横浜銀蝿は、ロックの歴史ではなく社会風俗的な歴史に名を残すことになった特殊なグループである。音楽的にも高く評価されていたキャロルやクールスとは違って、ジャンルとしては『積木くずし』や『なめ猫』側。
しかし、その和製ラモーンズ的な音楽性&ヴィジュアルも、セックス・ピストルズ的な話題性&スキャンダリズムも、世間にかなりの衝撃を与えたのだ。1998年に再結成したものの、Johnny は本業が多忙なため不参加で、嵐は脳梗塞で倒れたため、ギターとドラムにサポートメンバーを加えて活動していた。それがいまオリジナルメンバーで完全復活する。

小学生に愛されるほどの社会現象 「とにかくテレビに出たかった」

ー ついに横浜銀蝿が4人揃いましたね! これを待っていたんですけど、まさか本当に実現するとは。

翔(Vo) 俺たちもそういうふうに思ってる。やっぱりタイミングとかさ......上手く全てがマッチしたって感じかな。

ーJohnnyさんの合流が難しいと思われてたわけですよね?

Johnny(Gt) これまでは巡り合わせがよくなかっただけで。今回、結成40年を前にタイミングが合って、参加できて楽しいです。

ーJohnnyさんがこのモードのヴィジュアルになってるだけで高まりますよ!

Johnny あはは! 髪の毛が立ってるだけで印象も変わりますよね(笑)。

ー最近は「レコード会社の偉い人」として取材とかを受けてたので、ついにこっちに来た!っていう。 この衝撃を伝えるためにも、横浜銀蝿とはなんだったのかしっかり振り返ってみたくて。ボクはリアルタイムだと小学生でしたけど、小学生にあそこまで届いた不良バンドっていなかったと思うんですよ。


翔 そうだよね。

ーガチャガチャにもなってましたからね。「羯徒毘璐薫 狼琉(かっとびロックンロール)」のステッカーとかが景品で。

翔 えー、知らなかった!

ー明らかにパチモンなんですけど(笑)。

翔 でも、それは衝撃。ちょっと見たかったな。

ーそれくらい子供にも届いてたわけですけど、やってる側としても明らかにロックとは関係ない層にまで届いてる実感はあったんですか?

翔 もちろんありましたね。俺らがデビューしたの は1980年だけど、79年に結成してからデビューするまでの1年間にオリジナル楽曲を作って、デビュー したら自分たちの曲で突き進もうとバンドの中で決めていて。俺とJohnnyは高校からずっとつるん でて、「ロックンロールやろうよ」と言って二人で始めたのがきっかけで。何しろ、俺もJohnnyも目立ちたがり屋だから。オーディションも受けたし、学園祭でもやったし、ちょっとしたバンドを集めたコンサートがあれば参加して、アマチュアの頃からファンの女の子が自然についてるようなバンドをやってきたのね。で、その頃っていうのは、フォークでも(吉田)拓郎さんとかそうだったけど、2分半とかの限られた時間で自分たちの音楽は表現できない、一部だけ切り取るだけのテレビには参加したくないと、出演のオファーがあっても断る人が多かった。


ーフォークの人もロックの人も、歌番組には出ない時代でしたよね。

翔 当時は生放送・生本番が当たり前で、自分たちで演奏してもなんの手立てもできないわけじゃん。そのまんまお茶の間にドーンと流れちゃうわけで。 もちろん、ミキサールームで音は拾ってるけど、バンドとなると音を作るのが難しいじゃない。ドラム やベースの音も歌謡曲をやってた人たちが作ってた時代だから、そこでロックなんかやられてもペラッペラな音になっちゃう。それがきっとイヤだったんだとも思うし。

ー「夜のヒットスタジオ」でもダン池田さんが生バンドで演奏していた時代ですもんね。

翔 そんな感じでみんな出たがらなかったなか、俺たちはまず「夜ヒット」から声がかかり、出演したら物凄い反響があって。そのあと「ツッパリHigh School RocknRoll」がいきなりヒットして、すぐに「ザ・ベストテン」にも出たけど、俺らとしては出 たくてしょうがなかったわけ。

