世界的に物議を醸しているディズニー実写版『ムーラン』。中国の有名な伝説を実写化した本作は、ヒロインのキャラクターの魅力を十分に引き出せていない上に、劇中で語られるムーランの力のコンセプトは、『スター・ウォーズ』のフォースと酷似している。


待ち望まれたディズニーの実写版『ムーラン』は、さまざまなレジェンドに満ちている。当然ながら、その筆頭が伝説の戦士ファ・ムーラン(花木蘭)本人だ。父の身代わりとなり、男と偽って戦地へ赴くムーランは、6世紀の漢詩『木蘭詩』によって不朽の名声を得た、中国の民間伝承の主人公である。ムーランの物語は、清代の作家・褚人獲(ちょじんかく)の17世紀の小説『隋唐演義』によって新たな命を吹き込まれた。それ以来、ムーランを称える歴史的な考証、ディズニー以外の数々の映画、戯曲、詩が次から次へと生まれ、ついには金星のクレーター名にもなった。

だが、筆者の記憶のなかの伝説はいまも生き続けている。ムーランのレジェンドとは、超一流キャストのことである。その筆頭が太極拳の師範、アクションコレオグラファー、そしてアクション映画のアイコン的存在であるドニー・イェン。ドニー・イェンといえば、カンフー映画『イップ・マン』シリーズの主人公を演じた中国の俳優だ。さらには、皇帝役のジェット・リー(劇中でリーの面影はほぼゼロ)と、魔女シェンニャン役のコン・リー(中国が生んだもっとも偉大で有名な現代の女優)が見事に魔法の要素を添えている。武侠映画(訳注:中国の伝統あるアクション映画のジャンル)のレジェンド、チェン・ペイペイも忘れてはいけない。アメリカの映画ファンには『グリーン・デスティニー』(2000)のジェイド・フォックス役としてお馴染みだが、ペイペイ主演の代表作といえば、武侠映画の名作『大酔侠』(1966)だ。
それに加え、ムーランの父ファ・ズー役のツィ・マーと母ファ・リー役のロザリンド・チャオも手腕を発揮している。多くの共演者がそうであるように、マーは『ラッシュアワー』(1998)、チャオは『ジョイ・ラック・クラブ』(1993)といった作品に出演し、アメリカのメジャー映画進出を果たして久しい。

活躍レベルに差はあるものの、彼らはアメリカと中国の両方で素晴らしいキャリアを築いたスターであり、抜け目ないディズニーはそれを利用しようとしたのか、このそうそうたる顔ぶれこそが新生『ムーラン』のもっとも印象的な点かもしれない。ニュージーランド出身のニキ・カーロ監督による、リウ・イーフェイ(今後はイーフェイもアメリカと中国の両方で活躍する俳優になれるかもしれない)主演の『ムーラン』は、おおむね無難な仕上がりだ。同作は退屈なアクションシーンに満ちており、脚本は過剰なほど簡略化されている。さらには、好奇心をそそる宮廷内の争いと危険な魔術によって映画そのものが台無しになっており、こうした要素さえもがさして共感を誘わない映画のメインテーマを語るため、多かれ少なかれ、脇へそらされている。さまざまなバージョンの民間伝承にもあるように、ムーランの物語はポテンシャルに満ちたパンドラの箱だ。そこには戦争があれば親への忠義心があり、高潔な策略、男性らしさの定義の逆転、そして当然ながら、男装という英雄的な要素もある。伝説が伝えるように、ムーランが十年以上にわたってマッチョ男たちのあいだで男として生きてきたことを忘れてはならない。そんなこと想像できるだろうか? 男として毎日を生きることがどれだけ大変だったか考えてみたい。それは恐ろしくもあり、勇敢でもある。おまけに、自分を偽って生きるなんて。
映画にふさわしいテーマがここにあるのだ。

