"コービー・ブライアント”という人物について我々が深く知るよりはやく、米スポーツ史上もっとも偉大で一筋縄ではいかない選手が逝ってしまった。

ロサンゼルスのヘリコプターの音はどこか異質だ。
ここではヘリコプターのローター音が独特な不穏さで街に響き、警察やメディアの張り込み取材をたびたび連想させる。ヘリコプターの音を聞いて万事順調と思う人なんてほとんどいない。なぜならそれは、不吉さの前兆だからーー。

かすみがかった日曜の朝、霧と雲のあいだから太陽が姿を見せることがなかったあの日の朝を境に、ロサンゼルスの人々にとってヘリコプターの響きはより痛ましい意味を持つようになっただろう。パイロットを含む9名が凄惨な墜落事故によってカリフォルニア州ロサンゼルス郊外のカラバサスの丘陵地帯で命を落としたのだ。墜落したヘリコプターには、13歳のジアナ・ブライアントさんと父コービー・ブライアント——おそらくロサンゼルス・レイカーズ史上屈指の選手であり、同地でもっとも愛されたスポーツ選手——が搭乗していた。

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ロサンゼルスはすでに喪に服す準備を進めていた。というのも、殺害された同地出身のラッパー、ニプシー・ハッスルこと故エルミア・アスゲダムの追悼パフォーマンスが第62回グラミー賞授賞式の夜に予定されていたのだ。2019年3月にサウス・ロサンゼルスで銃殺されたニプシー・ハッスルは初のグラミー賞に輝き、最優秀ラップ・パフォーマンス賞と最優秀ラップ/ソング・コラボレーション賞を受賞した。故人に代わって遺族が賞を受け取る姿は、続く2020年に我々が目の当たりにする光景の予告編のようだった。41歳という若さでこの世を去ったブライアントのネイスミス・メモリアル・バスケットボール殿堂入りが事故後に濃厚となったのだ。

ニプシー・ハッスルとコービー・ブライアントには悲しい共通点がある。
どちらも早すぎる死を遂げた——それも、我々が彼らの人となりを完全に把握する前に。両者は決定的な欠点のある過去を背負いながらも、彼らなりの方法で贖罪を求めた。それに、ふたりにはまだやり残したことがある。でも、彼らにはもう会えない。両者がどんな人物になり得たかを完全に知ることは、もはや不可能になってしまった。

こうした事実は、ブライアントの人となりを知ろうとする我々にずっとつきまとうだろう。我々は、レイカーズでプレイした20年にわたって彼を偉大さへと導いた労働倫理を知っている。ブライアントのフィジカル面での強さは凄まじく、アキレス腱を断裂した状態で立ち、フリースローを2本決めたことが以前に一度あった。筆者は、根っからのブライアントファンというわけではない。学生だった頃、1996年に米ペンシルベニア州フィラデルフィアで当時高校生だったブライアントのプレイを見て、彼の傲慢さが鼻についた(2016年に米ローリングストーン誌はブライアントの引退試合後に「NBAs All-Time Asshole(NBA史上最高のひねくれ者)」と題した記事でブライアントを称えている)。だが、ブライアントがコートで魅せた信じられないほど多彩なスキルに敬意を抱かずにはいられなかった。試合に臨むブライアントの姿勢のなかでも筆者がもっとも感心したのは、彼が一切恐怖と諦めの気持ちを持っていなかったことだ。
ブライアントはマイケル・ジョーダンではなかったが、スナイパーのようにシュートを決め、ジョーダンとレイカーズの現役スター選手レブロン・ジェームズをつなぐ存在だったことはほぼ間違いない。ブライアントのディフェンスには、ムカつく弟のようなしつこさがあった。彼は頭が切れて、常に集中していて、烈火のようだった。

我々は、ブライアントの一貫性のあるプレイと、ドライでありながらも示唆に富む彼のキャッチフレーズから多くを知ることができる。だが、ブライアントは一筋縄ではいかない、繊細な人物だった。彼は複数の言語を操り、知的好奇心を持ち、オタク気質の筆者にまで優しく語りかけてくれた。いまやロサンゼルスの住人になった筆者は、ブライアントのこうした側面がレイカーズ後の人生で開花するのを目の当たりにするのが楽しみだった。

一般市民として生きることに苦戦する多くのアスリートと異なり、ブライアントの人生は順風満帆だった。もしバスケットボール殿堂入りセレモニーでスピーチをする機会があったなら、彼特有の粘り強さが2016年の引退から、自ら携わった短編アニメ『親愛なるバスケットボール』のオスカー受賞へと導いてくれたことに触れたかもしれない。ブライアントは世界レベルでバスケットボールの発展を支援し続け、さまざまな慈善活動とベンチャーキャピタル企業一社と仕事をした。だが、何よりもまずブライアントは率先して参加する父親であり、レイカーズ戦のコートサイドを娘のジアナさんと頻繁に訪れては、ジアナさんやほかの少女たちにマンバ・スポーツ・アカデミーでコーチとして指導にあたった。悪夢の日曜の朝に墜落したヘリコプターは、まさにマンバ・スポーツ・アカデミーに向かっていたのだ。


早すぎた死、コービー・ブライアントがやり残したこと

コービー・ブライアントと娘のジアナ・ブライアントさんは、1月26日のヘリコプター墜落事故で死亡した。
Photo by Allen Berezovsky/Getty Images

だが、これらはすべてブライアントがすでに取り組んでいたことしか教えてくれない。ブライアントはどんな人物になり得たのだろうか? 筆者は、彼がはるかに偉大な存在になれる可能性を持っており、そうなるだろうと確信していた。負けん気の強い競争心のおかげで、ブライアントが全世界のアスリートにとっての模範だったことはいうまでもないだろう。スター選手から百戦錬磨の長老へと成長するにつれて、ブライアントの功績はどのような進化をたどろうとしていたのか?

