ファンクやソウルのリズムを取り入れたビートに、等身大で耳に引っかかる歌詞を載せて歌う4人組ロックバンド、トリプルファイヤーの音楽ブレインであるギタリスト・鳥居真道による連載「モヤモヤリズム考 − パンツの中の蟻を探して」。前回のチャーリー・ワッツとヤキのドラミングの比較の考察に続き、第15回は音楽の核心となりうるブロウ・ユア・マインド感覚について考察する。
コロナにより音楽関連の仕事が激減してしまいました。「モヤモヤリズム考」と題して一年以上連載を続けているわけですが、そのネタのストックは音源制作やライブに向けた練習といった実践の中で起こるつまずきや違和感から着想を得たものから成ります。つまり、人と共同作業する中から生まれてくる場合が多い。
家でひとり、寂しく作業していてもひらめきは訪れません。例えば、楽器の練習に取り組む場合、その方針は気合で頑張るといったものになります。頭であれこれ考えたりしません。もちろん「カッティングするときはピックを浅く当てたほうが倍音がリッチかも!」程度のことは考えます。考えますが、一度頭で意識したことは意識せずともできるようになるまで反復し、癖にしてしまうというプロセスを採ります。やはり大事なのは言葉で考えることよりも気合です。
これがバンドの練習となれば話は変わります。仕上がりがなんだか今ひとつというときに、「おうおう、気合が足んねぇよ?」と喚き散らしたところで事態は良くなりません。もちろん気合でなんとかなる局面もありますが。
つまり、コロナの弊害はこういうところにも現れているということです。結論としては、「おいコロナ! まじふざけんな」ということになりますが、言い訳がましいことを言っていても仕方がありません。お前さんのアンテナの感度が低いのがいけないのだと言われればそれまでです。そんなわけで、今回は「なぜモヤモヤリズム考」ということを考えていこうと思います。
ところで、昨年10月にジェームス・ブラウン(JB)のライブ盤がリリースされていたことを知っていましたか? わたしは今年の3月に入ってから知りました。まさにもぐり。『Live At Home With His Bad Self』というタイトルのこのライブ盤は、1969年にJBの故郷、ジョージア州オーガスタで行われたライブを録音したものです。音源自体は1970年リリースのライブ盤『Sex Machine』の2枚目と同じものが使われています。このアルバムの1枚目が擬似ライブであることはよく知られていることです。元々、単独のライブ盤でリリースされる予定だったものを、シングル『Get Up (I Feel Like Being a) Sex Machine』の成功を受けて急遽、新録に歓声をかぶせた疑似ライブ盤を拵え、それらを併せて1組のライブアルバムとして発売したという経緯があったそうです。
1970年はJB史において重要な年でした。その年の3月、鉄壁のバンドメンバーたちが給料未払い、過労などの待遇の悪さを即刻改善しなければやめてやるとJBに最後通牒を突きつけました。JBはこれを退け、オハイオ州シンシナティからペイスセッターズというバンドを呼び寄せます。そのメンバーだったのがブーツィー・コリンズとキャットフィッシュ・コリンズの兄弟です。この新体制によって「Sex Machine」や「Super Bad」、「Get Up, Get Into It And Get Involved」、「Soul Power」といった70年代初頭のJBの代表曲が生みれることになります。そういう意味で、『Sex Machine』には鉄壁の旧体制による研ぎ澄まされた演奏と、フレッシュな新体制による熱い演奏が対になったアルバムです。
正直に打ち明けると『Sex Machine』はそこまでの愛聴盤ではありません。先にコリンズ兄弟が参加したライブ盤『Love, Power, Peace: Live at the Olympia, Paris, 1971』を聴いており、こちらの熱の入った演奏に比べると『Sex Machine』は全体的にもっさりという印象を受けていたからです。
『Live At Home With His Bad Self』と『Sex Machine』は同じ音源ではあるものの、前者は2019年のミックスということでとてもフレッシュに聴こえます。改めて『Sex Machine』を聴くとテンポが遅いではないですか。ピッチも半音近く低い。テープスピードを落としているのだと思われますが、なぜ落としたのか?
