、政府と政府を支持するグループは若者への非難を開始。
一方で、学者、宗教団体、ソーシャルワーカー、親たちが若者たちを擁護し応援する側に回り、警察が武力を濫用したことを厳正に調査するよう求めた。若いデモ隊と同世代であるHei氏は「多くの社会運動は学生からはじまり、大人の参加比率は一般的に低いが、6月14日の『母の集まり』で、香港の大人たちの団結をはじめて感じた。親たちが涙を流しながら発言し、歌い、携帯電話のLEDライトをつけて振る姿に、心が動かされ温かい気持ちになった。とても感動したのです。その中には、40代、50代のおじさんとおばさんがいて、警察と政府の横暴に対して怒鳴っていたのですが、彼らの情熱は、本当にみんなに大きいな力を与えたんです。」と語る。しかし、政府の変わらない官僚主義は民衆の怒りを買い、ついには一人の若者が政府本部付近のビルから飛び降り、自らの死で政府に訴えたことで、200万(+1)人のデモに発展。香港の人口の約3分の1に及ぶ声に直面したことで、キャリー・ラム行政長官は「無期限延期」で改正案の停止を発表したが、引責辞任することはなかった。

香港人の写真家が見た「抗争の夏」

雨傘運動以来、6月9日、103万人規模(主催者発表)となった「逃亡犯条例」(容疑者を中国に引き渡す条例)改正案の反対デモの後、政府が民意を無視し、法案の審議を続行することを発表、デモ隊が政府本部を囲み、道路を占領。警察はデモ隊へ150本の催涙ガス、20発のビーンバック弾、数発のゴム弾を発砲するなど強引な手段で制圧。催涙ガスの中にデモ隊が逃げる時の傘が残した。(Photo by Chan Long Hei)

香港人の写真家が見た「抗争の夏」

中環遮打花園にて香港の母親集会に6000人が集まった。涙を流す母親。
(Photo by Chan Long Hei)

香港人の写真家が見た「抗争の夏」

香港がイギリスから中国に返還された記念日に、恒例のデモが今年も行われた。夜、香港デモ隊が立法会を占領、議場で区章の中華人民共和国の文字と星をスプレーで消した。その後、その場でこの運動で初めて、有権者の任命について、1人1票を投票して選ぶという真の普通選挙の導入が含まれている「五大要求」を宣言。(Photo by Chan Long Hei)

立法会を占拠した夜

全面撤回ではなく、無期限延期に納得できない民衆は、返還記念日である7月1日に行動を拡大。55万人のデモと同時に、若者たちは立法会を取り囲み、夜になると防弾ガラスを割って立法会ビルに突入した。真っ先に館内に侵入したHei氏は、学生の焦燥と緊張を目の当たりにしていた。彼らは館内で、故意に投票施設を破壊し、歴代親中派の立法会主席の画像を取り外し、スプレーでメッセージを書き残すなど、志向性をもち破壊行動に出た。その一方で、仲間が歴史文物や図書資料を破壊するのを止め、食堂で飲み物を取る場合は代金を置き残させた。一見、暴力的なイメージだが、政治システムと法執行機関に対する不満の文明化された表現であり、香港政府、香港市民、さらには世界中の人たちにその叫びが届くようにと願っての行動だった。

日本で音楽関係の撮影をしてきた香港人カメラマンのViola氏は、香港の一員として、一連の事件を記録するため急遽帰国したという。全く組織化されていなかったこの運動について、彼女は、若者がさまざまな信念と戦うことで、柔軟な行動をするようになったのではないかと考える。「無情な政府に直面して、若者は逮捕されること、ひいては死ぬことさえ覚悟しています。
実際は誰もが強くてやさしい心の持ち主。立法会を死守する人も、ビルの外で見守る人も、道を占拠して逃げ道を確保する人も、物資を調達する人も、やることはそれぞれですが、誰もが全員で帰ることを望んでいました。」ビルの外にいた若者が危険を顧みずに立法会に立ち入り、機動隊が建物に突入する寸前に仲間を連れ出したその友愛でなんとか流血を免れた。これは民衆の間に確立した「ひとりも欠けさせない」という決意で、今回の運動で重要な核心的価値になった。

