心の病に苦しむミュージシャンやインフルエンサーが急増するなか、海外では新たな動きが見え始めている。この問題について考えるのは、これからの社会における文化の役割を考えることでもある。
世界の最前線に触れてきた編集者、若林恵(黒鳥社)による日本の音楽/エンタメ業界が真っ先に向き合うべき話。

※本記事は2020年9月25日発売の「Rolling Stone Japan vol.12」の特集「音楽の未来」に掲載されたものです。

メンタルヘルスは「重大な政治課題」

ちょうどつい数日前に、某人気俳優さんが大麻所持で逮捕されたというニュースが報じられまして、海外の事例などを引き合いにしながら、大麻の合法化や、薬物の脱犯罪化といった、大麻をめぐる世界的な「現在地」が語られています。大麻はアメリカを中心にすでに大きなビジネスになっていますし、これまでのように「大麻をやっている=悪人」とみなす社会的合意はすでに崩れていますし、今後日本でも徐々に崩れていくことになるのかもしれません。

そうしたなか、大麻が合法化されているアメリカのいくつかの州では、大麻の販売所(ディスペンサリー)が、コロナウイルスによるロックダウン中も「エッセンシャル」な業態とみなされてオープンを許可されていたことは非常に注目すべきことではないかと思っています。というのも、これは、メンタルヘルスの問題をめぐる世界的な危機感とも関わることだと思うからです。

日本でも折に触れて鬱をはじめとするメンタルヘルスの問題は、報道などでも取り上げられていますし、それが重大な社会的イシューであることが指摘されてはいますが、海外と比べると、やはり後景化させられている感は否めないように思います。国家レベルでメンタルヘルスをめぐる問題の重大性が語られることは、コロナ禍においても稀でした。ところが海外の行政府、例えば英国の保健省(NHS)は、コロナウイルスによるロックダウン/ステイホームといった施策が、ただでさえ重要課題とみなされてきた問題をさらに悪化させる懸念があるとの危機感から、ロックダウンに入った時点から、感染そのものに対する注意喚起と同じくらいの熱心さで、メンタルヘルスのケアに気を配るよう、国民に再三呼びかけていました。

コロナウイルスで世の中に周知された、わたしたちの社会の問題は、経済的ダメージは真っ先に弱者を直撃するということで、そうした経済的ダメージは、さまざまなやり方で、すでにして弱い立場の人びとを、さらに弱い立場へと追い込むことになります。そうした負のスパイラルは、メンタルへの作用も少なくないでしょうから、それによってさらに負のスパイラルに引き込まれることにもなります。

メンタルヘルス問題から考える、産業から解き放たれた音楽の役割

"周囲の人を救うために今できることは? 世界規模で増えるメンタルヘルスへのアクション"より(Photo:Pixabay)

メンタルヘルスという問題は、経済の問題、もっといえば格差の問題と深く関わりあう根深い問題だと、最近欧米のみならずアフリカなどでもみなされてきており、加えて、国民のメンタルヘルスの不安定さが、テロリストや原理主義者などが活動する隙間を与えているとも考えられていますので、単に公衆衛生的な観点からだけでなく、経済的な観点、政治的な観点、さらには社会安全や治安という観点からも、それらに横断的にまたがって横たわる重大な政治課題とみなされています。


英国政府が孤独担当大臣というポストを設け、この問題を国のトップレベルで取り組むというメッセージを出したのが2018年のことですが、それを受けてドイツなども同様のポストの設置を検討していると言われています。

日本でもあるとき、ひきこもりの人口が100万人にのぼると報道され、非常に大きなショックを与えましたが、日本においても国民のメンタルヘルスをめぐる課題は、目に見えて大きくなっているはずですし、それが「特殊なひとの身にだけふりかかる特殊な問題」というわけではないことは、日常的に感じられていることなのではないかと思います。さまざまな理由があるとはいえ、身体に不調をきたしたり、仕事をしたり、外出したりすることができなくなるほどまでに、メンタルのバランスを崩すことは、おそらく誰にでも起こりうることですし、そうした現実に即したかたちで、企業のありかたから社会全体のありかたまで変えていかねばならないという機運は、特にコロナ禍を契機に前景化したといえます。

