1999年3月20日、フェニックスの自宅にいたチェスター・ベニントンの携帯が着信を告げた。電話をかけてきたのはロサンゼルスに本社があるZomba MusicのA&Rのトップ、ジェフ・ブルーであり、彼は自己紹介もそこそこに本題に入った。「君をスターにしてみせる。素晴らしいバンドのメンバーとしてね」。そのXeroというバンドは、当時ヴォーカリストを探していた。その日は奇しくもベニントンの23歳の誕生日であり、ブルーは彼がサプライズパーティでもてなされているところに電話をかけてきたのだった。
翌日、ベニントン(ブルーに彼のことを推したのは、LA在住の彼の代理人だった)の元に小包が届いた。その中身はXeroのデモテープ2本であり、片方には前ヴォーカリストの歌が入ったもの、もう一方はそのインストゥルメンタルだった。「君の思うように歌を入れてみてくれ」。ブルーは彼にそう伝えた。ベニントンは自分で考えたヴォーカルのパートをインストゥルメンタルトラックに重ねて録音し、そのテープをFedExでブルーに送り返した。
その2日後、ベニントンはロサンゼルスに飛び、ハリウッドにあるレンタルスペースでXero加入のオーディションを受けた。
「すごくビビってたよ」。サンタモニカのビーチ沿いの通りにあるレストランのブースでそう話すベニントンの隣では、サマンサが穏やかな表情を浮かべている。「多くのものを失う可能性があった。周囲の人の信用を失い、人間関係を損なうかもしれなかった」。幸いにも、彼はそのどちらも失わなかった。1996年に結婚したチェスターとサマンサは、レドンド・ビーチの一角に家を購入したばかりであり、2002年5月には第一子が誕生する予定だ。
「あのテープを受け取った時」。ベニントンはそう切り出した。「2人でこう話してた。『これだ、これこそ俺が求めてたバンドだ。
ベニントンの加入後、Xeroはバンド名をハイブリッド・セオリーに改めた。その後彼らは再び改名し、現在はリンキン・パークと名乗っている。
週に約10万枚のペースで売れ続ける『ハイブリッド・セオリー』
彼らが収めた成功は桁違いだ。2000年10月にWarner Bros.からリリースされたリンキン・パークのデビューアルバム『ハイブリッド・セオリー』は、これまでにアメリカ国内だけで600万枚、全世界で1100万枚を売り上げた。オルタナティブ・メタルとヒップホップ、そしてターンテーブリズムを融合させた12曲からなる同作は、ジェイ・Zやイン・シンク、ブリトニー・スピアーズらのアルバムを抑えて、2001年アメリカで最も売れたレコードとなった。同作は現在でも、週に約10万枚のペースで売れ続けている。

『ハイブリッド・セオリー』のアートワーク
ベニントンのほか、バンドの結成メンバーであるギタリストのブラッド・デルソン、ラッパーのマイク・シノダ、ドラマーのロブ・ボードン、DJのジョセフ・ハーン、そしてフェニックスことベーシストのデヴィッド・ファレルからなるリンキン・パークは、2月27日に開催されるグラミー賞においても、最優秀ロック・アルバム賞と最優秀新人賞を含む3部門でノミネートされている。初めての映像作品となったDVD『Frat Party at the Panhake Festival』は売上ランキングのトップ10に入り、昨年11月に発足したオフィシャルファンクラブの会員数は既に1万人を突破している。「毎週何かに驚かされてるよ」。
他のレコード会社の重役たちは悔しさに涙したに違いない。3年間、リンキン・パークはあらゆるメジャーレーベルから却下され、数多くのインディからも無視され続けた。1999年末にバンドと契約したWarner Bros.も、過去に彼らからのオファーを3度見送っていた。1997年に彼らのライブを初めて観た後にバンドの育成を買って出たブルーは、ロサンゼルスのクラブで行われたXeroのショーにA&Rの人間を大勢招いた時のことを覚えている。3曲目が始まる頃には、その全員が会場を後にしていたという。「フロアは無人だった」。『ハイブリッド・セオリー』のエグゼクティブ・プロデューサーであり、現在はWarner Bros.のA&Rのトップを務めるブルーはそう話す。「見事に空振りだったよ」。ベニントンがバンドに加入した1999年の時点で、バンドはレーベルの人間を招いたショーケースライブを42回行っていた。「ひたすら無視されてたんだよ」。彼はそう話す。