Be water, my friend(友よ、水になれ)

話を6月中旬に戻そう。香港市民は大阪G20会議の前に世界中の新聞に一面広告を出すことで、国際的に《逃亡犯条例》の関心を呼びかけようと、クラウドファンディングを展開。立法会占拠後もキャリー・ラム行政長官は未だ民衆の訴えに答えず、相次ぐ若者の自殺からも目をそらしている。その結果、自由と法治精神を誇る国際都市・香港は、世界中の報道の焦点となった。

カメラマンとして、Viola氏はこの運動で映像がもつ力の大きさを実感した。「写真は言語の壁を超える。さまざまな国や文化の人々を引き寄せるられるし、大量の文字よりわかりやすい。社会運動で撮った写真をSNSに上げたら、多くの日本人の友人たちが香港の状況について聞いてきました。正直、現代の日本人は社会問題に関心がないので、香港の現状は想像もつかないでしょうし、こんなことが起こるなんて考えたこともなかったでしょう。」

海外へと外交討論が始まり、現地には政府官僚の黒幕を暴露するための内部の試みが行なわれるようになった。
抗争で疲れていても志はゆるぎなかった。彼らは、香港のアクションスター・李小龍(ブルース・リー)の名言「Be water, my friend(友よ、水になれ)」を心に刻み、もはや政府本部のほか、さまざまな地区で異なる社会運動を実行。スケールは小さくなるものの、地方デモですら10万人以上を動員、中国大陸からの移民者や旅行者に対しては「光復行動(回復アクション)」を実施、各地のトンネルや歩道橋、フェンスにはメッセージで埋め尽くされた香港の「レノン・ウォール」が、そしてデモにより逮捕者のための募金活動など小さな運動を含め活動の幅は多岐にわたった。毎週末の抗争活動では、必ずHei氏の姿が目に入る。「この運動はこのままで終わってはいけない。激しい衝撃でも、平和な集まりでも、レノン・ウォールの拡大だけでも、止めてはいけないんです。いったん止まれば失敗を意味することになってしまう。モラルを保たなければならないのです」

香港人の写真家が見た「抗争の夏」

香港がイギリスから中国に返還された記念日に、恒例のデモが今年も行われた。デモ隊が中国の国章へ中指を立てた。(Photo by Viola Kam)

香港人の写真家が見た「抗争の夏」

香港がイギリスから中国に返還された記念日に、恒例のデモが今年も行われた。夜、香港デモ隊が立法会を占拠し、ビルのガラスが全部割れたが、立法会内部では歴史価値があるもの、イギリス時代の写真などは守られ、「規律がある暴力」だと言われている。(Photo by Viola Kam)

香港人の写真家が見た「抗争の夏」

「ジョン・レノンの壁」という、デモ応援メッセージを書いて壁に貼るという企画。
最初は雨傘運動時、政府本部周辺の階段で行なっていたが、「18区で花を咲かせる」と共に、香港中各所で作られた。(Photo by Chan Long Hei)

官僚・警察に暴力団が協力 腐敗が明らかに

7月9日、キャリー・ラム行政長官は会見を開き、で改正案について「完全に失敗」し、「法案は死んだ(The bill is dead)」と述べ、改正案の停止を表明するも、頑なに法律的に有効な「撤回」の言葉を口にしなかったため、市民からの信頼は失墜した。一方、数週間に渡る紛争と逮捕で、警察と市民の関係は前例にない崩壊状態に陥ることとなった。