もっと視野を広げて考えてみよう。ブライアントは、キャリア最大の汚点ともいうべきエピソードに対して明確な贖罪を求めただろうか? 2003年、当時ブライアントが滞在していたコロラド州のホテル従業員(19歳)が信ぴょう性のある具体的な供述とともにブライアントをレイプで告発した。ブライアントは不貞を認めたものの、裁判で罪を認めることはなかった。訴訟が取り下げられたあと、ブライアントは告訴人の名が長引く訴訟のせいで辱められたのを理由に直筆の謝罪の手紙と示談によってこの件に終止符を打った。ブライアントが亡くなった日曜から彼への賛辞が湧き出でるなか、性暴力生存者の多くが複雑な気持ちを抱いた理由はそこにある(故人を偲んで偉大さを認めるだけでなく、同時に他者の痛みにも理解を示すことも可能だ)。

甘い考えだと思われるかもしれないが、反対意見が出たとき——とりわけトレイボン・マーティン君射殺事件に対する当初の冷淡な態度を改めたときのように——ブライアントが社会問題に対する考えを改める寛大さを見せて発言さえしていれば、違っていたかもしれない。2011年にブライアントは審判に同性愛差別の暴言を吐いたことを「クールじゃないし、俺が無知だった」と認め、同時にファンにも大人な対応を見せるよう呼びかけた。近年においては、トランプ大統領との政治をめぐる意見の食い違いも公にしていた。
周囲からのプレッシャーによって性暴力防止のためによりダイレクトなアクションを取る、あるいはこうしたアクションを自ら進んで実行した可能性はあったのだろうか? 答えがイエスだとしたら、そのアクションはどのようなもので、人々はどのような印象を持っただろう?

こうした疑問に対する答えは決して得られないし、ブライアントの生涯も未完に終わるだろう。多くの人は、ブライアントが今後どのような人物になるかを自分の目で見たいと心から望んでいた。今後、ブライアントの死は主として妻と娘たちから奪われた夫と父の悲劇であり続ける。我々にいたっては、史上最高の選手のひとりであるブライアントがスター選手へと成長したのと同じ力をコートの外で発揮するのを目撃する機会を失った。

ある意味、ブライアントの未完の生涯はジアナさんとともに永遠に続くはずだった。だが、ブライアントの第二の人生では、父親が生涯をかけたバスケットボールを深く愛した幼い娘の死という残酷な仕打ちが待ち受けていた。伝えるところによると、ジアナさんはバスケットボールの名門Uconnことコネチカット大学でプレイし、やがては女子プロバスケットボールリーグ(WNBA)の選手になることを切望していたという(ブライアントがダイアナ・トーラジやエレーナ・デレ・ダンなどのWNBA選手は男子リーグでも通用すると発言し、女子リーグを支持するようになった背景には、娘の成長があったのだろう)。

先日、ブライアントは仲間であるNBAの元選手でいまはポッドキャスターとして活躍しているマット・バーンズとスティーブン・ジャクソンに毎晩ジアナさんがテレビでバスケットボールの試合を観戦し、永久欠番セレモニー後もステイプルズ・センターに復帰してプレイするよう説得していた、と語った。ブライアントは、ジアナさんの目線に立ち、違う見方でゲームを見守っていたようだ。

2018年にブライアントは司会者&コメディアンのジミー・キンメルにブライアント家の名を背負い続けるジアナさんの決意について語っていた。「家族で外出するとき、隣にジアナがいて、ファンが俺に『なあ、男の子を産まないとダメだ! (妻のヴァネッサさん)に男の子を産んでもらえよ! あんたのレガシーと伝統を継がせるために』みたいなことを言われるたびにジアナが『私が引き継ぐから男の子なんかいらないわ! 私がやるのよ!』と答えるときが本当に最高なんだ」

すべては失われてしまったーーーー。

いま、そしてこれから先はバスケットボール界におけるブライアントの偉大さをタイムカプセルに保存するようにさまざまな言葉や想いがあふれてくるはずだ。
5度のNBA制覇というタイトル、永久欠番の”8”と”24”、1試合81得点という記録、2つのオリンピック金メダル、MPVを獲得した2008年シーズンといった功績も称えられるだろう。コートでの偉大さを証明するブライアントの功績とキャリアは、人がスポーツを愛する限り伝説であり続ける。

ブライアントのようなスターは、唯一無二のモチベーションと知性を備えていた。ブライアントとジアナさんの早すぎる死が我々に与える残酷すぎる打撃のせいで、無残にも未完に終わったものばかりに目がいってしまう。知っての通り、彼らはプロとして功績を残したが、その人となりについてはまだまだ知るべきところがあった。

我々は、犠牲者9名がどのような人物だったかを知る機会を失ってしまった。そのなかでもっとも有名だったのがブライアントで、おそらくもっともポテンシャルがあったのはジアナさん。わかっているのはそれだけだ。

太陽が昇らないロサンゼルスの日曜、彼らがやり残したことに思いを馳せてもいいのではないだろうか。
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