米国でベストセラーとなった自伝小説『私は「うつ依存症」の女――プロザック・コンプレックス』の著者、エリザベス・ワーツェル氏が1月7日、ニューヨーク市の病院で亡くなった。享年52歳だった。


死因についてワーツェル氏の夫ジム・フリード氏は、脳脊髄液へのがん転移が原因の軟膜系疾患による合併症だったと述べた。ワーツェル氏は2015年に乳がんの診断を受けていた。

ワーツェル氏は26歳の時、鬱と薬物依存症に悩まされた実体験を記録した自伝小説『私は「うつ依存症」の女――プロザック・コンプレックス』で、たちまち脚光を浴びた。この本はワーツェル氏の赤裸々な文体と、痛々しい自嘲的な語り口で大絶賛された。ワーツェル氏は精神疾患への偏見の撤廃を訴えた先駆け的存在で、インターネット黎明期に現れた実体験エッセイや自伝ジャンルの火付け役として広く評価されている。

何よりも、ワーツェル氏の作品は容赦なく、あけすけで、正直なことで知られていた。「彼女はいつもこう言っていました。誠実であれば、みんなから愛されるだろう、と」 夫のジム・フリード氏はローリングストーン誌に語った。「いつだってエリザベスは本の中のエリザベスそのままでした。情熱的な人でした。正直に、ありのままの自分をさらけ出していました」

友人としてのワーツェル氏は「絶えず他人に厳しく、めちゃくちゃなことも多々あったものの、私が知る中で一番優しい人」と、長年の友人で作家のデイヴィッド・サミュエルズ氏は言う。「自己憐憫なんて欠片もなく、鋼の神経の持ち主でした」

ワーツェル氏は1967年、マンハッタンのアッパー・ウエスト・サイドで一人っ子として生まれた。
両親は共にユダヤ人で、彼女が幼い頃に離婚した。2018年Cut誌に寄稿したエッセイにもあるように、後に彼女は自分の実の父親は、1960年代に母親と関係を持っていた写真家のボブ・アデルマン氏であることを知った。アデルマン氏は2016年に他界した。

『私は「うつ依存症」の女』にも記載されている通り、ワーツェル氏は才能に恵まれた子供だったが、問題も抱えていた。11歳のとき、学校のトイレで自傷行為が見つかり、セラピーに通い始めた。ハーバード大学に入学したが、そこで鬱病と薬物中毒に悩まされ、何度も精神病院に入院した。大学は1989年に卒業した。

ロックはワーツェル氏の人生にとって大切なもののひとつで、ボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンといったミュージシャンへの熱い想いを綴っていた。最近だと、2019年にリリースされたベックの最新アルバム『Hyperspace』にハマっていた。「リジーはロックンロール作家だった。つまり、彼女は演奏されたり歌ったりするためではく、読むものとして、曲やアルバムを書いていたんだ」とサミュエルズ氏。「彼女が好きだった音楽は、彼女の文章のいたるところに出てくる。
ロックが彼女の文体を形成していたんだ。彼女はいつもロックを聴いていたからね。彼女にとって、ロックが救いの道だったんだ」

賛否両論の『私は「うつ依存症」の女』

1986年、ワーツェル氏はルー・リードについて書いた記事でローリングストーン主催大学生ジャーナリズム賞を受賞する。サミュエルズ氏曰く、本人はこの賞のお陰でジャーナリストとしての道が開けたと周りに語っていたという。フリード氏によれば、賞状は今も2人のアパートに飾ってあるそうだ。

大学時代、ワーツェル氏はダラス・モーニングニュース紙でインターンとして働いたが、剽窃の疑いで1988年に解雇された。その後はニューヨーク・マガジン誌やザ・ニューヨーカー誌にポップミュージックの論評を寄稿し、1994年に『私は「うつ依存症」の女』が出版されると、彼女は出版界の神童と大称賛され、2001年にクリスティーナ・リッチ主演で長編映画化された。

出版から数年後、『私は「うつ依存症」の女』は精神疾患や抗うつ剤の話題を一般化させたという点で評価された(「まだフルオキセチンって呼ばれてた頃からプロザックを服用していた」と、後にワーツェル氏は書いている)。だが当時、批評家の大半は本の中で赤裸々に書かれたワーツェル氏のセックスライフや自傷行為の過去、薬物乱用のことばかり取り上げた。ニューヨーク・タイムズ紙のミチコ・カクタニ氏のように、ワーツェル氏を「自分だけが可哀想だと思っている」だとか、あけすけすぎると非難する者もいた。そうした批判は彼女を生涯悩ませ続けた(ただしカクタニ氏はワーツェル氏の才能には一目置いており、彼女の「率直さ、ユーモア、そして弾けんばかりのまばゆい文章を書く能力」を絶賛している)。

2作目の『Bitch: In Praise of Difficult Women(原題)』(1999年)は、様々な事情を抱えた女性たちが歴史に与えた影響を再考察するエッセイ集で、著者本人がトップレスでカメラに中指を立てる表紙の写真が物議を醸した。
だが本の真の目的は、エイミー・フィッシャーやニコール・ブラウン・シンプソンなど、1990年代に悪女扱いされたポップアイコンを擁護するもので、その後ポップカルチャーがモニカ・ルインスキーやトーニャ・ハーディングといった女性たちの名誉回復を手助けする下地を作った。『Bitch』の後、彼女は再び薬物依存の回顧録『More, Now, Again』(2002年)を出版した。