『Live At Home With His Bad Self』の中でも白眉はなんと言ってもラストを飾る「Mother Popcorn」です。
話を戻します。このドラムはどう考えてもクライド・スタブルフィールドでしょ! と言ってしまいたいところです。けれどもエビデンスがないので言い切れない。いやいや、そんな細かい話はどうでも良いんだよ! という話もあります。
「Mother Popcorn」の途中、JBが「ときどき孤独を感じる」と嘆いた後に、「別のブラザーを呼べ」と言い、サックス奏者のメイシオ・パーカーを呼び込みます。ここから実際にメイシオにソロを取らせるまでのJBが凄まじさと言ったらない。トランス状態とでも言うべきでしょうか。ただひたすらメイシオを煽っているだけなのですが、スポーツ選手がよくいう「ゾーンに入る」とはこのことではないかと思うほどの没入具合。ここでいう没入とはバンドの演奏との一体となることと言って良いかも知れません。とにかく切れ味が半端ではない。
こうした神がかり的なパフォーマンスに身を委ねているとき、細かい話はどうでも良くなります。垂直方向に突き抜ける感覚がもたらされ、我々はそこに超越的なものを見るわけです。ここで何か言葉を発するとしたら、もはや「おおおお!」と言う他ない。
超越などというと「鳥居の野郎、遂にスピり始めたか」なんて思う方もいるかもしれません。これまでリズムに関して何か書くときにはなるべくプラクティカルであることを意識していました。また、敢えて細部へのフェティシズム的なこだわりについて書くことも多かったです。
私なりに宮台真司の話の一部を粗雑にまとめるとこうなります。大規模定住社会というものは構造的にクソ社会であることを免れない。そんなクソ社会がクソであることを忘れてしまえば、人は「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」といったクズに堕しがちである。我々がこのクソ社会でただ「なりすまし」をして生きているに過ぎないことを再確認するためには、言外・法外のシンクロ、つまり脱主体化した変性意識状態に没入する体験が肝要である、と。え? と思った方は実際に本を手にとって読んでみてください。
自分の経験にひきつけて考えてみます。例えば、はっぴいえんど周辺の音楽を聴いていると言うと、「音楽わかってる感を出したい人ね」あるいは「オシャレ感覚で音楽を聴く人ね」というようなレッテルを貼られる場合があります。我々は、自分の行動が他人の目にどう写るのかを常に意識して行動を決めざるを得ない世界に生きているため、こうした指摘があるのは仕方がないことなのかもしれません。しかし、そうなると周囲から小馬鹿されがちな音楽を「それでも敢えて聴く」ことこそが「本当の音楽好き」的な態度であるというような話になりがちですが、これもいささか短絡的だし、結局のところ同じ穴の狢なのではないかと思うのです。
というか、そんな自意識に関わる話はすこぶるどうでも良くて、先に書いたとおり、そもそもブロウ・ユア・マインド感覚こそが音楽の核心じゃないの? 記号をちょろちょろ動かしてなんかするといったメタ的なゲームの外側に連れていってくれるのが音楽なんじゃないの? と考えます。つまり、脱主体化ってまじ大事っしょ! という話です。あくまで個人的な所感ではありますが。
ここで、よっしゃ! 気合で変性意識状態に入っていこうや! というような根性論を打っても仕方がありません。例えば、魂の叫びが云々といったタイプの大仰だがぼんやりしている語り口に辟易していたからこそ、プラクティカルかつ細部へのフェティッシュなこだわりについて語ることをテーマとしていました。けれども、それは結局のところ、ブロウ・ユア・マインド感覚を味わうためのものです。
「神は細部に宿る」という言葉があります。JBの「Mother Popcorn」も非常に解像度の高いパフォーマンスによって成り立っているものです。細やかなコントロールの賜物だと言えます。けれども、フェチ的な細々としたこだわりの集積では、「Mother Popcorn」にはならないとも思います。人と一緒に演奏する限り、カオスに身を曝す必要があるからです。それはコントロールの埒外と言っても良い。そうしたカオス的な場に、脱主体化しつつ、すっと入っていくためにはやはり耳の解像度を上げなくてはなりません。それゆえに、徹底して細部にこだわる必要があります。そうした細部への執着に言及したのがこのモヤモヤリズム考だと言えるでしょう。そして、なぜリズムなのかと言えば、それが共振するものだからだし、より即物的なことを言えば、下半身にモヤモヤをもたらすからです。今回は「Mother Popcorn」を聴いて私のマインドがブロウしたため、こうした内容も相成ったといったところであります。
鳥居真道
1987年生まれ。「トリプルファイヤー」のギタリストで、バンドの多くの楽曲で作曲を手がける。バンドでの活動に加え、他アーティストのレコーディングやライブへの参加および楽曲提供、リミックス、選曲/DJ、音楽メディアへの寄稿、トークイベントへの出演も。Twitter : @mushitoka / @TRIPLE_FIRE
◾️バックナンバー
Vol.1「クルアンビンは米が美味しい定食屋!? トリプルファイヤー鳥居真道が語り尽くすリズムの妙」
Vol.2「高速道路のジャンクションのような構造、鳥居真道がファンクの金字塔を解き明かす」