自己責任に頼りすぎなビジネス構造

ここ日本でも、コロナ期間中に、木村花さんと三浦春馬さんのおふたりの自殺が社会に大きな衝撃を与えました。木村花さんの事件においては、特にソーシャルメディア上の誹謗中傷が自殺の直接の引き金となったことが明かされ、ソーシャルメディアにおける罵詈雑言を規制すべき、そうした行動に出た者を処罰すべきといった議論がかなり表面化しました。もちろん、ソーシャルメディアにおけるそうした規制は重要だと思いますし、悪質な誹謗中傷にあった方々が、犯人を特定し、裁判を通して悪質な投稿の犯罪性を明らかにしていくことも極めて重要だと思いますが、アメリカなどでここ数年盛んにソーシャルメディアプラットホームの規制が叫ばれているにもかかわらず、改善が遅々として進んでいない状況などを見るにつけ、そうした制度改革にいったいどれだけの時間がかかるのか、と思わざるを得ないところもあります。まして、国民のソーシャルメディアリテラシーの向上が急務である、といった言説は、それ自体を否定するものではありませんが、リテラシー教育を全国民的にやったとして、その効果は果たしていつ出るのか途方もない話のようにも聞こえます。いったいどれだけの犠牲者が出続けたら、そうしたリテラシーが確立するのか。そう感じずにはいられません。

ただでさえ、音楽家や俳優、タレントと呼ばれるような職業にあるひとは、会社員のように安定的な収入のないなかで、自分自身の名前と才覚を商品として極めて競争的な経済環境のなかに置かれ、そしてそうであるがゆえに、つねに世間の好奇の目にさらされ、まっさきに誹謗中傷のターゲットにされるわけです。会社員として暮らしていたとしても精神的な負荷が高い世の中になっているわけですから、その負荷の大きさは察してあまりあるべきだと思います。

もちろん、それも自分で選んだ道だろ、とその世界に飛びこんだ個人の自己責任を問うことは可能ですし、そう非難することは簡単でもあるのですが、そうした言説から必ず抜け落ちるのは、そうした人たちの名前や才覚を商品としてビジネスをしている人たちがいるということを不問に付してしまっている点ではないかと思います。


木村花さんにもたらされた誹謗中傷は、わたしの知る限り『テラスハウス』という番組の演出が発端となっていたはずですが、視聴者のデータをみながら制作陣に圧力をかけ、数字獲得のために演出をエスカレートさせていったという経緯が本当であるならば、まず最初にその責任を負うべきは制作責任を負っているNetflixであったはずですが、この事件については、謝罪はおろか、コメントすら出していなかったように思います。

Netflixのような会社は、出演者の自殺によってひとつ番組を打ち切って失ったところで痛くも痒くもないのかもしれませんが、とはいえ健全なビジネスのあり方を考えれば、誰も得しない結果になっていることは否めません。プロダクションやマネージメントオフィスも損失をこうむることになっているわけです。これまでの芸能界的な慣習に則れば、そうした犠牲者の存在は、想定内のカジュアリティ(損耗人員)であるとみなすべきものなのかもしれませんが、自分たちのメシの種をそうやって個人の自己責任にすべてを覆いかぶせて見殺しにする上でしか成り立たない業界なのだとすれば、それが果たして健全なビジネスと呼べるのかは疑問ですよね。加えて、そんな業界にどれほどの持続可能性があるのかもよくよく考慮されるべきではないかと思ったりもします。

「live fast, die young」は過去のもの

とはいえ、これはなにも日本だけの問題ではありません。海外の音楽業界でも自殺者が相次いでいまして、世界のトップDJだったアヴィーチーが若くして自ら命を絶ったのを筆頭に、サウンドガーデンのクリス・コーネルやザ・プロディジーのキース・フリント、シンガーソングライターのニール・カサールなど枚挙にいとまがありません。これに加えてヒップホップの世界ではラッパーなどが、必ずしも自殺ばかりではないとはいえ、若くして亡くなるケースも相次いでいますので、こうした状況を受けて、ようやく音楽業界全体が、アーティストのメンタルヘルスのケアという観点から、状況の改善に取り組みはじめるようになってきています。