現在の状況からは想像もつかないような話だ。バンドは現在、ハリウッド北部にあるSound Stageで、サイプレス・ヒルとのジョイントツアー「Projekt: Revolution Tour」のリハーサルに励んでいる。ギャングスタのアティテュードとは無縁の轟音とシャウトを放つ彼らは、エレキ版エミネムというよりは初期のフェイス・ノー・モアを彷彿とさせる。大きなヘッドフォンを付けたまま演奏する、集中力の塊のようなデルソンはU2とザ・スミスからの影響を公言しつつも、「クローリング」や「ペイパーカット」ではハーモニクスを含んだパワーコードに終始する。ハーンは自身で組んだサンプル(彼は他のアーティストのレコードからはサンプリングしない)を収録したカスタムメイドのレコードをスクラッチし、デルソンのギターを背後から支えるかのようなアンビエントノイズを生み出す。「ラナウェイ」ではボードンが生み出すファンクのリズムに合わせ、ベニントンとシノダが互いの唇が触れそうな距離でシャウトとライムを交換しており、その体は痙攣を起こしたかのように小刻みに震えている。
マイクが作ったリストに書かれた「グラミーを獲ること」
「壁にぶち当たってばかりで、もう諦めようと何度も思った」。近くのPopeyesでチキンがメインのディナーをとりながら、現在24歳のデルソンはそう話す。「その度に、自分たちにこう言い聞かせた。『俺たちには特別な何かがある。誰かがそれに気付いてくれるまで進み続けよう』ってね。何かに本気で取り組み続ければ、それがいつか実現するっていうことを、俺たちは身をもって証明したんだ。
彼らの発言や行動からは、リンキン・パークというバンドが歩んできた道のりの長さがうかがえる。バンドのミュージックビデオの企画から監督までを手がける24歳の韓国系アメリカ人のハーンは、バンドの成功について慎重に言葉を選びながら話す。「これだけの成功を収められたことには感謝してる」。リハーサルの再開前に、壊れた椅子のバランスをとりながら彼はそう話す。「でもその真っ只中にいると、こんなもんなのかって思ってしまうんだ。高校を卒業した頃からずっと夢見てたことが現実になった時、人はこう思うんだよ。『よし、次だ』ってね」
現在25歳のファレルは、やや驚いた様子でハーンの方に向き直った。「お前が覚えてるかどうかわからないけど」。バンドのベーシストはそう切り出した。「3~4年前の俺たちは、世の中のバンドの大半と同じように『俺たちは何を成し遂げたいんだろう?』って自問してたんだぜ。各自が目標を紙に書き出すことを宿題にしたのを覚えてる。マイクが作ったリストの中には、『グラミーを獲ること』っていうのがあった。
フェニックス在住時に在籍していたバンドGrey Dazeで同じく苦労を経験していたベニントンは、男らしさと無邪気さを併せ持っている。『ハイブリッド・セオリー』のリリース前、彼はWarner Bros.でアメリカ国内のプロモーションを仕切っていたマイラ・シンプソンとある賭けをした。「彼女はストーン・テンプル・パイロッツのトリプルプラチナ認定ディスクを持ってた」。同バンドの大ファンだと公言しているベニントンはそう話す。「彼女がこう言ったんだ。『もしクリスマスまでにアルバムがゴールドディスクを記録したら、あれをあげるわ』。俺は彼女にこう言った。『悪いけどいただくよ』」。彼は笑ってそう話した。「もちろんジョークのつもりだった」
事実、『ハイブリッド・セオリー』は2000年のクリスマスの時点でゴールドディスクに認定されていた。「約束通り、STPの盾をもらったよ」。ベニントンは満面の笑みを浮かべてそう話す。彼はツアーバスの中で、いつもそれを抱えて眠っていたという。「誰にも触らせようとしなかった」
絵に描いたような下積み時代
現在25歳のシノダは、スターバックスの屋根付きパティオの席に座っている。日系アメリカ人2世(彼の父親は幼い頃、第二次大戦中にアメリカ国内の強制収容所にいたことがあるという)のラッパーである彼は、カリフォルニア州パサデナにあるArtCenter College of Designに通いながら、バンドがギグやリハーサルを重ねていた頃のことについて話す。
「9時から16時までは学校で講義を受けてた」。半ブロック先のVentura Freewayを走る車の音をバックに、シノダはこう話す。「16時から19時、あるいは19時から22時頃まではハリウッドでバンドの練習をしてた。それが終わったら両親と一緒に住んでた自宅に戻って課題をこなすんだけど、疲れすぎてていつも寝落ちしてたよ。毎日がその繰り返しだった」