Vol.3「細野晴臣「CHOO-CHOOガタゴト」はおっちゃんのリズム前哨戦? 鳥居真道が徹底分析」
Vol.4「ファンクはプレーヤー間のスリリングなやり取り? ヴルフペックを鳥居真道が解き明かす」
Vol.5「Jingo「Fever」のキモ気持ち良いリズムの仕組みを、鳥居真道が徹底解剖」
Vol.6「ファンクとは異なる、句読点のないアフロ・ビートの躍動感? 鳥居真道が徹底解剖」
Vol.7「鳥居真道の徹底考察、官能性を再定義したデヴィッド・T・ウォーカーのセンシュアルなギター」
Vol.8 「ハネるリズムとは? カーペンターズの名曲を鳥居真道が徹底解剖」
Vol.9「1960年代のアメリカン・ポップスのリズムに微かなラテンの残り香、鳥居真道が徹底研究」
Vol.10「リズムが元来有する躍動感を表現する"ちんまりグルーヴ" 鳥居真道が徹底考察」
Vol.11「演奏の「遊び」を楽しむヴルフペック 「Cory Wong」徹底考察」
Vol.12 クラフトワーク「電卓」から発見したJBのファンク 鳥居真道が徹底考察
Vol.13 ニルヴァーナ「Smells Like Teen Spirit」に出てくる例のリフ、鳥居真道が徹底考察Vol.14 ストーンズとカンのドラムから考える現代のリズム 鳥居真道が徹底考察
コロナにより音楽関連の仕事が激減してしまいました。「モヤモヤリズム考」と題して一年以上連載を続けているわけですが、そのネタのストックは音源制作やライブに向けた練習といった実践の中で起こるつまずきや違和感から着想を得たものから成ります。つまり、人と共同作業する中から生まれてくる場合が多い。
家でひとり、寂しく作業していてもひらめきは訪れません。例えば、楽器の練習に取り組む場合、その方針は気合で頑張るといったものになります。頭であれこれ考えたりしません。もちろん「カッティングするときはピックを浅く当てたほうが倍音がリッチかも!」程度のことは考えます。考えますが、一度頭で意識したことは意識せずともできるようになるまで反復し、癖にしてしまうというプロセスを採ります。やはり大事なのは言葉で考えることよりも気合です。
これがバンドの練習となれば話は変わります。仕上がりがなんだか今ひとつというときに、「おうおう、気合が足んねぇよ?」と喚き散らしたところで事態は良くなりません。もちろん気合でなんとかなる局面もありますが。
どういう要因があって今ひとつなのかを細かく考えて、言葉を用いて伝える必要が生まれます。この段階でようやくネタになりそうな思念が生まれます。
つまり、コロナの弊害はこういうところにも現れているということです。結論としては、「おいコロナ! まじふざけんな」ということになりますが、言い訳がましいことを言っていても仕方がありません。お前さんのアンテナの感度が低いのがいけないのだと言われればそれまでです。そんなわけで、今回は「なぜモヤモヤリズム考」ということを考えていこうと思います。
ところで、昨年10月にジェームス・ブラウン(JB)のライブ盤がリリースされていたことを知っていましたか? わたしは今年の3月に入ってから知りました。まさにもぐり。『Live At Home With His Bad Self』というタイトルのこのライブ盤は、1969年にJBの故郷、ジョージア州オーガスタで行われたライブを録音したものです。音源自体は1970年リリースのライブ盤『Sex Machine』の2枚目と同じものが使われています。このアルバムの1枚目が擬似ライブであることはよく知られていることです。元々、単独のライブ盤でリリースされる予定だったものを、シングル『Get Up (I Feel Like Being a) Sex Machine』の成功を受けて急遽、新録に歓声をかぶせた疑似ライブ盤を拵え、それらを併せて1組のライブアルバムとして発売したという経緯があったそうです。
1970年はJB史において重要な年でした。その年の3月、鉄壁のバンドメンバーたちが給料未払い、過労などの待遇の悪さを即刻改善しなければやめてやるとJBに最後通牒を突きつけました。JBはこれを退け、オハイオ州シンシナティからペイスセッターズというバンドを呼び寄せます。そのメンバーだったのがブーツィー・コリンズとキャットフィッシュ・コリンズの兄弟です。この新体制によって「Sex Machine」や「Super Bad」、「Get Up, Get Into It And Get Involved」、「Soul Power」といった70年代初頭のJBの代表曲が生みれることになります。そういう意味で、『Sex Machine』には鉄壁の旧体制による研ぎ澄まされた演奏と、フレッシュな新体制による熱い演奏が対になったアルバムです。
正直に打ち明けると『Sex Machine』はそこまでの愛聴盤ではありません。先にコリンズ兄弟が参加したライブ盤『Love, Power, Peace: Live at the Olympia, Paris, 1971』を聴いており、こちらの熱の入った演奏に比べると『Sex Machine』は全体的にもっさりという印象を受けていたからです。
『Live At Home With His Bad Self』と『Sex Machine』は同じ音源ではあるものの、前者は2019年のミックスということでとてもフレッシュに聴こえます。改めて『Sex Machine』を聴くとテンポが遅いではないですか。ピッチも半音近く低い。テープスピードを落としているのだと思われますが、なぜ落としたのか?