メンタルヘルス問題から考える、産業から解き放たれた音楽の役割

"「セックス・ドラッグ・R&R」は過去のもの 音楽業界が取り組むメンタルヘルスケア"より(Photographs in Illustration by GL Askew II; Amy Sussman/Invision/AP; Getty Images)

例えば、音楽イベント最大手のLive Nationは、24時間365日、ローディーやエンジニアのようなツアー関係者がセラピストとオンラインでコンタクトを取ることで、必要な時にサポートを受けられるプラットフォーム「Tour Support」を支援したり、ヘヴィメタルバンドのゴッドスマックのヴォーカルが、アーティストへの啓蒙活動やメンタルヘルスの社会的認知を上げる活動を行う非営利団体「The Scars Foundation」を立ち上げたり、音楽フェスティバルやイベントを通じて、メンタルヘルスの認知の向上、コミュニティビルディングを目指す「Sound Mind」という非営利団体ができていたりします。

こうした取り組みが加速した背景には、スウェーデンのRecord Unionが2019年に発表した『The 73% Report』という調査報告書がありまして、これによるとインディペンデント音楽家のうち実に73%が鬱や不安障害に悩まされている/悩まされたことがあるそうなんです。アメリカ人の平均でだいたい20%と言われていますから、この数字は相当衝撃的なものだと思います。例えばこれが、銀行員のうち73%が不安障害、鬱に苛まれている、ということであったり、ある企業の特定職種の73%がそうであったとしたら相当異常なことのように聞こえるかとも思うのですが、クリエイティブに関わる世界は、「狂ってるくらいがちょうどいい」といった社会的なコンセンサスが根強く残っているように思える空間ではありますので、そのこと自体が顕在化もせず、かつ、問題視されることも少なかったのだと思われます。
音楽を楽しむ側も、世間の常識やコードを、破天荒にぶち破っていくところを愛したり、そこに希望を見出したりしてきたところもありますので、一概に、そうした人たちの世間一般からはみ出た部分を、ひとしなみへと平準化することがよいのか、という疑問もありうるとは思うのですが、とはいえ、それもただのひとつのステレオタイプ、しかもどう考えても古い神話である可能性は高いわけですから、すべてのアーティストが、そこに自らをあてはめなくてはならないというものでもないのだろうと思います。

また、世間一般がもつそうしたステレオタイプをアーティスト自身が不必要なまでに内面化してしまうことで、本当はもっと健康なやりかたで音楽活動をやりたいと考えているような人までもが、外部からの助けが必要であるにもかかわらず、自ら声をあげることにやましさを覚えたりしてしまっているのだとすれば、それもまた望ましくはない状況でしょう。

メンタルヘルス問題から考える、産業から解き放たれた音楽の役割


近年ブルース・スプリングスティーンやビリー・アイリッシュといったトップミュージシャンがメンタルヘルスの問題についてオープンに語り、自分がいかに大変だったか、それをどうやって乗り越えたかを発信しているのをよくみかけますが、その背景にあるのは、ミュージシャン自身が内面化してしまっているかもしれない、「音楽家かくあるべし」というステレオタイプは反故にしていいんだというメッセージなんだろうと思います。メンタルの浮き沈みをオープンにしていくことで、多くのミュージシャンに限らずリスナーにも「わたしひとりが苦しんでいるんじゃないんだ」ということを知ってもらいたいということなんだと思うんです。

デミ・ロヴァートやセレーナ・ゴメス、ジャスティン・ビーバーなども、自分の辛かった体験などを積極的に表明していますが、それはそうした体験が特殊なことではないし恥ずかしいことでも、弱さのあらわれでもないということを知らしめようとしているように見えます。

