こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今お聴き頂いているのは、エルヴィス・プレスリーの「Danny Boy」。1976年のアルバム『メンフィスより愛をこめて』に収録されておりました。19世紀からアイルランドに伝わっている民謡ですね。別れの歌です。1976年、これなエルヴィスが亡くなる前の年です。私生活も含めて様々な葛藤を含めてたどり着いた、そんな境地を感じさせる純化された歌というのはこういう歌をいうんだと思います。晩年の名演ではないでしょうか。今日の前テーマはこの曲です。
今月2020年8月の特集は、番組開始以来初の洋楽。
今週は5週目の最終週、1970年代編です。後期エルヴィスですね。でも、日本ではこの時期のエルヴィスが一番馴染みがあるかもしれません。フリンジというんでしょうか、白いひらひらの付いたジャンプスーツにもみあげ、これがアイコンになっておりますね。でも、音楽的な評価が一番定まっていないのがこの1970年代かもしれないなと思いました。この「Danny Boy」のような歌を歌っていた時代です。1960年代は賛否が分かれる時代でして、映画にずっと出ていたエルヴィスをどう思うかという話になると思うのですが、1970年代は全貌が知られていないんだと思います。評価できない、しにくい、そしてその頃のエルヴィスは音楽ファンの間で省みられていなかったと言っていいでしょう。
先週の最後に「明日への願い」という曲をお聴きいただきましたが、その続編のようなメッセージソングですね。シカゴの寒い朝、1人の少年がゲットーで、貧困の中で生まれて育っていく少年のお話です。1969年5月に発売になった曲ですが、1969年はウッドストックがあった時代ですよ。1960年代後半の混迷のアメリカが、ここにも歌われている。このような歌は1960年代のエルヴィスには全くありませんでした。
1970年に帰ってきたエルヴィスを音楽ファンはどう迎えたのか? 1962年の『グッド・ラック・チャーム』以来、7年ぶりの米ビルボード1位になった曲。レコーディングもメンフィスで行われ、その後のライブでも定番になった曲です。
「See See Riders」はアニマルズで有名ですね。デトロイトのミッチー・ライダーという方がこのメドレーを得意としておりました。「The Wonder of You」は、アルバムに先駆けて発売されたシングルで、この曲も1959年にレイ・ピーターソンという人がヒットさせてる曲ですね。オリジナルはとても甘いラブソングなのに、こういうスケールの大きな曲に生まれ変わっている。先ほどお聴き頂いた「Suspicious Minds」は、1969年のメンフィスでのレコーディングで生まれた曲です。エルヴィスの研究家の間では、伝説のメンフィス・セッションと呼ばれているんだそうです。1969年、エルヴィスは生まれ故郷のメンフィスに帰ってレコーディングをしていた。しかも、その前にはTVスペシャルで音楽に帰ってきた。どうやって1970年代を迎えようとしていたのかが、改めて推測できるエピソードだなと思いました。今回のエルヴィスの1970年代のことを、『The Essential 70s Masters』というボックスセットで色々知ったのですが、萩原健太さんがそちらで克明な解説を書いておりました。
1970年代のエルヴィスと1960年代のエルヴィスの違いは、人の歌をたくさん歌ったことでしょうね。1960年代は映画主題歌や、映画の中のオリジナル楽曲が多かったのですが、1970年代は他のアーティストの歌をたくさん歌っております。「Polk Salad Annie」は、1968年にスワンプ・ロックのシンガー・ソングライターであるトニー・ジョー・ホワイトが全米8位にランクインさせたヒット曲。1968年ですから出来立てホヤホヤの楽曲なんですが、それをエルヴィス は自分の曲にしてしまった。そして、「Proud Mary」は言わずと知れたCCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)、南部色の強いロックバンドです。エルヴィスは俺が歌う歌だと思ったんでしょうね。エルヴィス流になっております。
何度か話に出ております、ラスベガスのインターナショナルホテルでの『エルヴィス・オン・ステージ』。アメリカでは1970年11月、日本では1971年2月に公開された映画『エルヴィス・オン・ステージ』ですね。映画になったのは1970年8月の3度目のショー。カメラは40台で撮影された。監督はデニス・サンダース、1968年にアメリカのドキュメンタリー賞を受賞しており、元々はニュース番組を作っていた映像作家です。『エルヴィス・オン・ステージ』は感動的でしたね。何が感動的だったかというと、音楽がこんな風にドキュメンタリーになるんだ、音楽はこれだけ人の体温や汗など通じて人の心を動かすんだということを映画にして見せてくれた。これはビートルズの映画にはなかった。エルヴィス は1970年代、ツアー人間になるわけです。1972年にはアメリカ南部を廻るツアーを行い、『エルヴィス・オン・ツアー』という映画にもなりました。
そういう活動の中でヒット曲も生まれております。1970年にシングルチャート11位、「You Dont Have To Say You Love Me(邦題:この胸のときめきを)」、そして2位だった「Burning Love」です。改めて知ったことですが、「You Dont Have To Say You Love Me」という曲は、ダスティ・スプリングフィールドが歌って大ヒットした曲なんですね。元々はサンレモ音楽祭で生まれたイタリアの曲。そしてダスティ・スプリングフィールドは、ブルー・アイド・ソウルを好んで歌っていて、1968年にメンフィスで全曲R&Bのアルバムを作っていたんだということを知りました。なぜエルヴィスが「You Dont Have To Say You Love Me」を歌ったのか? これはダスティ・スプリングフィールドへのエールだったんだと思いました。