前線に立つHei氏は、「私達は客観的かつ中立でなければなりません。しかし、時間が経つにつれ、警察による暴力はどんどんひどくなる。デモ隊は全く衝突しなかったとは言えないけれど、警察と市民は対等ではないことを覚えておかなければならない。警察は優れた訓練と装備、強力な法律支援を有し、最も重要なのは公的権力を持っていることです。つまり、デモ隊が警察に暴力をふるわれ、誰かが助けようと手を出したら、業務執行妨害で捕らえられてしまうんです。」と話す。Viola氏は、「メディアと警察の関係も悪化の一途を辿っています。メディアは日々、警察から意図的か意図的でないのか、攻撃されたり、強力なライトを当てられたりなど、無下に扱われ、かなりの頻度で撮影を邪魔されています。しかし大半の警察官はその身分証明番号を提示しない。これらは市民への対応と同じで、警察にクレームできないことになっているのです。」

数カ月以上続いた運動がネックになり、デモ隊によってエスカレートした紛争のイメージは民衆の心とともに揺らいだ。7月21日、デモ隊は合法の集会場所から逸脱し、香港特別行政区の中央人民政府の連絡事務所へ。卵やペンキ弾を投げ、付近の壁を塗りつけた。結果、警察による強制排除となったが、住宅街で数十発の催涙ガス、ゴム弾、スポンジ弾を発砲することとなり、罪の無い一般市民と帰宅を希望する人々に影響を与えた。

その頃、多くの香港先住民が住む新界の元朗地区では、無差別襲撃事件が発生。白いシャツに赤い布れを手に纏った村の暴力団と思われる数百人が、藤のムチや木や鉄の棒などの武器を持ち、大通りや駅で通行人を攻撃したのだ。この事件により、議員、ジャーナリスト、妊婦を含む数十人の負傷者が発生し、香港に衝撃を与えた。そしてこの一件が、親中派議員と警察に暴力団が関係しているのではという疑惑を生んだ。警察が駆けつけるまでの時間が長すぎたことが意図的だったのではないか、また、襲撃を見てみぬふりをしたことなどが報道され、黒幕疑惑は爆発的に話題となった。

高い壁の前にある抗争の思い

市民を暴力から守り、暴行に対抗するはずの警察は、デモ隊に対して権力を濫用し、暴力団との汚職を犯した。このことにより、香港中の怒りが爆発。警察と市民の敵対関係を白熱させ、ますます多くのデモや集会が行われるようになり、地元の市民も自発的に警察署を取り囲んだ。一方、各界は6月9日からの一連の事件を徹底的に調べるよう、独立調査委員会の成立を強く求めた。香港の汚職調査機関・廉政公署は積極的に調査を始め、各政府部門の公務員も立ち上がった。しかし、政府は引き続き中国政府の支援の下、引き続き厳しい態度で対応。今後さらに中国解放軍の出動もありえるのではないかとささやかれている。

香港人の写真家が見た「抗争の夏」

デモ実施を警察に禁止され、福建組合(中国人)がデモ参加者の特徴である黒服を着ている若い者に無差別攻撃を宣告したため、ヴィクトリア・パークで集会をすることになった。集会後、家に帰ろうとするデモ隊が警察に太古駅でエスカレーターの上から蹴り落とされた。また、警察は住宅街で催涙ガスを発砲、住民たちが激怒し、警察を追い出そうとしていた。そのまま、隣である西灣河駅まで広がり、警察が無装備だと両手を挙げている一般市民に対して警棒を振り、逮捕すると脅迫した。(Photo by Viola Kam)

香港人の写真家が見た「抗争の夏」

8月11日、警察が尖沙咀で救急隊の女性隊員の右眼をビーンバック弾で打ち潰した。1万人規模のデモ隊が航空業界と共にストライキを行い、空港で集結、「警察、目を返せ」と主張。デモ隊は観光客に香港の状況を伝えようとしたが、警察の圧力により香港空港管理局が当日の300便をキャンセルし、翌日も370便がキャンセルされた。デモ参加者が右目を隠して抗議。(Photo by Viola Kam)

香港人の写真家が見た「抗争の夏」

8月30日、民主活動家、民主派の立法会議員3人が逮捕された。デモの申請が再び反対され、デモ隊が自発的に政府本部周辺に集結、警察が発砲して制圧。(Photo by Chan Long Hei)