「いろいろとキツかったよ」。シノダはそう続ける。「金曜にショーがある週は特にね。友達を誘うんだけど、大体こんな風に返されるんだ。『月曜まで絵を3つ仕上げないといけないんだ。ショーに行ったら全部終えられなくなる』」
リンキン・パークのメンバーは皆、それぞれ似たようなエピソードを持っている。学業との両立、アルバイト、そして未契約のバンドがこなさなくてはならない様々なことを全員が経験していた。現在23歳のボードンは当時、サンタモニカ大学に通いながらボーリング場でウェイターとして働いていた。同じくArtCenterに通っていたハーンは在学中にシノダと出会ったが、フリーランスのイラストレーターとしてやっていくために1年で学校を中退し、映画に登場するモンスターやロボットのデザインを手がけていた。デルソンはUCLAに通いながら(マス・コミュニケーションの学位を保持)、シノダのベッドルームで曲作りに励む一方で、Zomba Musicでインターンとして働いていた。「ブラッドはアーティストがレコード契約を得るためにすべきことの全般をこなしてた」。当時デルソンの上司だったジェフ・ブルーはそう話す。「メイシー・グレイのデモテープを業界人に送ったり、ショーケースのアレンジなんかを手伝ってもらってたよ」
リンキン・パークはニューメタル界屈指の高学歴バンドであるだけでなく(同じくUCLAに通っていたマサチューセッツ出身のファレルはデルソンのルームメイトであり、哲学の学位を取得している)、計画性の面でも極めて優れていた。制作面やビジネス面など、各メンバーにはそれぞれの専門分野に応じた役割が与えられていた。ハーンはこう語っている。「そういうことを管理できてるやつらはほとんどいない。俺たちはバンドをキャリアとして捉え、本気で取り組んでた」
メンバー全員が確固たる労働倫理を持っている
彼とシノダはバンドのヴィジュアル面全般を担っており、『ハイブリッド・セオリー』のカバーも彼らによるものだ。デルソンとボードンは財務面とマーケティングを担当した。ベニントンはTシャツ等のデザインを手がけたほか、シノダと半々で歌詞を書いた。ファレル(『ハイブリッド・セオリー』の制作前にバンドを脱退したが、同作のリリース前に復帰)はバンドのウェブサイトに掲載されるツアーレポートの更新を任されている。彼らが昨年だけで324公演(つまりほぼ毎日だ)こなしていることを考えると、これがいかに大変な作業かは明らかだ。
「こういう言い方が正しいのかどうかわからないけど、彼らはものすごく一緒に仕事がやりやすいバンドだ」。そう話すのは、2000年2月にバンドのマネージャーになったロブ・マクダーモットだ。「レコード契約にこぎつけるまでの苦労を知らないバンドは多い。でも彼らは違う。あのバンドは正真正銘の叩き上げなんだ」
「このバンドは民主主義を実践してるんだ。メンバー全員がバンドのあらゆることを把握してる」。小学3年生の頃に両親と一緒にエアロスミスのライブを観に行き、それがきっかけでドラムを叩き始めたボードンはそう話す(彼の母親のPattyは高校時代に、エアロスミスのドラマーのジョーイ・クレイマーと付き合っていた。彼はそのバンド名を彼女と一緒に考えたことを認めている)。彼は幼い頃から何かにつけてこだわるタイプだった。まだ幼児の頃、彼は部屋の片隅で3時間近くかけて靴紐を結ぼうとしていたという。「自分で結べるようになるまで、頑として動かなかったらしいよ」。彼は笑顔でそう話す。「確固たる労働倫理を持ってるっていうのは、俺たち全員の共通点なんだ」
高校時代からの友人同士であるデルソンとシノダが初めてXeroの曲を書いたのは1996年のことだ。当時のヴォーカリスト、マーク・ウェイクフィールドの代わりにベニントンが加入し、バンド名をハイブリッド・セオリーに改めた時点で、シノダ(ピアニストとしての素養を持つ)は既にプロツールズを使いこなしており、バンドが1999年に発表した自主制作EPをプロデュースしている。
ボードンはシノダのスキルを示す例として、『ハイブリッド・セオリー』に収録されている「ポインツ・オブ・オーソリティ」を挙げる。「ブラッドがあるリフを考えついたんだけど、マイクはそれを自分のコンピューターに入れて、細かく切り刻んだ上でアレンジし直したんだ」。