ワーツェル氏は2004年にイエール大学ロースクールに入学する。ワーツェル氏と同時期にロースクールに通っていたジャーナリストのローナン・ファロー氏は火曜日、Twitterにこう投稿した。「彼女は親切で、寛大で、孤独に陥りそうな心の隙間を思いやりやユーモア、独特な声の調子で埋めてくれました。彼女は大勢の人々に、たくさんの贈り物をくれた。彼女がいなくて寂しいです」

止まない非難の声

司法試験に合格することはなかったものの、彼女は2008年から2012年まで、ニューヨーク市の法律事務所Boies Schiller Flexner LLPでケースマネージャー兼プロジェクトディレクターとしてフルタイムで勤務した。ワーツェル氏は物議を醸している弁護士デイヴィッド・ボイス氏をある種の恩師と見なしていて、同氏を「凄腕の弁護士であるだけでなく、最も素晴らしい人物」と呼んだ。2017年、ボイス氏は民間諜報企業を雇って依頼人のハーヴェイ・ワインスタインの被害者を監視させていたことを暴露され、評判は失墜した。

Boies Schiller Flexner LLP退職後、ワーツェル氏は再び原点に戻った。「ずっとずっと、自分は文章を書くべきだと思っていた」と、彼女は2012年に法律関係のブログAbove the Lawに語っている。激しく、内面をえぐるようなトーンは必ずしも万人に受けたわけではない。
2012年ハーパーズ・バザー誌に掲載された記事は、大勢のフェミニストブロガーの怒りを買った。「見た目のよさがフェミニズムでは重要です。リベラルな女性が不健康で不幸せに見える格好をして、その意義への誤解を招くようなことはしないでしょう」

2013年、ワーツェル氏がCut誌に寄稿した歯に衣着せぬ長編エッセイが話題になった。「人生の行きずりの恋」について書いたもので、この中で彼女は45歳まで独身を貫いたことなど、いくつかの人生の選択を悔やんだ。かなり私的で、女性らしさや老いについての物悲しい考察だったが、散漫な文体は大勢の人々から一貫性がなく、支離滅裂だと受け止められ、ネット上で酷評された。「初期の頃のワーツェル氏は自らの言葉で、抑制された恐ろしい慢性うつの存在を鮮やかに、美しく描写していた」と、フェミニストウェブサイトJezebelのトレイシー・イーガン・モリッシー氏は書いている。「残念ながら、今の彼女が心情を綴ってもただひどいだけ」

同じ年、彼女はとある朗読会で、後に夫となるジム・フリード氏と出会った。「僕はいわゆる彼女の前座でした」 付き合い始めてから数カ月後、彼女は彼に『私は「うつ依存症」の女』を1冊プレゼントした。「いかにもエリザベスらしかったですね。『これが私の本。読んでね』って」とフリード氏。「でも、僕は彼女のそういうところが好きだった。
だって彼女はそういう人だから」 2人は2015年に結婚した。

作品同様、ワーツェル氏は衝動的で、気分屋で、そして常に自分に正直だった。「彼女は何をやるにしても騒々しかった。決して静かではない」とフリード氏。「爆発、それがエリザベスだった。本人もそれを自負していました。自分がいかに度を越しているか、誇りに思っていました」

自分らしさを貫き通したワーツェル氏

ワーツェル氏は、自分が過去のトラウマの燃えカスからキャリアを築いていった事実を正直に認めていた。「私はもっと前に死んでいたかもしれないし、何もできないままだったかもしれない。でも、私は自分の感情からキャリアを築いた」と、彼女は2013年のエッセイに書いている。だが明白な才能と、精神疾患の名誉回復の先駆けだったにもかかわらず、晩年のワーツェル氏はおしなべて、Thought Catalogのようなウェブサイトで人気の告白系や実体験もののサブジャンルの代名詞になり果てていた。

数々の論評や解説記事で、ワーツェルは主に女性主体の実体験エッセイブームの元祖として、しばしば中傷的に取り上げられた。多くの人々がこのジャンルを軽薄で中身がないと一蹴した。
彼女もこの点に関して自分の立場をよく理解しており、よく冗談を言っていた。「朝食のときに他愛もなく、私が自伝小説というジャンルを発明したんだ、なんて言っていました」とフリード氏は笑いながら振り返る。だが同時に、文学界は彼女の才能を認めるどころか、真面目に取り合わなくなった。「彼女は羨望の的となり、女性やセックスやメンタルヘルスに関する人々の気持ちは全部彼女に向けらました。そのせいで彼女の書いたものはどれも素晴らしかったのに、相応しい評価をされることはありませんでした」とサミュエルズ氏も言う。

彼女の訃報を受け、大勢の作家がTwitterで彼女の作品について同様の意見を寄せた。「世間は何年もかけて、エリザベス・ワーツェルを残念な例――女性エッセイスト、自分らしさを売りにして有名になった、そして往々にして若い女性全般ーーとして扱ってきた。彼女が若くして逝ってしまった今、それがどんなにひどい仕打ちだったのか痛いほど思い知らされる」。 フェミニストの作家サディ・ドイルは、ワーツェル氏の訃報の後Twitterに投稿した。

最期の数年間、ワーツェル氏は心情を吐露し、世間を騒がせ続けた。2015年に乳がんと診断され、遺伝性乳がんを調べるBRCA検査で変異が見つかると、検査の熱心な支持者となった。晩年の作品のひとつに、ガーディアン紙に寄せた自虐的で辛辣なエッセイがある。この中で彼女は死と向き合いつつ、被害者としてレッテルを張られることに抵抗している(いかにも彼女らしく、記事にはペッサリーの中にコカインを詰めて北欧旅行した話も出てくる)。

「周りから、がんのことが気の毒だと言われるのがすごく嫌」と彼女は書いている。「本気? 私たち知り合いだったかしら? あなたに気の毒に思われる覚えはないんだけど」
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