革命的なヘヴィメタル・アルバム『Black Sabbath』の50周年を祝って、ローリングストーン誌はバンドメンバー、コラボレーター、ミュージシャン仲間と独占インタビューを行い、この作品が生まれた背景に迫った。
50年前の今週、ブラック・サバスはセルフタイトルのデビュー・アルバム『Black Sabbath』(邦題は『黒い安息日』)で音楽の世界を一変させ、一つのジャンルを生み出した。
そこで、このアルバム制作に携わった12人に話を聞いたのだが、その中にはブラック・サバスのギタリストであるトニー・アイオミ、ベーシストのギーザー・バトラー、ドラマーのビル・ワードが含まれ、彼ら以外の数多くのコラボレーターとミュージシャン仲間もさまざまな思い出を語ってくれた。ジューダス・プリーストのロブ・ハルフォードはまだ「アース」と名乗っていた頃の彼らを見た思い出を語り、テン・イヤーズ・アフターのレオ・ライオンズは彼らが自分たちの前座を務めたことを思い出し、ステータス・クォーのフランシス・ロッシは当時のすべてのバンドが「ヘヴィさ」を渇望していた事実を教えてくれた。また、アルバムのジャケットをデザインしたキース・マクミランと、木立に佇むミステリアスな女性ルイーザ・リヴィングストンを見つけ出し、アルバム・アートについて初めて語ってもらった。
この記事の執筆中に、半世紀前の出来事とは言え、彼らは公表されていない逸話や、実際によりも簡単に報道された情報の裏側などをいくつも話してくれた。その中の5つの事実を紹介しよう。
1. ジューダス・プリーストのロブ・ハルフォードは、彼らがバンド名を「アース」から「ブラック・サバス」に変えたときの大きな変化に気づいた
ブラック・サバスのメンバー4人が初めて一緒にプレイしたのは「ポルカ・タルク・ブルース・バンド」という6人編成のグループだった。その後、メンバー2人(スライド・ギターとサックス)をクビにし、バンド名を「アース」に変えた。ジューダス・プリーストに加入する遥か前のロブ・ハルフォードが彼らのライブを見たのがこの頃だった。
「バーミンガムのクラブかどこかでアースを見た記憶が薄っすらとある。彼らはヘヴィなブルースとジャジーなプログレという感じの音楽をやっていた」と言ってハルフォードは続けた。「視覚的な部分で覚えていることはほとんどないし、カバー曲の『魔女よ、誘惑するなかれ』のようなサバスの初期の曲をやったのを思い出すくらいだ。
2. デビューアルバム『黒い安息日』の収録曲は日中に作られたものがほとんどだった
短期間ジェスロ・タルに在籍したのち、トニー・アイオミはアースに戻り、バンドメンバーに「もっと真剣にやらなきゃダメだ」と発破をかけた。イアン・アンダーソンが日中のリハーサルを徹底しながら、鉄笛でプログレ・ブルース・バンドを率いている姿を間近で見たアイオミは、アースでも同じことをしようと提案した。彼らは午前9時からリハーサルを開始することが多かったが、アイオミは「ギーザーをその時間に起こすことが一番の苦労だったが、とにかく彼を起こして、みんなでリハーサルを行なった。そうやって必死に練習したんだ。俺たちにはやらなきゃいけないことがあると信じてね」と説明した。さらに「その頃、俺は有名バンドを辞めて元のバンドに戻ったわけだから、『やべー、奴が戻ってきちまった。気を引き締めた方がいいな』とメンバー全員が感じていたと思うよ。俺も含めてな」と続けた。
3. ギーザー・バトラーは「眠りのとばりの後に」の歌詞を、文字通り眠りのとばりの後ろで書いた
このサイケデリック風の曲にはハワード・フィリップス・ラヴクラフトの短編「Beyond the Wall of Sleep(原題)」がこだましているが、バトラーはこの曲はほぼすべてが自分の潜在意識下で生まれたものだと言う。「俺は『Beyond the Wall of Sleep』を読んでいるうちに寝落ちしてしまった。そしたら全部の歌詞とメインのリフが夢の中に現れた。目が覚めたとき、歌詞を全部メモって、リフをベースで弾いて忘れないようにしたんだ。当時は手軽な録音機器がなかったから、何でもかんでも記憶するしかなかったのさ。そうやって忘れないようにして、リハーサルでメンバーに弾いてみせたんだよ」と、バトラーが説明した。
4. アルバム・カバーのデザイナー「キーフ」は、もともとセクシーなジャケットを作ろうとしたが、それでは上手く行かないと気づいた
ヴァーティゴのお抱えアルバムアート・デザイナー「キーフ」ことキース・マクミランが初めて『黒い安息日』を聞いたとき、そのダークさに衝撃を受け、このジャケットの写真をどこで撮影したいのかがはっきりとわかった。それはイギリスの田舎にある15世紀の水車小屋。過去50年間、マクミランはほとんどインタビューを受けておらず、ローリングストーン誌の前に2度受けただけだった。それも断れない得ない状況で受けたものだと言う。自発的に取材を受けるのは今回が初めてて、ブラック・サバスが大好きだから話すことにしたと、彼が言った。