ボードンによると、そうして出来上がったリフは原型をほぼ留めていなかったという。「ブラッドは自分のパートをコンピューターから教わることになったってわけさ」。生まれ変わったリフを聴いたデルソンは、少しも気を害したりはしなかった。「マイクは天才さ。トレント・レズナー級のね」
「俺たちは音楽業界の慣習には興味がない」
レコード会社から無視され続けていたハイブリッド・セォリー時代、ヒップホップのアーティストの多くがそうであるように、彼らは主に口コミでファンベースを築いていった。自らがバンドのストリート・プロモーションチームとなり、インターネットと郵便の両方を用いてファンを増やしていった。ユーザーの関心を引く目的で他のバンドのウェブサイトにメッセージを投稿したり、デモ音源のMP3をアップロードするなどし、反応を示してくれた相手にはTシャツやステッカー、テープなどを無償で送付した。「俺が当時住んでたアパートの隣にあった郵便局のスタッフはキレてたよ」。ボードンはそう話す。「特別郵便用の箱は無料だったんだけど、俺がごっそりいただいてたからね。箱詰め作業はそのアパートでやってたから、リビングはいつも宅急便の営業所みたいだった」
地に足をつけたままでいるために、リンキン・パークは現在でも同じ行動原理を実践している(同じくWarner Bros.にいたハイブリッドというバンドからの申し立てを受け、彼らは再度名前を変えなくてはいけなかった)。ツアーに出るときはいつも、彼らはバスを2台出す。片方は作曲とレコーディングを目的としたモバイルスタジオであり、もう片方はメンバーが体を休めるため以外のスペースを排した簡素なものだ。車内での飲酒や喫煙は禁止であり、ゲストを連れ込むことも禁じられている。ベニントンがサマンサを同行させる場合は、他のメンバーたちはモバイルスタジオのバスにとどまった。
そういったポリシーはバンドの楽屋にも見られる。「仕事の場に余計なものを持ち込まないことにしてるんだ」。高校を卒業した頃はパーティ三昧だったが、過去5年間酒を断っているボードンはそう話す。「ツアーに出るバンドは毎晩パーティして酔っ払う、俺たちはそういう業界の慣習には興味がないんだ。毎日酔っ払ったまま出勤する人間なんていないだろ?」
「そういう価値観を他人に押しつけるつもりはないよ。サイプレス・ヒルと一緒にツアーに出てるわけだしね」。そう言って笑い声を上げたシノダは、アートスクール時代のことをこう振り返る。「俺がつるんでた連中はパーティよりも、絵を描いたりアートについて語り合ったりする方が好きだった。このバンドもそういうスタンスなんだよ。俺たちの練習風景や日頃の行動を見れば、それが伝わると思う。音楽はそれ以外の目的に使われるべきじゃない」
彼はこう続けた。「俺たちには音楽がすべてなんだ」
ホームレス生活を送りながら、夢の実現を信じていたチェスター
1998年、ジェフ・ブルーから電話があった日から約1年前のある日、フェニックスで活動していたバンドのリハーサルを終えて帰宅したばかりだったベニントンは、音楽を辞めるつもりだと妻に告げた。
「『もう音楽はたくさんだ!』って叫んでた」。サマンサはそう話す。「私は彼にこう言ったの。『あなたが音楽を辞めることは私が許さない。1時間ラジオに合わせて歌うなり、ギターを弾いてくれるっていう約束も果たしてもらってないもの』。さらにこう言ったわ。『私にはわかるの。きっといつか、ロサンゼルスから電話がかかってくる。あなたはその時に備えておかなきゃ』って」
「愛している人を支えたいと思うのは当然のことだから」。そう話す彼女の隣で、チェスターはその通りと言わんばかりに首を縦に降っている。「本気で取り組んでいることは、やっぱり楽しむべきだと思うもの」。チェスターがLAでオーディションを受けることになった時、彼女は成功を信じて疑わなかった。「必ずうまくいくと思った。実力を出し切れずに悔やむようなことになれば、後で拷問のような苦しみを味わうことを彼が自覚してるのを知ってたから」
