現地時間4月30日、フェラ・クティとともにアフロビート黎明期を支えた名ドラマー、トニー・アレンが79歳で亡くなった。通信社サハラ・リポーターズによると、仏パリで死亡したとのこと。
「正確な死因はわかっていません。直前まで彼は元気で、本当に突然のことでした。午後1時に彼と話したのですが、その2時間後に体調が悪くなり、ポンピドー病院に搬送され、そこで亡くなりました」と、アレンのマネージャー、エリック・トロセがフランスの国際ニュース専門チャンネルFrance 24に語った。
クティのバンド、アフリカ70のメンバーとしてアレンはドラミング革命を起こし、1973年の『Gentleman(原題)』、1975年の『Expensive Shit(原題)』、1976年の『Zombie(原題)』などの音楽的な屋台骨を支えながらクティの音楽を飛躍させた。特に1976年の『Zombie』は伝説のアフロビート・ドラマーとなったアレンの代表作として今でも評価の高い作品だが、どの作品もアレンの獰猛なのに指の間からスルリと逃げるようなポリリズム・グルーヴなくして成り立たない。「トニー・アレンなくしてアフロビートなし」とクティに言わしめたほどだ。デーモン・アルバーンとブライアン・イーノがアレンのプレイにべた惚れなことはつとに有名で、イーノに至ってはアレンを「20世紀で最も偉大なミュージシャンの一人で、21世紀でもそうだ」とまで言っている。
「アフリカ70のようなバンドは他にいなかった」と、フェラの息子フェミ・クティが2017年にローリングストーン誌に語っている。「もちろんトニー・アレンのようなドラマーは他にいない」とも。
アレンが生まれたのはナイジェリアのラゴス。彼がスティックを手にしたのは10代も終わりの頃だった。
・トニー・アレン本人が教えるアフロビートの叩き方(動画)
さらにアレンは、ナイジェリアのクラブ・サーキットで実地体験しながら幅広い音楽教育を受けている。「ラテン・アメリカン、アフリカン・ホーン、ジャズ、ハイライフ……なんでもプレイできないとダメなんだ。クラブではありとあらゆるものがリクエストされるからね」とアレン。
フェラ・クティとの運命的な出会い
クティがアレンと初めて会ったのは1964年だった。「開口一番、彼が言ったのが『この国で一番のドラマーだって自分で言ったのは君か?』だった。笑って『そんなことは一度も言ったことがない』と答えた。するとジャズは弾けるかと聞くからイエスと答えた。
その後、アレンはクティのバンド、クーラ・ロビトスのドラマーになる。当初リスナーはこのグループの音楽スタイルをはかりかねていた。アレンが「あの国では初めて聴く革命的な音楽スタイルだったのさ。ハイライフに慣れ親しんでいた彼らにしてみれば奇妙な音楽だったんだよ」と説明した。
1969年にアメリカを訪れたのち、アレンとクティはアフロビートのサウンドをコピーして無限につなげる作業を始めた。これはフルバンドのダンス・ミュージックで、複雑で焼けつくように熱いホーン・パート、荒々しく容赦ないギター・サウンド、忙しく動き回る活発すぎるベース・ラインが興奮の度合いを上げた。アメリカのファンク同様、すべての楽器がパーカッシブなエンジンとして機能し、楽曲に躍動感を与えていたのだが、アフロビートはファンクよりもソロやメロディを逸脱した独創的なプレイを入れ込む余裕があり、そんなソロや即興フレーズが時には10分、12分、17分と続くこともあった。
アレンは音楽の中で突風を巻き起こすバンドの中心的な存在だった。聴く者を即座に絡め取るリズムの網を張り巡らしながら、曲を圧倒することなしに生気を与えた。あらゆる世代のミュージシャンを魅了したのがこれだ。2017年にミシェル・ンデゲオチェロは「ドラムの躍動感というのはハードで硬いものだと思っていたの。