マクミランは、最初は彼専属のモデルのルイーザ・リヴィングストンをヌードにしていくつかの場面を試してみたが、もっと良いアイデアを思いついたと言う。
リヴィングストンも、今回のローリングストーン誌のインタビュー以前にこのアルバム・ジャケットについて一度も語ったことがない。彼女はこの写真の撮影時の凍える寒さを今でも鮮明に覚えていると述べた。「この日は朝4時の起床だった。現場ではキースがドライアイスを水に放り込みながら忙しく動き回っていたわ。でも、あまり上手く行っていないようで、最後にはスモークマシンを使ったの。撮影は『そこに立って、こうして』という感じで進んだわ」とリヴィングストンが教えてくれた。
5. このアルバムのレコーディング・セッションは、同じスタジオの上の階で撮影していたアニメーションを台無しにするところだった
ロンドンのリージェント・サウンド・スタジオは、テレビのCM制作で使われていた一流スタジオの階下にあったと、音響エンジニアのトム・アロムが言って、説明してくれた。「この一流スタジオではアニメーションが頻繁に撮られていたから、スタッフが撮影する対象物を動かす間、カメラのドリー(台車)はピクリとも動いてはいけなかった。それが当時のアニメーションの作り方だったから。
50年前の今週、ブラック・サバスはセルフタイトルのデビュー・アルバム『Black Sabbath』(邦題は『黒い安息日』)で音楽の世界を一変させ、一つのジャンルを生み出した。
50周年を記念して、ローリングストーン誌はこの作品が生まれた背景を紐解きたいと考えた。
そこで、このアルバム制作に携わった12人に話を聞いたのだが、その中にはブラック・サバスのギタリストであるトニー・アイオミ、ベーシストのギーザー・バトラー、ドラマーのビル・ワードが含まれ、彼ら以外の数多くのコラボレーターとミュージシャン仲間もさまざまな思い出を語ってくれた。ジューダス・プリーストのロブ・ハルフォードはまだ「アース」と名乗っていた頃の彼らを見た思い出を語り、テン・イヤーズ・アフターのレオ・ライオンズは彼らが自分たちの前座を務めたことを思い出し、ステータス・クォーのフランシス・ロッシは当時のすべてのバンドが「ヘヴィさ」を渇望していた事実を教えてくれた。また、アルバムのジャケットをデザインしたキース・マクミランと、木立に佇むミステリアスな女性ルイーザ・リヴィングストンを見つけ出し、アルバム・アートについて初めて語ってもらった。
この記事の執筆中に、半世紀前の出来事とは言え、彼らは公表されていない逸話や、実際によりも簡単に報道された情報の裏側などをいくつも話してくれた。その中の5つの事実を紹介しよう。
1. ジューダス・プリーストのロブ・ハルフォードは、彼らがバンド名を「アース」から「ブラック・サバス」に変えたときの大きな変化に気づいた
ブラック・サバスのメンバー4人が初めて一緒にプレイしたのは「ポルカ・タルク・ブルース・バンド」という6人編成のグループだった。その後、メンバー2人(スライド・ギターとサックス)をクビにし、バンド名を「アース」に変えた。ジューダス・プリーストに加入する遥か前のロブ・ハルフォードが彼らのライブを見たのがこの頃だった。
「バーミンガムのクラブかどこかでアースを見た記憶が薄っすらとある。彼らはヘヴィなブルースとジャジーなプログレという感じの音楽をやっていた」と言ってハルフォードは続けた。「視覚的な部分で覚えていることはほとんどないし、カバー曲の『魔女よ、誘惑するなかれ』のようなサバスの初期の曲をやったのを思い出すくらいだ。
ただ、ライブで演奏する彼らは相変わらずフリーフォームの適当なプレイをやっていたが、何よりもヘヴィさが突出していた。そしてブラック・サバスへ変身したときの彼らは、自分たちの個性をきっちり磨き上げていたんだ。トミーのリフが強力にバンドを引っ張っていて、地元バンドや周辺のバンドとは一線を画す強烈なバンド・キャラクターも作り上げていた。オジーは見た目も声も特別だったし、ギーザーとビルのダイナミクスが他の誰にも真似できないサウンドを生み出していた」と。
2. デビューアルバム『黒い安息日』の収録曲は日中に作られたものがほとんどだった
