田家秀樹(以下、田家):こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。2020年9月の特集は「佐野元春40周年」。ポップミュージックというのは時代を映す鏡です。世の中の動向、若者たちの生活、テクノロジーを含む環境の変化。いろいろなものを反映します。1980年代の前半に佐野さんの「SOMEDAY」が愛唱歌だと仰っていた作家の村上龍さんは、ポップの波打ち際という言葉を使っておりました。1970年代のルー・リードの名曲のタイトルを借りるなら「ワイルド・サイドを歩け」。音楽と時代、ジャーナリズムとコマーシャリズムが交差する最前線をずっと歩いてこられたのが佐野元春さんです。彼が求めてきたこと、夢見てきたこと、抗ってきたこと、傷ついてきたこと、そして守ろうとしてきたもの。それが一体どんなものだったのか? 今、当時ををどう思っているのか?
今月は、10月7日にリリースされる佐野元春さんの『MOTOHARU SANO GREATEST SONGS COLLECTION 1980 - 2004』と、『THE ESSENTIAL TRACKS MOTOHARU SANO & THE COYOTE BAND 2005 - 2020』を中心に改めてそんなお話をお訊きできたらという1ヶ月です。
田家:先週はアルバム『VISITORS』の話をしました。今週は帰国後からという話になるのですが、帰国後の活動についてはNY以前、以後と分れるほどに多彩になったなと思っています。その一つの例、バンドTHE HEARTLANDにホーンセクションの東京ビーバップが加わった。
佐野:そうだね。バンドが拡充した。それまで5人だったのが、キーボードが2人になって6人編成。さらにブラスセクションに東京ビーバップ3人という大編成になっていった。
田家:『VISITORS』のツアーはそれまでで最長で70本の公演がありました。ステージにはビデオアートのパイオニア、ナム・ジュン・パイクの映像が使われていた。
佐野:音と映像の新しい文化が始まろうとしていた。
田家:1983年のツアー「ロックンロールナイト・ツアー」とは全然違うものでしたけど、佐野さんの中では、どんな手応えだったと。
佐野:それまでは白人のポップ音楽のフォーマットを下敷きにやっていたけれど、『VISITORS』以降はどちらかというとリスム & ブルースの要素を前に出していった。
田家:「ヤングブラッズ」はシングルカットもされて、ジャケットには紛争地域をマーキングした世界地図というのが描かれており、アフリカの難民チャリティーに寄付されたりしていました。
佐野:そういうアクションも含めて、ポップ音楽ができる可能性を試したかった。
田家:1985年から1986年、これは大きな出来事と思われることが3つありました。一つは、エレクトリックサウンドとポエムという形を作られたカセットテープ「スポークン・ワーズ」。もう一つはご自身の音楽レーベルMs Factoryを始められて、さらに活字の機関誌「THIS」を立ち上げられた。
佐野:ポップ音楽のレボリューションだと思っていた。ただの芸能音楽で終わるのではなくその先の文化まで持っていく。自分たちの世代でそれを担っていこう。今振り返るとそんなことを思っていました。
田家:担っていたのかなっていう客観的というか謙虚な言い方をなさりますが、でも何か激しいものに突き動かされていないと、これだけ具体的な動きはできませんよね。
佐野:そうかもね。それまでの業界的な慣行に捉われないで、好きなことをやった。雑誌やラジオ番組で自前のメディアを持った。今でいうクラブイベントを開催した。今振りかえれば相当ラディカルだった。だから業界の古い人たちはついて来られなかった。
田家:そういう中で制作されたアルバム『Café Bohemia』から「ワイルド・ハーツ -冒険者たち」。
田家:新生THE HEARTLANDのソウルロックという感じですね。
佐野:前作『VISITORS』は、ちょっとやりすぎたと思った。アバンギャルでエッジー。音楽好きな連中はいいねって言ってくれたけど、もっと多くの人に僕の音楽を届けようとするならどうだろう、と思った。
田家:この曲の主人公は仕事をしている人であり、ストリートキッズではありませんよね。
佐野:僕の音楽の聞き手も10代から聞いてくれて、そろそろ仕事を持つという年齢にさしかかっていた。
田家:この"Bohemia"っていうイメージは詩人のアレン・ギンズバーグと話している中で出来きたというふうに聞きましたが。
佐野:自分の中ではボヘミアイズムというキーワードは10代からあって。当時僕が編集していた雑誌「THIS」の中でアレン・ギンズバーグ氏にインタビューする企画があって、"あなたの中ではボヘミアンをどう定義していましたか?"って質問したときに、彼は「国際的なマナーを持つべきだ」という答えをしてくれて、なるほどなと思った。
田家:佐野さんの方から投げかけたんですね。やはり、ボヘミアンというのはビートニクと並んである種のライフスタイルの形でもあった。ツアーは「Café Bohemia meeting」という形でコンサートツアーを”ミーティング”というのも、それまであまり例がなかったでしょう。
佐野:ある評論家にちょっと固いよって言われたけど、そうかな? って思った。
田家:かっこいいと思いましたけどね。そして1988年に初のライブアルバムにもなった。バンドの話は今後も何度か出てきます。