メンタルヘルス問題から考える、産業から解き放たれた音楽の役割

"ビリー・アイリッシュ、メンタルヘルスを語る「助けが必要だからって、弱いわけじゃない」"より

ミュージシャンにおけるメンタルヘルスの課題は言ってみれば「#MeToo」運動とも相似をなすところもありそうです。ハイムが「女性のバンドってだけでギャラが男性バンドの10分の1」であるような状況に対して声をあげたり、ケシャがプロデューサーから性暴力を受けていたといった問題と闘っているのも、業界構造の中での”弱者”として搾取されてきたことに対する抗議と健全化をめぐる主張だったわけですが、そうやって考えてみれば、いい意味でも悪い意味でも「あいつらは特殊だから」とミュージシャンをマージナライズすることで娯楽の対象として受け入れてきた社会と、それに立脚しながら、そうした神話を増幅することで拡大してきたエンタメ産業によって、言葉は悪いですが、ミュージシャンたちが搾取されてきたという構図をメンタルヘルスをめぐるイシューは明らかにしたということなのかもしれません。せんじ詰めると、これは自分の「生き方」「働き方」を誰かに決められてしまうことに対する反発だと言えそうで、要は「自己決定」できるような弾力的な社会システムに変えていこうよ、という話なのだと思います。

ギグエコノミー化した社会を生きるために

これは必ずしもアーティストだけの問題ではありません。音楽家をそうやって業界全体、あるいはマネージメント企業などが会社として守っていくといったときに、ミュージシャンたちと関わるスタッフのメンタルも重要なイシューとなります。例えば海外では、まずマネージャーが自分自身を守れないと、アーティストを守ることもできないという観点から、『Guide To Anxiety Relief & Self Isolation』(不安の緩和と自己隔離のためのガイド)というマネージャーのためのティップスを集めたレポートなどが発表されています。ほかにも先に紹介した「Tour Support」など、こうしたシステムですべてが解決するとは思いませんが、少なくとも、大企業を筆頭に、これが業界全体に関わる重大な問題であるというメッセージにはなっているかと思います。
こうした取り組みがどれほどの効果を生んでいるかは、機会があったら聞いてみたいところです。

上記のレポートには次のステップとしてミュージシャンがバランスを崩した場合、実際どう対応するのか、といった具体的な手立ても記載されています。大企業であれば、メンタルヘルスの専門家を雇うのは今後必須になってくるでしょうし、スポーツの世界では、NBAにはメンタルヘルスディレクターという役職が置かれていたりもします。

また、そこまで専門的な知識ではなくても、音楽業界に近い位置で関わっている人たちは、基本的なリテラシーとしてこうしたレポートの内容や実践的な手立てなどを多少なりとも理解しておく必要はありそうで、塞ぎ込んでいる相手に「がんばれと言わないほうがいい」とか「意見を言うのではなくただ話を聞こう」とか、そうした基本的なプロトコルを、果たしてどこまで実践できるかはおいたとしても、まずは知識としてマニュアル的にインストールしておくことも必要なのではないかと思います。社会的なリテラシーというのであれば、メンタルヘルスをめぐるリテラシーは、今後の社会や企業において、必須の事項になっていく必要があるように思います。

メンタルヘルス問題から考える、産業から解き放たれた音楽の役割

『Guide To Anxiety Relief & Self Isolation』より引用。心を落ち着かせるための呼吸法、ミュージシャンが穏やかに隔離生活を過ごすための心得など、さまざまなティップスが掲載されている。

というのも、メンタルヘルスの問題の難しさは、何がトリガーになってバランスを崩し、何をトリガーにしてそれが回復するのかが、ひとりひとりによって違うとところで、「孤独」や「メンタルヘルス」が大きな行政課題になっているとは言うものの、「じゃあ、ワクチンを投与すればいい」といった一元的なソリューションを適用することができないという点にあります。

カニエ・ウェストについて妻のキム・カーダシアンが「これは双極性障害なので、家族も辛いんです」といった内容の投稿をしました。彼女がああやってメッセージを出したことで、「カニエ=変人」という社会の認識が、従来の嘲笑的なものからは少し変わったようにも思いますが、とはいえカニエを「病人」とみなして隔離や投薬の対象とすることで社会の外においてしまったらいいのかという議論もありますし、メンタルヘルスは「外科的な処置」ではどうにもならない部分があるわけですから、これまでの社会制度の枠組みだけでは対応仕切れない難しさがあるはずです。つまり、「病気なんだから病院に行きなさい」という解決策だけでいいのか、それだけで本当に効果があるのかということですね。近年「ケア」という言葉がさまざまな領域で語られるようになっていますが、そこにおいては、病院やケアセンターといった施設と同じくらい、家族や友人、同僚、隣人の関与が重要な要素になっています。