ー目立ちたがり屋ですからね(笑)。

翔 テレビに出てから地元に帰ってきて、「お前すげーな!」って言われたい一心という。そのために音楽を始めたようなものだから。


ー「テレビに出たくない」という反発心がそもそもなかった。

翔 全くないですね、そこは全員一致で。

TAKU(Ba) 意味がわからないよね。

翔 なんのためにやってるんだよお前ら、みたいな(笑)。俺たちは何しろテレビに出ることが大好きで 。「ザ・ベストテン」のチャートに「ツッパリHigh School RocknRoll」が入った瞬間、世間とか周りの目も変わってきたし、これは凄いことになってき たと。もともと2分半しかないような曲を歌ってるわけで、切りようがないから当然フルでやらせてくれるし。こんな楽しいことをなんで誰もやらなかったんだろうと思って。リーゼントで革ジャン着てロックンロールを歌ってサングラスをかけた、本当はあ んまり呼びたくないのが音楽界に入ってきて、お茶の間にまでドーンって知れ渡った。そこから俺たちは社会現象になったと思うのね。

ーそうなんですよ。ここまで社会現象になったバンドも珍しいと思ってて。


翔 たしかに、振り返ってみるとそうね。「最後まで聴いてもらえなかったら(表現が)完結しない」っていうのも作り手側としてはわかるけど、それよりもブラウン管のなかに俺たちがいること自体がすごく愉快なことで。そのあとにロックンロールをやってるヤツら、不良っぽいバンド、それこそ今まで出てこなかったフォークシンガーの大御所たちが普通にテレビで歌うようになったのは、横浜銀蝿がお茶の間に入ってきたからじゃないかなって俺は分析してる。

ーテレビに出られる不良、という新しいスタイルで。

翔 そう。みんな出ればいいのに!って思ったし。 何を騒ごうが暴走族と一緒でさ。横浜で大きくなっても、名古屋の人たちは関東の暴走族なんて知らないわけじゃん。それがテレビに一回出ただけで、名前は売れるし音楽も聴いてもらえる。もちろん、よ くなければダメだと言われてしまうけど、「面白いじゃん!」っていう声をいっぱい掴めればそれがヒット曲につながるわけよ。だって俺たち、「8時だョ! 全員集合」にも出たからね。ハッピ着させられて踊れって。
ふざけんな!って言いながら楽しくなってきて、「エンヤー、コーラヤット」と全開でやったりして(笑)。

ーそこもちゃんとやるっていう(笑)。

翔 でも、おかげで小学生にまで広まったわけだよ。 当時はYouTubeもなかったし、動いてる横浜銀蝿は「ザ・ベストテン」とかじゃないと見れなかった。そこはやってきてよかったと思う。

Johnny そもそも、始めたきっかけが音楽論じゃないですから。車の運転と一緒で、バンドも楽しいからやってるだけ。好きとかモテたいとか目立ちたいっていうのが先で、どうだこうだっていう屁理屈はなかったんですよ。

ー基本、暴走族の延長線上っていう。

Johnny そう。テレビを拒否する理由も全くなかったし。

ーテレビで嫌な目に遭ったりとかはなかったんですか?

翔 ないですね。
そもそも楽屋が一番遠かった。他の楽屋の人たちと交流を取らせないように。

ーアイツら厄介だから遠ざけろっていう(笑)。

翔 女の子と楽屋が近くになることもなかったし。でも、嫌なことでは全然なかったよね。

ー他の共演者と揉めそうになったりとかも?

翔 全然ない、まったくない。

Johnny いや、あるんですけどね(笑)。

ーダハハハハ! 口論くらいはしたんですか?

翔 口論というか、楽屋がたまたまマッチ(近藤真彦) の隣になって。やたら話し声とか聞こえるんですよ。他の人はみんな普通に喋ってるんだけど、マッチの声だけデカくて。それで飲み物を頼んだみたいで、当時30代後半くらいのマネージャーが持ってきてくれたのに、「これじゃねーよ」って話になって。

TAKU 違う、それは三原じゅん子さんだよ。

翔 いやいや、マッチだよ!

TAKU マッチは違うよ。「ザ・トップテン」で一緒に並んでて「オメエ、何見てんだよ」って言ったんだよ(笑)。

翔 それはもっとキツいヤツで......そこまでここで 言うことないじゃん!