『Live At Home With His Bad Self』の中でも白眉はなんと言ってもラストを飾る「Mother Popcorn」です。
「Cold Sweat」のアイデアを発展させてより凶悪(Badass的な意味で)にした曲で、個人的にはJBの曲でも5本指に入ります。シングル版のBPMは115前後ですが、ライブ版は133前後なので相当速い。ちなみに同じ音源の『Sex Machine』版は125ぐらいです。バンドの演奏もJBのパフォーマンスも神がかり的です。特にクライド・スタブルフィールドのドラムの凄まじさたるや、と言いたいところですが、ドラム・ソロ的なものがあった後に、JBが「メルヴィン・パーカー!」と言っている気がしてならない……。クレジットにはスタブルフィールド、パーカーに加えてジョン・"ジャボ"・スタークスの名前があります。この時期のJBの画像を検索するとドラムセットが3つ並んだものが出てきます。JBがドラムを複数人雇うのは、あるときドラマーがやめると言い出して困った経験を踏まえて、常に控えを確保しておきたいという理由があるそうです。
話を戻します。このドラムはどう考えてもクライド・スタブルフィールドでしょ! と言ってしまいたいところです。けれどもエビデンスがないので言い切れない。いやいや、そんな細かい話はどうでも良いんだよ! という話もあります。
「Mother Popcorn」の途中、JBが「ときどき孤独を感じる」と嘆いた後に、「別のブラザーを呼べ」と言い、サックス奏者のメイシオ・パーカーを呼び込みます。ここから実際にメイシオにソロを取らせるまでのJBが凄まじさと言ったらない。トランス状態とでも言うべきでしょうか。ただひたすらメイシオを煽っているだけなのですが、スポーツ選手がよくいう「ゾーンに入る」とはこのことではないかと思うほどの没入具合。ここでいう没入とはバンドの演奏との一体となることと言って良いかも知れません。とにかく切れ味が半端ではない。
こうした神がかり的なパフォーマンスに身を委ねているとき、細かい話はどうでも良くなります。垂直方向に突き抜ける感覚がもたらされ、我々はそこに超越的なものを見るわけです。ここで何か言葉を発するとしたら、もはや「おおおお!」と言う他ない。
超越などというと「鳥居の野郎、遂にスピり始めたか」なんて思う方もいるかもしれません。これまでリズムに関して何か書くときにはなるべくプラクティカルであることを意識していました。また、敢えて細部へのフェティシズム的なこだわりについて書くことも多かったです。
例えば「この音価がやばい!」的な話です。けれども、音楽を聴いたり、演奏したりする醍醐味は超越的なものがもたらすブロウ・ユア・マインド感覚なのではないかと改めて考えました。というのも、少し前に宮台真司・永田夏来・かがりはるき共著の『音楽が聴けなくなる日』の宮台真司が担当した章を読んで自分にとって音楽がもたらす享楽とは何か改めて考えたからです。
私なりに宮台真司の話の一部を粗雑にまとめるとこうなります。大規模定住社会というものは構造的にクソ社会であることを免れない。そんなクソ社会がクソであることを忘れてしまえば、人は「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」といったクズに堕しがちである。我々がこのクソ社会でただ「なりすまし」をして生きているに過ぎないことを再確認するためには、言外・法外のシンクロ、つまり脱主体化した変性意識状態に没入する体験が肝要である、と。え? と思った方は実際に本を手にとって読んでみてください。
自分の経験にひきつけて考えてみます。例えば、はっぴいえんど周辺の音楽を聴いていると言うと、「音楽わかってる感を出したい人ね」あるいは「オシャレ感覚で音楽を聴く人ね」というようなレッテルを貼られる場合があります。我々は、自分の行動が他人の目にどう写るのかを常に意識して行動を決めざるを得ない世界に生きているため、こうした指摘があるのは仕方がないことなのかもしれません。しかし、そうなると周囲から小馬鹿されがちな音楽を「それでも敢えて聴く」ことこそが「本当の音楽好き」的な態度であるというような話になりがちですが、これもいささか短絡的だし、結局のところ同じ穴の狢なのではないかと思うのです。