リンキン・パークへの加入後、ベニントンは即座にスターダムを駆け上がったわけではない。サマンサがLAに移住する準備を進めている間、彼は友人や親戚の家を転々とする半ホームレス生活を送っていた。時折寝床にしていた自分のクルマは、どうしようもないオンボロだったという。「アクセル全開でも時速55キロ位しか出なかった」。彼はそう話す。「ライトが2つ壊れてたけど、修理する金がなかった」。『ハイブリッド・セオリー』のレコーディング中、スタジオに泊まれない場合は車中泊していたベニントンは、朝になるとスタジオ内のソファで横になり、メンバーたちがやってくるまで体を休めていた。
「しんどかったよ」。ベニントンは当時をそう振り返る。「他のメンバーたちは気心が知れた仲間同士だったけど、俺は正気を保つことで精一杯だった。気が狂いそうになっても、取り乱したところを彼らの前で見せるわけにはいかない。いつも何かしらに文句をつける典型的なリードシンガー気質の男、そんな風に思われたくなかったんだ」
没頭するベニントンの姿に、メンバーたちは全く逆の印象を抱いていた。「俺たちみんな何かしらの犠牲を払っていたけど、チェスターは特別だった」。デルソンはそう話す。「いろんなものを背負ってたあいつは、誰よりもやる気に満ちてた。『俺たちならもっとやれるはずだ』そう口にしたこともあった」
チェスターを襲う幼少期のトラウマと依存症の問題
4人兄弟の末っ子であるベニントンは、昔からそんな風だったわけではない。「俺は両極端な子供だった」。彼はそう話す。「フラフラしてたけど、要領は悪くなかった」。彼が11歳の頃、看護婦だった母親と、30年にわたってフェニックス警察に勤務していた父親が離婚した。「長い間、父と2人で暮らしてた」。そう話すベニントンの父親は、小児性愛犯罪の捜査に長年従事していた。「毎日毎日クソみたいな事件を扱ってた父は多くのストレスを抱えていて、それを家で発散させることが多かった。俺は腫れ物に触るような緊張感に晒されてた」
初期のインタビューで、ベニントンは過去に経験した性的虐待とドラッグ依存について語っている。彼がそれを明かしたのは、歌詞の正当性を主張するためだった。「『あなたの曲には鬱や恐怖、パラノイア等が頻繁に登場しますが、あれは空想ですか?』なんて言われる度に、そうじゃないって答えてた」
その経験について改めて訊くと、ベニントンは慎重ながらも率直に、凌辱的な体験について語った。「家族の誰かから暴行を受けたことはない」。彼はそう明言する。「俺を辱めていたのは周囲の別の人間たちだ。崩壊した家庭で育った俺には、それが間違ってるってことがわからなかった」。その行為が許されることではないと彼が気づいたのは10代前半のことであり、その時点で彼は5年近くに渡って性的暴行を受け続けていた。
「ハイになっている間は、自分に自信を持つことができた」。彼はそう続ける。「幻覚剤かアルコールが体の中を回っている間だけは、自分を取り囲む環境に対して優位でいられるように感じていたんだ」。1996年にサマンサと出会った時点で、彼はコカインとメタンフェタミンを断つことに成功していた。しかし昨年秋に行われたリンキン・パークのツアー中に、アルコールへの依存癖が再燃した。「俺は誘惑に負けて、ロックンロールにありがちなクリシェに陥ってしまった」。彼はそう話す。他のメンバーたちは彼がストレスを抱えていることに気づき、ベニントンはモバイルスタジオのバスに1人で寝泊まりするようになった。
「自分のことを哀れむっていう、典型的なパターンさ」。彼はそう話す。「『クローリング』はそういう経験から生まれた曲だ。自分自身に耐えられないっていうね。でもあの曲の真のテーマは、自分の行動に対して責任を持つってことなんだ。曲中に『お前』っていう言葉は一度も登場しない。こんな風に感じる原因はすべて自分自身にある、そういうことを言わんとしてる。俺を暗闇に引きずり込もうとしているのは俺自身なんだ」。今年の1月2日、ベニントンは自らの意思でアルコールを断つことを決意した。現在の彼は完全にクリーンだ。
筆者と会ったサンタモニカのレストランで、チェスターとサマンサは彼の禁酒が今も続いていることを讃え、ミネラルウォーターで乾杯した。「次のレコードじゃ不満のはけ口が見つからずに苦労しそうだよ」。彼はそう話す。「今の俺は満ち足りてるからね」
「立ち止まるのはアルバムを3枚出してからだと決めてる」