一同 (爆笑)

翔 とにかく俺が覚えてるのは、若いくせに年上のスタッフをこき使っていて。また違う飲み物を買ってきたら「何度言ったらわかるんだよ!」みたいな話を、こっちの楽屋に聞こえるくらいデカイ声で始めたの。俺らは縦社会じゃんか。先輩が一つでも上だったら敬語を使うし。そうやって育ってきたから、マネージャーさんが可哀想になってきて。言い方も酷いし、ボソボソいじめてるならまだしも、みんなに聞こえるように言ってるもんだから。部屋の壁を思いっきりバーンって叩いて、「うるせーぞ、このガ キ!」と注意したら、どこの楽屋も全部シーンとしちゃって(笑)。

Johnny そんなだから口論にはならないよね(笑)。

過小評価された独自のサウンド 「コード3つしか知らねーし」

ーとにかく横浜銀蝿はポジションが独特だったと思うんですよ。

翔 そうだね。同じようなのがいなかったし。

ーライブハウス的なシーンから出てきたわけでもないし、そのせいか音楽誌で扱われてきた印象も薄くて。

翔 本当にそうだね、ミュージシャンっぽくないもんね。不良音楽楽団(笑)。こんなにヘタな俺たちでもビッグになれるんだぜ、みたいなのがコンセプトで。 細かいことより、せーのでジャーン! だよね。ドンと音を出して、この風体でドカンと歌って、みんながオーッ! ってなったら、それが銀蝿だっていう意識はかなりあったと思う。

ーちょうど時代的にも、日本のパンクムーブメントだったんじゃないかって思ってたんですよ。革ジャンを着て、3コードのロックンロールで、短い曲だらけのアルバムを出してたところとか。

翔 パンクと見る人もいるんだろうけど、俺たちのなかではロックンロール。チャック・ベリーの楽曲をビートルズがカバーしたように、50年代のロックンロールを自己流でアレンジして、日本語で歌うスタイルだよね。最初の頃は「コード3つしか知らねーし」ぐらいのノリだったし。

TAKU アルバムの歌詞カードにコードが振ってあったもんね。

翔 そうそう、「教科書みたいなアルバムにしようよ」って事務所とも話していて。銀蝿の歌だったらギターを始めたばかりでも、3つのコードを覚えたら一緒に歌えるようにしたかったから。「メジャーセブンスやサスフォーってなに?」みたいな感じだ よね。

ー音楽雑誌とか評論家からの評価の低さに対して、思うところはなかったんですか?

翔 全くない。むしろ逆に、湯川れい子さんが「ツッパリHigh School Rockn Roll」を出したときに新聞でコラムを書いてくれて。「ストレートでシンプル、こんなに簡単なことで人が楽しめる音楽ができるだなんて素晴らしい」みたいな内容だったと思う けど、読んだらもううれしくなっちゃって。それから湯川さんが大好き!

TAKU デビューシングル「横須賀 Baby」のB面が「ぶっちぎり Rockn Roll」、その次に出した「ツッパリHigh School Rockn Roll」のB面が「I Love 横浜」で、どっちのB面曲もコード進行が一緒なのよ。ABBA みたいな。そこを評論家が指摘して、「もう一つコードを覚えれば10年持つぞ!」みたいなことを書いていたのは覚えてる。面白いこと言うヤツだと思った(笑)。

翔 俺、叩かれた記事は見たことない。悪いことを書かれてたのかもしれないけど、全く気にしてなかったんだと思う。

ーただ、音楽誌はキャロルとクールスの二組は評価するけれど、銀蝿はあまりにも軽視されてきた気がするんです。

TAKU 逆になんで低いんだろう。たしかに、音専誌では評価されてないじゃないですか。

翔 そっか......そうだね。ただ、誰かに評価されな くても、俺はJohnnyが天才だと思っていて。メロディメーカーとしてもすごいし、それまで3コードしか出てこなかったときに、A→G#m→C#mで「横須賀 Baby」を弾き出したときは「何それ !?」みたいな感じだった。メロディラインにも感動したし、歌詞もよかったな。俺とJohnnyが遊んでたときに、横須賀の女子高生が不良に絡まれてるのを助けたわけさ。それが絶世の美女で、Johnnyがすっかりベタ惚れして。助けたあと家まで送ってあげたんだけど、向こうはそんな気もないし、携帯電話もない時代からそれで終わってしまって......あのあと、何もしてねえよな?