「メンタルヘルスは社会全体の問題である」という言い方が欧米でされるのは、それが「行政に任せとけばいい」とか「お金を出せば解決法を買える」といった問題ではなく、それこそ、官・民に加えて、身近な市民も含めてみんなで取り組まなくならない課題だからです。

メンタルヘルス問題から考える、産業から解き放たれた音楽の役割


また、音楽家のメンタルヘルスが、なぜそこまで重要な課題として考えられるかといえば、音楽家のような経済環境/労働環境が、もはや音楽家やクリエイター、アーティストと呼ばれる人たちの固有の条件ではなくなり、今後多くのワーカーが、似たような立場に置かれることになる可能性があるからです。

世間ではジョブ型だ、ギグエコノミーだと新しい働き方が盛んに喧伝され、それを「働き方改革」のような制度が、やれ「副業解禁」だ「パラレルキャリア」だと煽っているわけですが、ギグエコノミーの「ギグ」という言葉は、もともと音楽業界で広く使われてきた言葉で、それは「各地を転々としながらライブをこなし、支払いはすべて取っ払い」というビジネススタイルを指していました。

これまでのサラリーマンが、雇用を離れ、どんどんフリーランス化していくことは、もちろん自由度も増えて楽しさもあるとは思いますが、その一方で、別の負荷も背負うことになります。先に紹介した『The 73% Report』によれば、音楽家が負の感情に陥る主な要因として「失敗への恐怖」「経済的な不安定さ」「成功へのプレッシャー」「他人からの評価」といったことが挙げられていますが、ギグエコノミー化した社会では、こうした不安要因をすべてのワーカーが、会社の看板がないところで、自分の名前と才覚とで背負わなくてはいけないことになるのだとすれば、それこそ73%がメンタルバランスを崩すような事態になったとしてもおかしくはないはずです。

消費から社会インフラへ

このように、メンタルヘルスが今後ますます国民的な課題になっていくとして、それがこれまでのような一元的な「配給モデル」の処方ではいかんともしがたい問題であることを考慮すると、そうした社会を癒し、ケアしていくためのひとつの契機、重要な社会インフラとして、「文化」というものに改めてスポットがあたることにもなります。文化というものを単に消費経済を回すための契機とするのではなく、メンタルヘルスといった論点も含めた、より広い視点から文化というものを社会のなかに再実装しようと、そういう話が出てくることとなります。

メンタルヘルス問題から考える、産業から解き放たれた音楽の役割


イギリスのアーツ・カウンシルが2014年に出した『The value of arts and culture to people and society』は、まさにアートとカルチャーの価値を再定義しようというレポートです。レポートはまず、それらの価値を、「経済効果」という観点から取り上げています。コロナによって大打撃を受けてしまっていますが、「観光立国」を掲げている日本においても、ここは重要な論点です。ちなみにイギリスで言うと、インバウンド観光客のもたらす経済のうち42%が、ミュージカルや美術館など、アート/カルチャーの分野に落ちているといいます。

こうした消費経済における効果とは別に、カルチャーは、世界中から優秀な働き手を惹きつける上で非常に重要なアセットだと考えられています。
これからの都市は新しいアイデアを絶えず出し続けなければならないイノベーション・ドリブンな経済になっていくというのが本当であれば、都市や国の将来を考えるうえで優秀な人材の確保は、都市が国際間競争をサバイバルする上で重要な生命線となります。イノベイティブな人材を集めたいのなら、まずはイノベーションというもの、新しいもの、クリエイティビティに対する寛容な環境が必要ですが、それを測る尺度があるとするなら文化の多様性や寛容性は、ひとつの重要な尺度となるはずです。その意味では、今後は都市における文化の成熟度や多様性は、経済と完全に直結するアセットとして考えられていきます。