イーノが70年代初頭に、ロンドンのレコードショップでクティのアルバムを買ったのは、ほんの思いつきだった。「たぶんアルバムのジャケットが気に入ったんだと思う。それにバンドメンバーの多さも良かったんじゃないかな」と2014年にThe Vinyl Factoryに述べている。「その思いつきが、音楽の可能性に対する考え方をガラリと変えた。初めてトーキング・ヘッズに会ったとき、一緒に音楽を作ろうってことになったんだけど、そのとき彼らに聴かせようと(クティの1973年のアルバム『Afrodisiac(原題)』を)かけたんだ。『これが未来の音楽だ』と言ってね」と。
そして、イーノは「プレイヤー同士の絡みつきの濃厚さが大好きだね。その中に混在する規律と自由の関係性が大好きなんだ。何でも好きなことをやっちまえ的なジャムじゃない。かと言って、オーケストラみたいに強制的にこれを彈かなきゃ的な不自然さもないんだ」と述べている。
「地球で最も偉大なドラマーが逝ってしまった」
アレンとクティは疲れ知らずの多作チームとして10年以上活動した。
クティは、政府の組織崩壊や愚劣さを分かりやすい言葉を使って辛辣に非難するようになり、これで一気に知名度が上がった。2016年にアレンは「あの挑戦をした彼は正しかった。でも、彼の言い方はあまりにもダイレクトで、そのせいで様々な責め苦を受けたわけだ。何度も逮捕されたし、何度も攻撃された。ミュージシャンだろ? なんでいつも攻撃されるままにしているんだ?って思ったよ」と説明した。クティに対する政府の報復は日増しに過激になり、アレンは1978年にバンドを離れることにした。
クティとのバンド活動の他には、アルバーンとのコラボレーションも話題になった。アレンはアルバーンと共にThe Good, The Bad and the Queenを結成した。これにはクラッシュのポール・シムノン、ヴァーヴのサイモン・トングも参加しており、2007年にセルフタイトルのアルバム、2018年に『Merrie Land(原題)』をリリースしている。
フリーは「地球で最も偉大なドラマーが逝ってしまった。優しさと自由に溢れた巨大なハートと、唯一無二の深いグルーヴを持った驚異的にワイルドな男だった。アフロビートを発明したのはフェラ・クティじゃない。あれはフェラとトニーが一緒になって生み出したものだ。トニー・アレンなくしてアフロビートなしだ」とInstagramに投稿した。
近年のアレンは再びルーツのジャズに立ち返り、自分のヒーローであるアート・ブレイキーに捧げたEPをレコーディングし、2018年にはジェフ・ミルズとタッグを組んで『Tomorrow Comes the Harvest(原題)』をリリースした。今年初旬には南アフリカのトランペット奏者である故ヒュー・マセケラとのコラボレーション『Rejoice(原題)』もリリースされた。
「今日、私たちは音楽史上最も偉大なドラマーを失った。リズムもパターンも非常に複雑で、高尚なコミュニケーション力を求められる彼の創造物を適切に言い表す言葉はまだ生まれていない。彼は異世界の人だった! 音楽の匠であり、思想の達人だった」と、ミルズはコメントで述べている。
世間にはドラミングとリズムを刻むことを同じと考える人が多いが、アレンは一度もそんなふうに思ったことはなかった。
死因は不明。
「正確な死因はわかっていません。直前まで彼は元気で、本当に突然のことでした。午後1時に彼と話したのですが、その2時間後に体調が悪くなり、ポンピドー病院に搬送され、そこで亡くなりました」と、アレンのマネージャー、エリック・トロセがフランスの国際ニュース専門チャンネルFrance 24に語った。
クティのバンド、アフリカ70のメンバーとしてアレンはドラミング革命を起こし、1973年の『Gentleman(原題)』、1975年の『Expensive Shit(原題)』、1976年の『Zombie(原題)』などの音楽的な屋台骨を支えながらクティの音楽を飛躍させた。特に1976年の『Zombie』は伝説のアフロビート・ドラマーとなったアレンの代表作として今でも評価の高い作品だが、どの作品もアレンの獰猛なのに指の間からスルリと逃げるようなポリリズム・グルーヴなくして成り立たない。「トニー・アレンなくしてアフロビートなし」とクティに言わしめたほどだ。デーモン・アルバーンとブライアン・イーノがアレンのプレイにべた惚れなことはつとに有名で、イーノに至ってはアレンを「20世紀で最も偉大なミュージシャンの一人で、21世紀でもそうだ」とまで言っている。