Johnny してないよ(笑)。

横浜銀蝿オリジナルメンバーで完全復活、吉田豪と語る「再会」の舞台裏

Photo = OGATA 衣装協力:LIUGOO 左からTAKU(Ba)、嵐(Dr)、インタビュアーの吉田豪 、翔(Vo)、Johnny(Gt)

翔 そんな一夜が、俺とJohnnyのなかで鮮明に残っていて。「こんな曲ができた!」って言ったとき、「横須賀 Baby」のくだりは絶対あの子のことだ! と思い、そこから詞を膨らませて作っていった。俺たちのオリジナルっていうのは、学校で習ってきたことや軽音の人たちがやってるものとは順番が逆で。ギターをガチャガチャ弾きながら、どこかから拾ってくるのではなく、俺たちの実体験からイメージを膨らませて、言葉がくっついて出来上がってきたものだから。

ーとにかくリアルな世界で。

翔 TAKUがさっき、「I Love 横浜」と「ぶっちぎり Rockn Roll」が同じコード進行だと話していたけど、 当時の俺は勉強もしてないから、勝手に「ボックス」と名前をつけていた。(ボックスステップを)踊るのと一緒で、コードがぐるっと動いてるだけだから、 このボックス型はいいなと思って。「バイバイ Old Rockn Roll」ではAからBに行ったあと、今度はこっちに戻ってこようとか。四角のなかをぐるぐる動いてるうちに何曲もできてしまう。たしかに、も う一個コードが増えたらどこまで作れるの? っていうような曲の作り方だった。

TAKU ハハハハ!

翔 もちろん、今は勉強したから譜面やレコーディングについて最低限の知識はあるけど、これから作ろうとしている新譜も、オーソドックスな3コードのロックンロールが当然入る予定で。それが別に評価されなくても、ファンの子たちが喜んで口ずさんでくれるならいいよね。音楽の価値ってそういうもんじゃないの?

ーそう思ってやってきたんですね。

翔 そりゃ俺だって、キャロルやクールスは今でもすごいと思う。キャロルは中学のときに聴いてたし、クールスを聴きながら走ってたときもある。ドラム缶を持っちゃってる人が音楽やってるわけだからさ、それは尊敬するよね!!

ーどう見ても喧嘩が強いぞってアー写でしたからね(笑)。

翔 それでジェームス(藤木)さんのように、外国人みたいな人がいて。メチャメチャかっこいいギター弾いてて。それに比べたら、俺らドカン履いてるし、4人しかいないし、曲はオリジナルだけど”Baby” とか”好きだ”とかばっかじゃないから。それは評価されないよなって思うし、全く気にならなかったな。

Johnny あとは音楽そのものより、芸能的なやり方が評価に関係してるかもしれないね。うちのユタカプロの社長(大坂英之)はジャニー(喜多川)さんに憧れてて。俺たちがデビューする前はずっとアイドルをやってたんです。フレンズとかレモンパイとか。 だから、銀蝿一家もジャニーさんと似たようなやり方ですよね。

ーまずはファミリーを作るっていう。

Johnny それがあったから、今こうやってマスで周知されたんだけど。露出の仕方とかが芸能的であったから、後にいろいろ言われてるだけで。

ーそれはあったと思いますね。

Johnny 彼(翔)の詞のセンスって、80年代の時代性を切り取ってるじゃないですか。世の風潮を自分の言葉で表現していた。それがムーブメントを巻き 起こしたわけだから。もし銀蝿が一代で終わってれば、絶対に音楽史に残ったと思うんですよ。でも、 芸能のほうで売れてしまった。どっちかと言ったら、 売れるものが芸能で、意固地になってやるのが音楽みたいなところがあるじゃないですか。そこの違いだけだと思います。

ー銀蝿一家には不良要素のない、「あれ?」って人も事務所の都合で紛れてましたもんね(笑)。

Johnny でも、そういうところがあったから、あれだけのムーブメントが作れたと思うので。どっちが良いか悪いかはわからないけど。そういう作りが芸能的に見えるだけに、後の芸能史のほうに名前が残ってるんじゃないですかね。