田家:1989年6月発売の6枚目のアルバム『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』からのシングルカットされた「約束の橋」です。
佐野:これは正確に言うと『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』からのシングルカットではなく、後に、あるTVドラマのテーマソングにしたいというオファーがあって、ボーカルをリテイクしたバージョンだ。
田家:なるほど。1992年のドラマ主題歌Ver.だったと。1989年のオリジナルバージョンはチャート最高順位20位で、1992年にドラマ主題歌になって発売されたとき4位でした。
佐野:なんで最初にこの曲に気付いてくれなかったの? って感じですよね。ドラマの主題歌にならないと聴いてくれないんですか? って当時ちょっと怒ってました(笑)。
田家:80年代後半の佐野さんはまさにボヘミアンだなあと改めて思いました。『Café Bohemia』のイメージはパリで浮かんできた、トラックダウンはロンドンで行われたりして。その後に1988年8月からロンドンに長期滞在して作ったのが『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』だと。
佐野:80年代は海外に行く機会が多かった。当時鎖国的だった日本の音楽状況を打破したい、外に開きたい、という気持ちがあった。
田家:ニューヨークの経験があるので、ロンドンの長期滞在はちょっと違うものがあるのかなと思ったりもしたのですが。
佐野:一緒に仕事したい人たちがそこにいた。戸惑いはなかった。
田家:その中でプロデューサーも探されていましたよね。エルヴィス・コステロのプロデューサーでもあるコリン・フェアリーさんでした。
佐野:はい、いいプロデューサーでした。
田家:プロデューサーを探すっていうのも大変な作業だったんですか?
佐野:いや、もう電話1本だよね。
田家:日本から来たこういうものです。会ってもらえませんか? という感じで?
佐野:そんな感じだったね(笑)。
田家:ロンドンのセッションで最初に録ったのが「約束の橋」?
佐野:そうでしたね。ヒースロー空港から直接リハーサル・スタジオに入った。そこにミュージシャンが待っていて。最初にやった曲が「約束の橋」でした。
田家:そういう曲でした。それではこのアルバムのタイトル曲をお聴きください。「ナポレオンフィシュと泳ぐ日」。
田家:このアルバムのタイトルは日本語でした。それまではずっと英語でしたよね。
佐野:特に意識はしていなかった。
田家:日本語にするっていうのは、何かきっかけがあったんでしょうか?
佐野:海外で仕事すると自国の文化が大事だって気づく。それが理由だと思う。
田家:この曲の歌詞で「聖者が来ないと不満を告げているエレクトリックギター」というところで、ギターが流れたりするんですよね。そのギターアンプはピート・タウンゼントのアンプだったとか。
佐野:スタジオのアシスタントがアンプを調達してくれた。よく見るとアンプの横に大きくピート・タウンゼント書いてあった。話を聞いたらピート・タウンゼントから借りてきたっていう(笑)。アンプのところどころがボロボロになっていたよ(笑)。
田家:1989年6月発売6枚目のアルバム『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』から「新しい航海」でした。先程の「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」の中の歌詞"世界は形を変えていく"という歌詞と対になったような曲だなと思います。
佐野:『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』をリリースした1989年は、世界が大きく形を変えていく瞬間だった。例えば天安門事件、ベルリンの壁崩壊、日本でも天皇崩御。僕はそんな時代の変化を予感しながら曲を作った。「新しい航海」という曲にしてもそう。時代と呼吸を共にしたアルバム。それが『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』じゃないかな。
田家:でもそれはヨーロッパにいたからよく見える世界、浮かんでくる日本の姿っていうのもあるわけですもんね。だから違って見えるものがいっぱいあったんでしょうし。このアルバムが出る前の1988年8月にシングル『警告どおり 計画どおり』というのが出ているわけで、この曲は今回のベストアルバムに収録されていませんが、その中にスリーマイルとかチェルノブイリなどの固有名詞もたくさん出てきていました。ジャーナリズムに対しての懐疑的な姿勢も歌われていて。
佐野:『警告どおり 計画どおり』はトピックソングだ。トピックソングって時代が変わるとちょっと陳腐化したりする。この曲が陳腐化しているとは思わないけど、でもベストアルバム向きじゃないなと思った。
田家:今回、改めてこの頃のインタビューを拝見していたら、1989年の「宝島」のインタビューで「僕は全共闘世代には遅すぎ、コンピューター世代には馴染めない。いつも自分について君はどうなんだ? と、上からも下からも突きつけられている世代だ。ウッドストックのロックジェネレーションがイデオロギーや政治に関わることで、音楽性や芸術性といった本来自発的で自由であるべきものが無残に破壊されてきているのを見ているから、自分の音楽に政治やイデオロギーを忍び込ませるのに非常に注意深くしている」と、語っておられました。この発言について今どう思われます?