リハーサルを終えると、「Projekt: Revolution Tour」の初日の舞台であるコロラド州コロラド・スプリングに向けて出発するバスに機材を積み込むクルーのそばで、ロブ・マクダーモットは年末までのスケジュールを確認していた。『ハイブリッド・セオリー』のリリースツアーの残りを終えると、春先には作曲を目的とした充電期間が設けられており、夏にはレコーディングを開始することになっている。「今年アルバムを出すべきかどうかっていうのは難しいところだ」。彼はそう話す。「自分たちだけで決められることじゃないからね。上の人間から『物足りない』って言われたら、制作を続けるしかない。でも『80曲もあるじゃないか、選曲してアルバムにしろ』ってことなら、対処は簡単だからね」
彼らが立ち止まることはない。筆者とのインタビューの前に、ベニントンは映画『クイーン・オブ・ザ・ヴァンパイア』のサントラに収録されるKORNのジョナサン・デイヴィスとのデュエット曲「システム」のオーバーダブに臨んでいた。今年後半にはマリリン・マンソンやオージーのジェイ・ゴードン等が参加した、『ハイブリッド・セオリー』のリミックス盤がリリースされることになっている。シノダは最近、ターンテーブリスト集団エクス・キューショナーズの曲「イッツ・ゴーイング・ダウン」をプロデュースした。ハーンは同曲をシノダと共同作曲するとともに、そのミュージックビデオの監督を務めている。
「俺たちに休暇は必要ない」。ベニントンはそう主張する。「立ち止まるのはアルバムを3枚出してからだと決めてるんだ。つまり、まだ始まったばかりだってことさ」。それでも彼は、あまりに急な状況の変化に自分が対応しきれずにいると感じている。「少し苛立ってるよ」。筆者が促すと、彼はそう認めた。「あのレコードは年間最多売り上げを記録し、グラミーにもノミネートされた。あれがデビューアルバムじゃなきゃ良かったのにって思うよ。俺たちが今後作るレコードは全部、あのアルバムと比較されることになるから」
「それでも、俺たちの成功は当然だと思ってる」。ムードを一転させ、彼は興奮した様子でそう話す。「今の状況を、俺たちは自らの手で築き上げた。何もかもをね。一音一音に至るまで自分たちで考え、練習を重ね、納得のいくパフォーマンスをした。アートワークだって、隅から隅まで自分たちでデザインした。このバンドが成功しないって言ったやつらに、俺たちはいつもこう返してた。『お前は間違ってる』ってね」
「今の状況は、ひとえに俺たちの努力の成果なんだ。俺たちはショーの後も2時間くらい会場に残って、ファンと話したりサインに応じたりしてる。ファンからのどんな要望にも応じるようにしてるつもりだ。ショーに来てくれる人たちの期待に応えるために、俺たちはあらゆることをやってる」。自分の両足が今も地面についているかどうかを確認するかのように、ベニントンは足元に目をやると、わずかな沈黙を挟んで笑ってこう言った。
「メンバー全員、俺と同じ考えのはずさ」

from Rolling Stone US
<INFORMATION>

『ハイブリッド・セオリー:20周年記念盤』
リンキン・パーク
ワーナーミュージック
発売中
https://Linkinparkjp.lnk.to/HT20Me
※『ハイブリッド・セオリー:20周年記念盤』
スーパー・デラックス版ボックス・セット
・CD5枚(『ハイブリッド・セオリー』、『リアニメーション』、アルバム当時の楽曲12曲を収録したBサイド・レアリティーズ、リンキン・パーク・アンダーグラウンド(LPU)ファンクラブ限定のレア音源18曲、「シー・クドゥント」を含む未発表楽曲12曲を収録)
・DVD3枚(『フラット・パーティー』、プロジェクト・レボリューション2002(リンキン・パーク主催フェス)の未公開ライブ映像、音楽フェスティバル(The Fillmore 2001、Rock Am Ring 2001)のフルライブ映像他)
・レコード3枚(『ハイブリッド・セオリー』、『リアニメーション』、『ハイブリッド・セオリーEP』)
・カセットテープ(2曲収録、当時のストリート・チーム・サンプラーのレプリカ)
・未公開の写真など貴重な資料を集めた豪華なイラスト付きブック(80ページ)
・ツアーパスのレプリカ
・チェスター・ベニントンの大判ポスター
・マイク・シノダ、ジョー・ハーンとフランク・マドックス(オリジナル・アルバム・ジャケット、今回の20周年記念盤ジャケットのデザインを手掛けたアート・ディレクター)の3人が新たに書き下ろしたアルバム・ジャケットのリトグラフ
購入:ワーナーミュージックダイレクト
http://store.wmg.jp/shop/linkin_park