翔 ホントに下手くそだったし。シンプル・イズ・ベ ストって素晴らしい言葉だなと思ってた。自分たちがそれしかできないから。

横浜銀蝿オリジナルメンバーで完全復活、吉田豪と語る「再会」の舞台裏


ーそこがパンキッシュで良かったんですけどね。

Johnny 自分たちが何をしたい、これがやりたいっていうのが中心で。人からこう見られたいとか、こんなことやったらどう思われちゃうんだろうっていうのがあんまりなかった。「これいいよね!」「かっこいいよね!」っていうものを発信してたのがよかったし、だからヘタでもかっこよかったと思うんです よね。俺もレコード会社にずっといて思うけど、音楽でも”やらせたもの”って、その人間が恥ずかしがると絶対にかっこ悪いじゃないですか。でも、本人が誇りを持ってやっていれば、どんなものでもかっこよくなる。

ーやりきることが重要ですよね。

Johnny 俺たちの場合、デビューするまでに40くらいオーディションに落ちたんですよ。必ずレコード会社とかオーディションに行くと「君たち面白いよ、でも時代じゃないからね」みたいなことを言われたけど、そんなの関係ない。時代は自分たちが作 るものだと思ってたし、俺たちがやってることが一 番だと思っていたから。それがよかったのかなって。

翔 本当にそう思ってたね、後付けじゃなくて。銀蝿ってやらされてたんですか、その髪型はデビューのためにしてたんですかってよく言われたけど全然違う。今思うと銀蝿ってヴィジュアル系だよねって思う人もいるように、365日この格好でいようと決めて、電車に乗るときもこの衣装を着てた。それがプロモーションになったりもして。

ーいつでも銀蝿をやりきることが。

翔 あとは仲間を信じること。Johnnyが考えてきたものは絶対にいいはずだし、TAKU のセンスは絶対に間違いがない。これは声を大にして言いたいんだけど、銀蠅をコピーしたくても、TAKU のリードギターのように弾くベースと、嵐さんの恐るべきスピードの8ビートでみんな躓くわけ。なおかつ俺らは歌も演奏もハモるし、しかも生で歌ってる。そこに音楽評論家の方たちは気づかなかったのか、そういうのは音楽には関係ないことなのか。別に評価されたいわけじゃないけど、なんかこう......俺たちが音楽に対してどう思ってるかくらい言ってもいいのかなって。

横浜銀蝿オリジナルメンバーで完全復活、吉田豪と語る「再会」の舞台裏

「横須賀Baby」
(c/w ぶっちぎり Rockn Roll)
1980年9月:SINGLE

横浜銀蝿オリジナルメンバーで完全復活、吉田豪と語る「再会」の舞台裏

「ツッパリHigh School Rockn Rol(l 登校編)」
(c/w I Love 横浜)
1981年1月:SINGLE

横浜銀蝿オリジナルメンバーで完全復活、吉田豪と語る「再会」の舞台裏

「羯徒毘璐薫狼琉」
(c/w D.J.Rockn Roll-2)
1981年6月:SINGLE

横浜銀蝿オリジナルメンバーで完全復活、吉田豪と語る「再会」の舞台裏

『ぶっちぎり』
1980年9月:ALBUM

再結成に導いた恩人との逸話「本当に水橋さんのおかげ」

ー当時のコンサートはどんな感じでしたか?

翔 デビューして1年目は、何しろ地方に行ったらパトカーがついてくる。で、会場の前に暴走族が溜まってた。「チケットはないけど銀蝿に行くぜ」って見に来てる人がいて。会場は満杯なのにその倍くらい人がいた。

ーチケットなくても、とりあえず集まっちゃう(笑)。

翔 ちなみに、デビューコンサートの会場は横浜教育会館ってところで。始まった瞬間にお客さんがみんな前に来ちゃってさ。「こんなコンサート最高だよ!」って俺もJohnnyも超喜んじゃって。それで楽屋に戻ったら、社長に「何やってるんですか!」と大目玉を食らって。