そして、「Burning Love」は1970年代のソングライターグループが作ったのがオリジナルですね。1970年代にエルヴィス周りにいたソングライターグループが意図していたことがあって、それはゴスペルやR&B、カントリーなどの垣根を取り払うことだったんだそうです。作家陣に共通していたのが、彼らの思春期にエルヴィスに衝撃を受けていた。そういう人たちが集まって、自分たちにとってのエルヴィスはこうだ、ということを形にしようとしていたのが、この1970年代のソングライターグループだった。これは『The Essential 70s Masters』にデイブ・マーシュという立派な音楽評論家がライナーで書いていたことなんですね。ブルース・スプリンスグステイーンの伝記「明日なき暴走」を書いた人です。これは発見でした。エルヴィスは何でも歌う男だというイメージは間違っている、と彼は書いてました。エルヴィスには、歌って欲しいと必死に売り込んでいるソングライター群が山ほどいた。その中でもエルヴィスは注意深く選んでいたんだと。これは発見でしたね、1970年代のエルヴィスはそうだったんだと改めて気づいたことではあるんですが、こういうことは当時の日本のリスナーにはなかなか理解できなかった。今だからよくわかります。
彼のそういう1970年代のツアーはハワイにやってきます。1973年1月14日、日本時間午後7時30分05秒、私もテレビで観ていました。このハワイでのライブで歌われた曲を聴いていただきます。「Steamroller Blues」、オリジナルはジェームス・テイラー。そして映画『エルヴィス・オン・ステージ』より「Bridge Over Troubled Water(邦題:明日に架ける橋)」です。
1973年1月、ハワイで行なわれたライブアルバム『エルヴィス・イン・ハワイ』から「Steamroller Blues」、映画『エルヴィス・オン・ステージ』から「Bridge Over Troubled Water(邦題:明日に架ける橋)」。「Steamroller Blues」はジェームス・テイラー、「Bridge Over Troubled Water」はサイモンとガーファンクルがオリジナルなのですが、そういう事はもはや考えなくていい。ブルースシンガーとしてのエルヴィス、劇的なバラードシンガーとしてのエルヴィス。2曲ともにそれらを象徴するような曲だったんではないでしょうか。1970年代のエルヴィスは、日本で紹介される時もスキャンダルと紙一重だったと思うんです。1971年に奥さんのプリシラが家を出てしまって、1973年に正式に離婚しました。1970年代の楽曲に別れをテーマにしたものが多かったのは、そういう当時の彼の心境が反映されているんだろうと改めて思います。歌の中にあるスピリチュアルな深み、冒頭の「Danny Boy」もそうですが、誰かの曲をカバーしているという次元ではないんですね。ビートルズはオリジナルの曲があって、全員がソングライターという人たちでしたが、エルヴィスはシンガー・ソングライターではないことの強みというんでしょうか。自分が歌いたい曲、歌うべきだと思った歌を自分のものにしてしまうという意味では、究極の歌い手だと言っていいと思うんです。当時の年齢は30代半ばから後半ですよ。一方で体調とも闘ってたわけですね。亡くなる直前のステージの様子をお聴きいただこうと思います。1977年4月、ミシガン州のアナーバーという場所で行われたライブのテイクです。ライチャス・ブラザーズの曲「Unchained Melody」、そして亡くなった直後に出たシングル「My Way」。亡くなった直後のシングルではライブバージョンでしたが、今回はスタジオバージョンをお聴きください。
エルヴィス・プレスリーで「Unchained Melody」、「My Way」でした。「Unchained Melody」は、1977年4月のライブです。亡くなる直前、自分の人生の最後を覚悟した人の歌というんでしょうか。壮絶なものがあると思いました。今回、「My Way」をライブバージョンにしなかった理由がありまして。亡くなった後に『ジス・イズ・エルビス』という映画があったんです。この映画の最後に、亡くなる直前の「My Way」を歌う姿が収録されておりました。お腹も出てしまい、ピアノの前に座ってもピアノがうまく弾けず、とても悲しそうな表情のエルヴィスが映っていました。映画館であのシーンを観て号泣してしまい、あのシーンはあまり思い出したくないと思って、この淡々としたスタジオバージョン、1971年にナッシュビルで録音されたものを選びました。
FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」番外編"全てはエルヴィスから始まった"Part5、最終週は1970年代。今年が亡後45回忌、エルヴィス・プレスリーの軌跡を1ヶ月に渡って辿ってきました。今流れているのは、番組の後テーマ曲、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。
1970年代のエルヴィス・プレスリーは30代ですよ。1960年代の終わりから1970年代の初めにかけては、10代、20代の若者が30代以上は信じるなと言われていた時代の30代です。1970年というのは、ジャニス・ジョップリンとかジミ・ヘンドリックスらが亡くなった年です。『エルヴィス・オン・ステージ』を観たときにとっても嬉しかったんです。昔の恋人のような存在が元気でこうやって歌っているという姿がすごい懐かしくて、でもどこか遠い気もしました。改めて1970年代の作品を聴きなおしたり、色々読んで思ったことがありました。それは僕らが子供だったということ。僕らが若かったんです。ロックの歴史ということも、アメリカという国のことも、音楽とは何か? 歌の中の精神性とは何か? ということまで考えることができなかったのかもしれない、と思いました。こんなに大きく歴史を変えて、こんなに見事に成長した青年、エルヴィス・プレスリー。そして、歌とは何か? という究極の次元に行き着いた人だったんだなあ、と改めて思います。1970年代のバラードは本当に素晴らしいです。45回忌というのは、何かの区切りになるのか分かりませんが、こういう仕事をしてきた自分にとって、僕はここから始まったんだなということを感じさせてくれました。
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
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「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
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