「アフリカ70のようなバンドは他にいなかった」と、フェラの息子フェミ・クティが2017年にローリングストーン誌に語っている。「もちろんトニー・アレンのようなドラマーは他にいない」とも。
アレンが生まれたのはナイジェリアのラゴス。彼がスティックを手にしたのは10代も終わりの頃だった。
そしてアート・ブレーキーからエルヴィン・ジョーンズ、フィリー・ジョー・ジョーンズ、ジーン・クルーパまで、さまざまなジャズ・ドラマーの作品からドラミングを学んだ。Wire誌とのインタビューで、ハイハットの可能性に気づいたのはマックス・ローチのおかげだと語っている。彼は同世代のドラマーの多くがハイハットを軽視していると考えていた。のちにアレンはドラマーのフランク・バトラーと出会い、枕を使ったドラム練習法を知る。彼は「これが柔軟性を高める」とガーディアン紙に言っていた。
・トニー・アレン本人が教えるアフロビートの叩き方(動画)
さらにアレンは、ナイジェリアのクラブ・サーキットで実地体験しながら幅広い音楽教育を受けている。「ラテン・アメリカン、アフリカン・ホーン、ジャズ、ハイライフ……なんでもプレイできないとダメなんだ。クラブではありとあらゆるものがリクエストされるからね」とアレン。
フェラ・クティとの運命的な出会い
クティがアレンと初めて会ったのは1964年だった。「開口一番、彼が言ったのが『この国で一番のドラマーだって自分で言ったのは君か?』だった。笑って『そんなことは一度も言ったことがない』と答えた。するとジャズは弾けるかと聞くからイエスと答えた。
そしたら、ソロは叩けるかと言うから、再びイエスって答えたよ」と、アレンが当時を思い出して語ったことがあった。
その後、アレンはクティのバンド、クーラ・ロビトスのドラマーになる。当初リスナーはこのグループの音楽スタイルをはかりかねていた。アレンが「あの国では初めて聴く革命的な音楽スタイルだったのさ。ハイライフに慣れ親しんでいた彼らにしてみれば奇妙な音楽だったんだよ」と説明した。
1969年にアメリカを訪れたのち、アレンとクティはアフロビートのサウンドをコピーして無限につなげる作業を始めた。これはフルバンドのダンス・ミュージックで、複雑で焼けつくように熱いホーン・パート、荒々しく容赦ないギター・サウンド、忙しく動き回る活発すぎるベース・ラインが興奮の度合いを上げた。アメリカのファンク同様、すべての楽器がパーカッシブなエンジンとして機能し、楽曲に躍動感を与えていたのだが、アフロビートはファンクよりもソロやメロディを逸脱した独創的なプレイを入れ込む余裕があり、そんなソロや即興フレーズが時には10分、12分、17分と続くこともあった。
アレンは音楽の中で突風を巻き起こすバンドの中心的な存在だった。聴く者を即座に絡め取るリズムの網を張り巡らしながら、曲を圧倒することなしに生気を与えた。あらゆる世代のミュージシャンを魅了したのがこれだ。2017年にミシェル・ンデゲオチェロは「ドラムの躍動感というのはハードで硬いものだと思っていたの。
でもトニー・アレンを聞いてその流動性に気づいたし、パルスの中にある敏捷性を理解したわ」と語っている。
イーノが70年代初頭に、ロンドンのレコードショップでクティのアルバムを買ったのは、ほんの思いつきだった。「たぶんアルバムのジャケットが気に入ったんだと思う。それにバンドメンバーの多さも良かったんじゃないかな」と2014年にThe Vinyl Factoryに述べている。「その思いつきが、音楽の可能性に対する考え方をガラリと変えた。初めてトーキング・ヘッズに会ったとき、一緒に音楽を作ろうってことになったんだけど、そのとき彼らに聴かせようと(クティの1973年のアルバム『Afrodisiac(原題)』を)かけたんだ。『これが未来の音楽だ』と言ってね」と。