香港人の写真家が見た「抗争の夏」

8月31日、警察が太子駅構内で、市民を無差別攻撃し、逮捕した。怪我人が10名程いたが、警察は「怪我人はいない」と主張し、救急隊を駅構内に入れることを拒否。その後、消防士と救急隊が構内に入ることができたが、重度の負傷者の即時病院への搬送を警察に拒否された。結局、記録に残された入院患者数は7人。後の三人は行方不明となり、警察に殺されたという噂があった。怒りが抑えきれなかった人々がネットの呼びかけに応じ、空港で集結抗議を行った。公共交通機関は全て停止されたため、夜に自発的に集まった約5000名のドライバーが空港周辺に残されたデモ隊を救出した。「香港のダンケルクの戦い」と呼ばれる夜だった。観光客は高速道路を沿って市内まで歩いた。(Photo by Chan Long Hei)

9月に入り、運動が始まって3カ月になる頃、香港で大規模なストライキが2回も起きた。参加企業は、香港経済に最も影響を与える金融業界、航空業界と医療業界を含む前代未聞の幅広さで、香港では多数のエリアで大規模ストに関する集会が行われた。そして、数日に渡って空港での座り込み抗議が行われ、その大勢の人数でフライトがキャンセルとなるほか、空港を2日連続にほぼ運作停止となり、空港側が禁止令の申請で一段落となった。さまざまな騒動や衝突に対し、キャリー・ラム行政長官はテレビやラジオを通じ、立法会再開の際には議事規則に従い逃亡犯条例を撤回させ、同時に自ら足を運び市民とすると提唱。専門家と共に社会の根深い問題を話し合う意思を示した。だが、多くの市民は当初の要求に対して明確な回答が3カ月も遅れたことに対し不満を抱いている。また、キャリー・ラム行政長官は独立調査委員会の設置を断固反対し、警察の権利を無限に拡大することを許可。民衆の政府や法律執行機関への不信感は右上がる一方だ。さらに、これまでデモ参加の疑いで逮捕された人数は1,000を超え、逮捕後に暴力を振るわれたり、さらに性的暴行を受けたという噂も出ている。「5つの要求は不可欠」の声は、また続くようだ。

若者だけでなく香港人全員が、誰もが昔のように輝く香港に戻ることを、そして恐怖に脅かされない自由を望んでいる。たとえ24時間しかない場合でも、香港に戻り取材・撮影するViola氏は、この状況を無視することなどできないと言う。「いつも本能で動いているんです。どんな終わり方になるのかは分かりませんが、あるひとつひとつの瞬間を捉え、拡散したいと思っています。」大学では社会科学系を専攻したHei氏は、自分の立場でできる限りのことをして、社会に貢献したいと決意している。「弱者への配慮は社会科学においてとても大切なこと。僕はフリーランスの記者だから、どんな勢力にも操られることはない。第四の権利をもつメディアとして、ほかの三権と権力を持つ人々を観察する、ひいてはそれが弱者へ配慮することにもつながるのではないでしょうか?」

不条理で冷たい政府、高官の嘘、警察の強大な勢力と、任務執行の不公平、警察と暴力団との黒いつながり…それらが白色テロ緊張で張り詰めた香港社会を生み、未来ある若者たちを「暴徒」と非難し絶望の淵に追いやった。しかし、この戦いの夏、私たちは高い壁の前に立ち、激情と優しさの間を行き交い、強い信念を胸に抱いている……「我々は香港人だ」という信念を。

Chan Long Hei
https://www.chanlonghei.com/
香港出身、大学で社会科学専攻。卒業後、2016年からフリーランスカメラマンになり、香港をはじめ国際的に活躍。主に報道とポートレートを撮影。

Viola Kam
https://shadowviola.wordpress.com/
香港出身。イギリスにて、ジャーナリズム / フィルム / メディアについて学んだ後、2008 年に日本に留学し、上智大学院でグローバルスタディーズを研究。写真なら言葉の壁を越えてたくさんの人に伝えられると、写真を独学、大学院を中退し、カメラマンへ転身。主に音楽と社会運動のドキュメンタリーを撮影。
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