しかしながら、私たちが目にする『ムーラン』には、はっきり言って高揚感がなく、ムーランという特別なキャラクターが十分に掘り下げられていない。その代わり、伝説的存在としてのムーランのステータスにあやかろうとする市場の思惑に満ちている。ムーランはアイコンであり、それ以上でもそれ以下でもない。同作の脚本は、ムーランというキャラクターの奥深さを十分にとらえていないのだ。冒頭のシーンでは、逃げ回るニワトリを追いかける幼いムーランが登場する。ニワトリは逃げる途中で村中をめちゃくちゃにしてしまい、ムーランの家族は評判を落とす。それは、本来なら女性にふさわしくない力をムーランが余りあるほど持っているからだ。そんなとき、「息子は戦い、娘(すなわちムーラン)は結婚によって家に名誉をもたらす」というムーランの父のセリフが物語のテーマを大まかに描き出す。ムーランはお見合いをするが、結果は失敗(それでも、観客はムーランが美しい女性であることに気づく)。そこに北方の柔然族の戦士たちがシルクロードを占領しようと帝国に攻め入り、「すべての家からひとりずつ男子を徴兵せよ」という命令が皇帝から下される。かつては英雄と称えられた元戦士のムーランの父は、生きては帰れない戦いに臨む覚悟を決める。


ムーランが父の代わりに戦地へ赴くと言ってもネタバレになる心配はない。ディズニーのアニメ映画のリメイクである本作には、ネタバレというものはそもそも存在しないのだ。だが、1998年のアニメ版『ムーラン』との決定的な違いはある。今回の実写版でディズニーは過去の財政面での過ちを繰り返さないよう、細心の注意を払った。アニメ版『ムーラン』において特徴的だった、ひどく陽気でキャッチーなヒーローアンセムと遊び心あふれるトーンは、公開当時中国ではあまり受け入れられず、映画を観た人々は彼らのヒロインが過剰にアメリカナイズされてしまったと批判した。アニメのムーランは、あまりに個人主義だったのだ。それに対し、新しいムーランは立派に自立していながらも、自らの信念、そして家族とコミュニティに忠誠を誓うという東洋的な価値観をしっかり持っている。それだけでなく、#MeTooフレンドリーな要素まで加えられている。アニメ版にあったような、ムーランの上司のひとりであるシャン隊長と男装したムーランの(どことなく同性愛的な)戯れはもはや存在しない。その代わり、ムーランは上司ではなく、自身と同じ階級の兵士であるチェン・ホンフィ(ヨソン・アン)と用心深くおどけては、冗談半分で彼を打ち負かす。

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実写版『ムーラン』では、次から次へと襲ってくる危機を堂々と、そしてときに曖昧に——子どものオーディエンスを考慮した演出と一部の人が主張するように——乗り越えることばかりが重視されている。もっとも評価すべき点は、コン・リー扮する魔女シェンニャンという一種のヴィラン(実は正真正銘のヴィランではなく、まだまだ掘り下げる余地のあるキャラクター)だ。
ディズニーのヴィランとしてお馴染みのマレフィセントのニューバージョンのようなシェンニャンは、ムーラン同様に男性に知られてはいけない強力なパワーを持つ運命を背負った複雑なアンチーヒロインとしての要素が強い。

同作が色んな意味であまりに曖昧で浅く広いため、ムーランの力の正体が明かされても、その危険を実感するのは難しく、どこか不満な要素を残してしまう。世界でもっとも影響力のある映画スタジオのディズニーがリスクを顧みずに好きなように挑戦できるからといって、ディズニー版『ムーラン』が伝説に忠実であることなんて誰も期待していないし、深く掘り下げることも期待していない——たとえ自身に誠実であり、秘められた力を解き放つことがディズニーと自己啓発業界の永遠のテーマであったとしても。ディズニーが『スター・ウォーズ』シリーズを手中に収めたのは、当然のことなのだ。実写版『ムーラン』で語られるムーランの力のコンセプトは、フォースと酷似しているように思える。これを探れば、フォースの発想源が解明できるかもしれない。

実写版『ムーラン』がもっと優れていれば、ムーランの力とフォースのつながりが正統なものであるように感じられたかもしれない。そのためには、豊富なアクションスターたちを活かす必要がある。筆者は多くを求めすぎているのかもしれないが、同作は香港B級映画と武侠映画の名作を明確に想起させていながら、活かしきれていないのだ。もっと敬意を表するべきなのだ。その代わり、同作は市場交渉という不可解な行為のように見える。たしかに映画としては申し分なく、ムーランのようなヒーローをスクリーンで見る機会に恵まれた子どもたちにとっては、意味のある作品となるだろう。
だが、キャスト、トーン、観客を喜ばそうという強い気持ちといったすべてが優れた映画をつくるとは限らない。これらは、良作となるべき映画の設計図に必要な要素にすぎないのだ。

・ディズニー実写版『ムーラン』予告編動画はこちら

『ムーラン』
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Disney+で2020年9月4日から配信中。プレミアアクセス(追加料金必要)で視聴可能。
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