そして、イーノは「プレイヤー同士の絡みつきの濃厚さが大好きだね。その中に混在する規律と自由の関係性が大好きなんだ。何でも好きなことをやっちまえ的なジャムじゃない。かと言って、オーケストラみたいに強制的にこれを彈かなきゃ的な不自然さもないんだ」と述べている。
「地球で最も偉大なドラマーが逝ってしまった」
アレンとクティは疲れ知らずの多作チームとして10年以上活動した。
その間、クティは1年間に複数枚のアルバムを難なくリリースできた。アレンはClash誌に「フェラと一緒に毎回6時間のライブを週4日やっていた。それが観客の求めるものだったからね」と語ったほど、彼自身も疲れ知らずのパフォーマーだった。
クティは、政府の組織崩壊や愚劣さを分かりやすい言葉を使って辛辣に非難するようになり、これで一気に知名度が上がった。2016年にアレンは「あの挑戦をした彼は正しかった。でも、彼の言い方はあまりにもダイレクトで、そのせいで様々な責め苦を受けたわけだ。何度も逮捕されたし、何度も攻撃された。ミュージシャンだろ? なんでいつも攻撃されるままにしているんだ?って思ったよ」と説明した。クティに対する政府の報復は日増しに過激になり、アレンは1978年にバンドを離れることにした。
クティとのバンド活動の他には、アルバーンとのコラボレーションも話題になった。アレンはアルバーンと共にThe Good, The Bad and the Queenを結成した。これにはクラッシュのポール・シムノン、ヴァーヴのサイモン・トングも参加しており、2007年にセルフタイトルのアルバム、2018年に『Merrie Land(原題)』をリリースしている。
さらにアレン、アルバーン、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのベーシスト、フリーがRocket Juice & The Moonというグループを組み、2012年にコラボレーション・アルバムもリリースした。
フリーは「地球で最も偉大なドラマーが逝ってしまった。優しさと自由に溢れた巨大なハートと、唯一無二の深いグルーヴを持った驚異的にワイルドな男だった。アフロビートを発明したのはフェラ・クティじゃない。あれはフェラとトニーが一緒になって生み出したものだ。トニー・アレンなくしてアフロビートなしだ」とInstagramに投稿した。
近年のアレンは再びルーツのジャズに立ち返り、自分のヒーローであるアート・ブレイキーに捧げたEPをレコーディングし、2018年にはジェフ・ミルズとタッグを組んで『Tomorrow Comes the Harvest(原題)』をリリースした。今年初旬には南アフリカのトランペット奏者である故ヒュー・マセケラとのコラボレーション『Rejoice(原題)』もリリースされた。
「今日、私たちは音楽史上最も偉大なドラマーを失った。リズムもパターンも非常に複雑で、高尚なコミュニケーション力を求められる彼の創造物を適切に言い表す言葉はまだ生まれていない。彼は異世界の人だった! 音楽の匠であり、思想の達人だった」と、ミルズはコメントで述べている。
世間にはドラミングとリズムを刻むことを同じと考える人が多いが、アレンは一度もそんなふうに思ったことはなかった。
2016年のインタビューで彼はこう言っている。「ドラマーによってはソフトにプレイすることの本当の意味を知らないようだね。彼らの教科書には書いていないから。私は必要とあらば、ドラムだけで満場の大喝采を得ることができる。でも、繊細なプレイだってできるよ。川の流れのような静けさでね」と。
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