ーせっかく盛り上がったのに。

翔 「ずっと音楽やっていきたいんでしょ? こんなコンサートやって事故が起きたらどうするんだ」って。不良たちがいっぱい集まってたけど、彼らに押されて苦しい顔してた子がいたのに気づいてたのかと。俺らはそれどころじゃないよね。全員ニコニコして前に来るから、やっぱりデビューすると違うなと思ってたくらいで、出鼻を挫かれて。でもやっぱり、最初の頃は椅子を壊したり、ゴミを散らかして帰るヤツとかがいてさ。

ー当時は椅子付きのホールしかないから、ロックのライブはやりづらかったんですよね。

翔 そうそう。(椅子の)上に立ち上がったりするでしょ。そうされるとホールも「横浜銀蝿には貸しません」ってなるのね。そのことを社長に聞かされて。 もう一度ここに出たいんだったら何か手段を考えなきゃいけない。誰一人立たせないでコンサートが できますか、みたいな。それで、「俺たちはまたここに来たいし、お前たちと一緒にやりたいから、最低限のルールを守って音楽を一緒に楽しもう」と客席に伝えて。そこからMCが長くなって、1曲目で総立ちになってたヤツらがずっと椅子に座ったままみ たいな。だけど続けるうちに、アンコールになっても誰一人立たなくなり、座って聴くのが銀蝿のスタイルになった。今はロックの楽しみ方も認知されてるけど、1980年はそうではない時代だったから。

ー手探りだったんですよね。

翔 アメリカ人が裸でウオー! って野外で大盛り上がりしてるビデオを何度も見てきて。動いてるチャック・ベリーを見た時なんかは涙モンでさ。ロックンロールってそういうものだと思ってたのが、いざ自分たちが始めた時に「それはダメだ」と言われて。でも、それはすぐに納得できた。前にわーっと来るヤツは、他にもわーっとできるコンサートがあればそっちに行く。本当に大切なのは、後ろのほうで「横浜銀蝿ってかっこいい」と思ってくれるヤツで、彼らが武道館を満タンにするんだよって。そういう話 を社長にされて、ずっと意識しながらステージをやってたかな。

横浜銀蝿オリジナルメンバーで完全復活、吉田豪と語る「再会」の舞台裏


ーさっきから社長の話が出てますけど、どんな事務所だったんですか。金銭的にはちゃんともらえてたのか、心配になったりもするんですけど。

翔 お金はもらえてなかったけど......あるとき革ジャンを四着買ってくれたんですよ。そしたら事務所のスタッフから、実は二つあったユタカプロのうち一つを縮小して、それで戻ってきたお金を革ジャン代に充ててプレゼントしてくれたと聞いて。それに俺 たちも感動しちゃって。その時はもう、お金なんてどうでもよかったよね?

Johnny まあね......(苦笑)。

翔 嘘だったかもしれないけど俺は感動して、それだけでがんばれたね 。その後ドーンと売れて 、「これをみんなで分けなさい」みたいなノリでお金とかもらってたから、食えないなんてこともなかったし、印税が入れば「車を買いなさい」とか払ってくれて。 収入面に関しては問題なかったし、むしろ毎日が夢を見てるみたいだった。

ーJohnnyさんが以前「食べれないから音楽を辞めた」みたいな話をしてたじゃないですが。

Johnny それはバンドを辞めて30歳手前の話ですね。それまでは自分の好きなことに家内がついてきてくれたんですけど、子供が生まれて、今度は家族のために生きなきゃと思って。ちゃんと定収入のあるサラリーマンになりました。

ーそのJohnnyさんがキングレコードの社員になり、銀蝿が他のメンバーも入れて再結成し、そしていまようやく再び集まり、キングから新作を出すっていうのは、物語がちゃんと......。

Johnny つながってたんですね。

翔 不思議だよな。実は、ディレクターの水橋(春夫)さんが昨年亡くなって。

ー元ジャックスの。

翔 そうそう。俺たちが「2年間完全燃焼する」と言ってデビューしたとき、「そんなにオリジナル曲を作り続ける覚悟があるのか?」と言ってくれて。こっちも不良だから、あるに決まってるじゃん!みたいな。俺たちはメロディの宝庫だからボコボコできるしって。でも、いざ先に進んでいくとやっぱり悩んだ。そのなかで、いい音を出すために自分たちなりのやり方を見つけてこれたのは、本当に水橋さんのおかげだと思う。