佐野:正直でいいと思うよ。
田家:なるほど(笑)。では『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』から、もう一曲シングルになった曲です。「雪―あぁ世界は美しい」。
田家:この曲は日本でTHE HEARTLANDとレコーディングされた。
佐野:イギリスのミュージシャンとやってみたんだけど、この日本的な情緒感はなかなか表現しづらかったので、この曲は日本に持って帰ってTHE HEARTLANDと録りました。
田家:作詞もロンドンでされたんですか?
佐野:そうです。俳句みたいな詞です。雪は雪、白は白とか俳句みたい。
田家:これも改めて気付いたんですが、手塚治虫のアニメーションをイメージしてお書きになった?
佐野:『ブッダ』からインスパイアされました。手塚治虫さんは幼少期から僕の尊敬する方で、一度会いに行きました。そして成長してから、この曲を手塚治虫さんに捧げようと思って書いた。手塚さんの所にこの曲を持って行こうとしたら、亡くなられてしまったんですけどね。
田家:1989年9月に手塚さんは亡くなられましたもんね。幼少の頃というのは手塚治虫さんはかなり影響力があったという。
佐野:はい。『鉄腕アトム』がきっかけでした。その後に、手塚治虫サイエンス・フィクション、手塚治虫ヒューマニズムに触れました。
田家:色々な音楽から受けてる影響と同じように、手塚治虫さんも大きな存在だった。そして1989年9月に手塚治虫さんが亡くなられて、これはロンドンレコーディングが終わってすぐだった。この曲を聴いてもらう機会がないままに終わってしまいました。
Kickin Asphalt / Duane Eddy
田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」佐野元春40周年Part2。1980年代後半編。今月はいつもの後テーマ曲、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」はお休みにして、Duane Eddyの「Kickin Asphalt」が流れています。これは佐野元春さんがずっとやられていたラジオ番組「元春レイディオ・ショー」のテーマソングだった。
佐野:好きな曲ですね、かっこいい。
田家:「元春レイディオ・ショー」は今どんな内容なんでしょうか?
佐野:フォーマットは1980年代から全然変わってないです。時と場所を変えて細々と続いています(笑)。FM COCOLOでもやってみないかというお誘いを受けて7月から9月までやってます。
田家:今週は『Café Bohemia』と『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』で1週間が終わってしまいまして。4週間で40年辿るには先を急がないといけないなと思ったりしているのですが。『VISITORS』と『Café Bohemia』と『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』は、佐野さんの40年のキャリアの中でどんなアルバムとして残っているんでしょう?
佐野:80年代の自分の記憶。海外のミュージシャンとの共同作業が多かった。そういう印象ですね。
田家:この頃があったから、今の自分があるというのはありますか?
佐野:はい。1990年代にはいよいよ独自のMade in Japanのサウンドを作ろうという意識になっていた。それを思えば、1980年代に学んだことの実践が90年代に繋がっていった、という感じかな。
田家:この1990年代の最初のアルバム『Time Out!』の中で「ぼくは大人になった」という曲がありまして。これは今回の『MOTOHARU SANO GREATEST SONGS COLLECTION 1980 - 2004』にも収録されているわけですが、「ぼくは大人になった」を歌ったときの大人っていうのはどういうものなんでしょうか?
佐野:本当に大人になってたら僕は大人になったって言わないよ。
田家:「ガラスのジェネレーション」では"つまらない大人になりたくない"という歌詞がありました。その大人と比べてみるとどうでしょう?
佐野:僕は大人になったって言ってるようじゃ、まだ大人になってないということなんだよな。
田家:なるほど。今週はこの辺で終わりたいと思います。来週もよろしくお願いします。
佐野:よろしくお願いします。
MOTOHARU SANO GREATEST SONGS COLLECTION 1980-2004
https://www.110107.com/s/oto/page/sano_collection?ima=0205
THE ESSENTIAL TRACKS MOTOHARU SANO & THE COYOTE BAND 2005 - 2020
https://www.moto.co.jp/EssentialTracks2005-2020/
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp
「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210
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