短期間ジェスロ・タルに在籍したのち、トニー・アイオミはアースに戻り、バンドメンバーに「もっと真剣にやらなきゃダメだ」と発破をかけた。イアン・アンダーソンが日中のリハーサルを徹底しながら、鉄笛でプログレ・ブルース・バンドを率いている姿を間近で見たアイオミは、アースでも同じことをしようと提案した。彼らは午前9時からリハーサルを開始することが多かったが、アイオミは「ギーザーをその時間に起こすことが一番の苦労だったが、とにかく彼を起こして、みんなでリハーサルを行なった。そうやって必死に練習したんだ。俺たちにはやらなきゃいけないことがあると信じてね」と説明した。さらに「その頃、俺は有名バンドを辞めて元のバンドに戻ったわけだから、『やべー、奴が戻ってきちまった。気を引き締めた方がいいな』とメンバー全員が感じていたと思うよ。俺も含めてな」と続けた。

3. ギーザー・バトラーは「眠りのとばりの後に」の歌詞を、文字通り眠りのとばりの後ろで書いた
このサイケデリック風の曲にはハワード・フィリップス・ラヴクラフトの短編「Beyond the Wall of Sleep(原題)」がこだましているが、バトラーはこの曲はほぼすべてが自分の潜在意識下で生まれたものだと言う。「俺は『Beyond the Wall of Sleep』を読んでいるうちに寝落ちしてしまった。そしたら全部の歌詞とメインのリフが夢の中に現れた。目が覚めたとき、歌詞を全部メモって、リフをベースで弾いて忘れないようにしたんだ。当時は手軽な録音機器がなかったから、何でもかんでも記憶するしかなかったのさ。そうやって忘れないようにして、リハーサルでメンバーに弾いてみせたんだよ」と、バトラーが説明した。
4. アルバム・カバーのデザイナー「キーフ」は、もともとセクシーなジャケットを作ろうとしたが、それでは上手く行かないと気づいた
ヴァーティゴのお抱えアルバムアート・デザイナー「キーフ」ことキース・マクミランが初めて『黒い安息日』を聞いたとき、そのダークさに衝撃を受け、このジャケットの写真をどこで撮影したいのかがはっきりとわかった。それはイギリスの田舎にある15世紀の水車小屋。過去50年間、マクミランはほとんどインタビューを受けておらず、ローリングストーン誌の前に2度受けただけだった。それも断れない得ない状況で受けたものだと言う。自発的に取材を受けるのは今回が初めてて、ブラック・サバスが大好きだから話すことにしたと、彼が言った。
マクミランは、最初は彼専属のモデルのルイーザ・リヴィングストンをヌードにしていくつかの場面を試してみたが、もっと良いアイデアを思いついたと言う。
「実は彼女はあのマントの下は全裸だった。それというのも、その前にもっと際どいアイデアを試していたからで、それがイマイチ上手く行かないと思ったんだ。そこで生まれたのが、セクシーな要素をすべて削ぎ落とした不吉な前兆というイメージだった」と。
リヴィングストンも、今回のローリングストーン誌のインタビュー以前にこのアルバム・ジャケットについて一度も語ったことがない。彼女はこの写真の撮影時の凍える寒さを今でも鮮明に覚えていると述べた。「この日は朝4時の起床だった。現場ではキースがドライアイスを水に放り込みながら忙しく動き回っていたわ。でも、あまり上手く行っていないようで、最後にはスモークマシンを使ったの。撮影は『そこに立って、こうして』という感じで進んだわ」とリヴィングストンが教えてくれた。
5. このアルバムのレコーディング・セッションは、同じスタジオの上の階で撮影していたアニメーションを台無しにするところだった
ロンドンのリージェント・サウンド・スタジオは、テレビのCM制作で使われていた一流スタジオの階下にあったと、音響エンジニアのトム・アロムが言って、説明してくれた。「この一流スタジオではアニメーションが頻繁に撮られていたから、スタッフが撮影する対象物を動かす間、カメラのドリー(台車)はピクリとも動いてはいけなかった。それが当時のアニメーションの作り方だったから。
でも、あるとき僕に電話がかかってきて、相手が『トム、下では何をやっているんだ?』と聞いてきた。ちょうどギーザー・バトラーのベースをレコーディングしていて、その振動が上の階に置いてあった重いドリーを動かしていた。床の上でドリーがワルツを踊っていたらしい。だから、僕はギーザーに『ごめんな、こっちのスタジオの使用料は1時間10ポンドだけど、上の階は100ポンドでさ。今、上の連中が困っているんだよ』と説明せざるを得なかった。そして、彼のベースをボードに直接つなげて録音することを了承してもらわないといけなかったんだ。それまではアンプをの音を拾って録音していたから、実際に試してその音を確認するまで彼は違うやり方を嫌がったよ。でもその音を聞いた彼は「録音した自分のベースを初めて聞いたよ」と言った。アンプから出てくる音は、こもった大きな振動にしか聞こえないからね」と。
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