ーまさに恩人なんですね。

翔 そんな水橋さんが亡くなったと聞いて、お別れ会に行ったんですね。そこでJohnnyとも久々に会って。「来年は銀蝿40周年だし、一緒にできたら最高だよね」みたいな話をしたら、そのときは「全然ギター弾いてないし無理!」と断られたけど、しばらくしてからまた電話して、もう一度会ったときに「3カ月くらい練習させてよ」となって。その3カ月後にはもう、俺にしてみればJohnny完全復活でした。自分のなかで100%じゃないのもわかってるけど、一生懸命に練習してたから。じゃあ、やろっかって。

Johnny 去年の夏に心不全で水橋さんが亡くなり、11月の偲ぶ会で翔くんと20年ぶりに再会して。それも奇遇だったけど、水橋さんとは銀蝿のあと何年かに一度麻雀に誘われてたくらいで、すっかり疎遠だったんですよ。それが亡くなる3年前に「もう一回バンドやりたいからJohnnyちゃんのところでCD出してよ」って水橋さんに半ば強要されて、ここ1、2年は密に付き合ってたんです。それがなかったら、たぶん亡くなった連絡も来なかったと思いますね。だから、晩年に再びつながりができて、偲ぶ会で翔くんと会えたのは、水橋さんが「Johnnyちゃん、もう一回やりなよ」と言ってるんだと思う。それなら、20年くらい弾いてなかったけど、真剣にゴルフクラブをギターに持ち換えてやろうかって。

翔 ハハハ!

Johnny タイミングや巡り合わせも、必然的につながってるのかもね。ドラマ『今日から俺は ! !』でまた80年代もフィーチャーされてるし、時代が俺たちを待ってたような感覚がありますね。

翔 常に自分たち発信で申し訳ないけどね(笑)。誰が望んだわけでもないけど。

Johnny 待ってるでしょう!みたいな。

ーこの4人が揃うのは待ってましたよ!

翔 ありがとう。当時、Johnnyのファンだった子が、Johnnyがいないのに「銀蝿の歌が好きだから」とライブにたくさん来てくれて。彼女たちにうれしい驚きをプレゼントしたいとずっと思ってたから。今やってること全てにウキウキしてる。

ーそう考えると、水橋さんは偉大でしたね。

翔 そうだね。(銀蝿のあと)Winkを手掛けてた頃はまだ親交があったから、「絶対売れる、なぜかって声がいいんだよ」って話してたと聞いて。しばらくして本当に売れたから、そういうのがわかる人だったんだろうね。銀蝿が出てきたときも、その嗅覚で 見つけてくれたのかな。しかもあとから調べたら、ジャックスの......すごい人じゃんか。

ーすごい人ですよ!

翔 俺たちはそれを知らずに、当たりが柔らかいからタメ口きいたり、「ふざけんなよ!」とか言ったりして。それなのに、心に刺さる言葉を言ってくれてたわけだから、今思うと本当にすごいよね。俺、偲ぶ会には絶対に行かなきゃと思ってたの。知らない ヤツばっかで居心地が悪そうだなと思ったけど、本当に行ってよかったな。

ー評論家が認めなくても、水橋さんが認めただけですごいことだと思いますよ。

翔 たしかに。評論家の人に認めてほしいわけでもないけど......俺たちも認められたら喜ぶタイプだし(笑)。褒められたら木に登ってくからさ!

横浜銀蝿
1979年9月21日、嵐(Dr)、翔(Vo)、Johnny(Gt)、TAKU(Ba) により結成 。1年後にシングル「横須賀Baby」、アルバム『ぶっちぎり』でデビュー。1982年に日本武道館コンサートを成功 させるも、翌年の「Its Only Rockn Roll 集会ファイナルカ ウントダウン10」を最後に解散する。その後、1998年に活動 再開。デビュー40周年を迎える2020年にオリジナル・メン バー4人が再集結。2月にオリジナル・アルバムとベスト・アルバムをリリースし、3~5月にかけて全国 Zeppツアーを行う。

Edited by Toshiya Oguma
編集部おすすめ