というか、そんな自意識に関わる話はすこぶるどうでも良くて、先に書いたとおり、そもそもブロウ・ユア・マインド感覚こそが音楽の核心じゃないの? 記号をちょろちょろ動かしてなんかするといったメタ的なゲームの外側に連れていってくれるのが音楽なんじゃないの? と考えます。つまり、脱主体化ってまじ大事っしょ! という話です。あくまで個人的な所感ではありますが。
ここで、よっしゃ! 気合で変性意識状態に入っていこうや! というような根性論を打っても仕方がありません。例えば、魂の叫びが云々といったタイプの大仰だがぼんやりしている語り口に辟易していたからこそ、プラクティカルかつ細部へのフェティッシュなこだわりについて語ることをテーマとしていました。けれども、それは結局のところ、ブロウ・ユア・マインド感覚を味わうためのものです。
「神は細部に宿る」という言葉があります。JBの「Mother Popcorn」も非常に解像度の高いパフォーマンスによって成り立っているものです。細やかなコントロールの賜物だと言えます。けれども、フェチ的な細々としたこだわりの集積では、「Mother Popcorn」にはならないとも思います。人と一緒に演奏する限り、カオスに身を曝す必要があるからです。それはコントロールの埒外と言っても良い。そうしたカオス的な場に、脱主体化しつつ、すっと入っていくためにはやはり耳の解像度を上げなくてはなりません。それゆえに、徹底して細部にこだわる必要があります。そうした細部への執着に言及したのがこのモヤモヤリズム考だと言えるでしょう。そして、なぜリズムなのかと言えば、それが共振するものだからだし、より即物的なことを言えば、下半身にモヤモヤをもたらすからです。今回は「Mother Popcorn」を聴いて私のマインドがブロウしたため、こうした内容も相成ったといったところであります。
鳥居真道

1987年生まれ。「トリプルファイヤー」のギタリストで、バンドの多くの楽曲で作曲を手がける。バンドでの活動に加え、他アーティストのレコーディングやライブへの参加および楽曲提供、リミックス、選曲/DJ、音楽メディアへの寄稿、トークイベントへの出演も。Twitter : @mushitoka / @TRIPLE_FIRE
◾️バックナンバー
Vol.1「クルアンビンは米が美味しい定食屋!? トリプルファイヤー鳥居真道が語り尽くすリズムの妙」
Vol.2「高速道路のジャンクションのような構造、鳥居真道がファンクの金字塔を解き明かす」
Vol.3「細野晴臣「CHOO-CHOOガタゴト」はおっちゃんのリズム前哨戦? 鳥居真道が徹底分析」
Vol.4「ファンクはプレーヤー間のスリリングなやり取り? ヴルフペックを鳥居真道が解き明かす」
Vol.5「Jingo「Fever」のキモ気持ち良いリズムの仕組みを、鳥居真道が徹底解剖」
Vol.6「ファンクとは異なる、句読点のないアフロ・ビートの躍動感? 鳥居真道が徹底解剖」
Vol.7「鳥居真道の徹底考察、官能性を再定義したデヴィッド・T・ウォーカーのセンシュアルなギター」
Vol.8 「ハネるリズムとは? カーペンターズの名曲を鳥居真道が徹底解剖」
Vol.9「1960年代のアメリカン・ポップスのリズムに微かなラテンの残り香、鳥居真道が徹底研究」
Vol.10「リズムが元来有する躍動感を表現する"ちんまりグルーヴ" 鳥居真道が徹底考察」
Vol.11「演奏の「遊び」を楽しむヴルフペック 「Cory Wong」徹底考察」
Vol.12 クラフトワーク「電卓」から発見したJBのファンク 鳥居真道が徹底考察
Vol.13 ニルヴァーナ「Smells Like Teen Spirit」に出てくる例のリフ、鳥居真道が徹底考察Vol.14 ストーンズとカンのドラムから考える現代のリズム 鳥居真道が徹底考察
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