続いて、これからの社会における文化の役割として、「健康」や「ウェルビーイング」が論点として挙げられています。社会全体がメンタルを病んでしまうような状況のなかにあって、音楽や文化活動がポジティブな効果を果たしているというリサーチ結果が、ここでは紹介されています。「過去12カ月間に文化的な場所やイベントに参加したことがある人は、そうでない人に比べて、健康状態が良い可能性が高い」と報告されています。日本を見れば端的にわかりますが、国民の高齢化がもたらす国家財政への圧迫は相当シビアなことになっていきますので、メンタルヘルス同様、できるだけ多くの国民を身体的にも健康な状態に保つことは、非常に大きな課題となっていきます。そうしたなか「未病」という観点を入れたかたちで医療政策も組み直されていくことになりますが、その流れのなかで、自転車や歩行者優先の都市再編やスポーツ振興、文化振興といった施策も考慮されていくことになります。

これは同時に、先ほどもチラと触れた社会の安全を保つこと、あるいはセキュリティの問題とも通じ合っています。コロナウイルスがそれを明らかにしましたが、これからの都市は、周囲に壁を作って異物を遮断するというやり方でリスク管理をすることが非常に困難です。人も物もお金も情報も、グローバルにネットワーク化されてしまっているため、壁の中に閉じこもるような「ロックダウン」は対症的な療法としてはもちろん有用ですが、それをデフォルトの環境として、長い期間持続することは困難です。

先ほどお話したように優秀なワーカーが集う環境を求めるのであれば、当然、都市や国家はできるだけオープンな状態にしておくことが望ましいわけですが、そうした環境であればあるほど脆弱性が高まるというトレードオフが起こります。一番極端な例では、例えばテロリストが流入してくるようなことが起きかねないわけです。ところが、いま厄介なのは、いくらそうした人たちを水際で防いでも意味がないところで、というのも、テロ組織や原理主義グループなどが最も熱心にリクルーティングを行っているのはソーシャルメディアプラットフォームだと言われていまして、ここでの問題は昨日まで気のいい隣人だった人物が、ふと気づくと危険思想に染まっているということが頻々に起きるということだったりします。自主隔離中にYouTubeばかり観ていたせいで、知り合いが知らぬ間にだいぶ右傾化/左傾化していたといったことは日本でも起きていることのように思います。その延長線として、昨日まで普通に生活していた人が突然テロリストになる。あるいはテロまで行かずとも、つい数週間前まで普通に生活していた人が突然事件を起こすというようなことも増えていくことが想定されます。

こうした事態は、ソーシャルメディアプラットフォームの規制といった手立てだけでは解決しない、非常に複雑な問題でして、一元的なソリューションが存在しえないという意味で、メンタルヘルスにもつながる困難な課題です。そうしたなか、いったいどうやって社会の安全を担保しうるのかといえば、これはもう、ありきたりな話でしかないのですが「コミュニティの再興」にフォーカスを当てていくしかない、ということになったりします。近所づきあいや、趣味のつながりといったものを、どうやって生活の中にできるだけ多く組み込んでいくか、ということを市民ひとりひとりのレベル、民間セクターであれば企業組織というレベル、行政であれば政策レベルにおいて考えていくことが重要になります。「市民のエンゲージメント」といった言葉が最近よく聞かれるようになっていると思いますが、マルチステークホルダーによる参加型の社会づくりといったキーワードは、単に「みんなで参加するっていいよね」といった価値観の話ではなく、むしろこれからの社会を運営していく上で必然的な要請として出てきているものであって、そっちに移行しないと社会が作動しなくなるという危機感が、これまでの価値観の更新を促していると考えるべきなのではないかと思います。

コミュニティで生まれる、音楽の新たな役割

こうした論点を踏まえていくと、文化、あるいは音楽というものは、これまで完全に「民間セクター」の一部として消費経済に資するものとしてしか存在しえなくなっていた状況を脱して、ある意味「ソーシャルセクター」に近いところで新たな役割を担っていくことになるのかもしれません。

昨年、ロンドンを訪ねてライブベニューや音楽レーベルなど、ユニークな活動をしている組織や施設を視察してきたのですが、近年のUKジャズを語るうえで欠かせない「トゥモローズ・ウォリアーズ」というジャズの教育機関などは、彼らは今でこそ人気アーティストを輩出して経済効果を生んでいますが、もともとは非営利の草の根運動で、学校もつまらないし行く場所もないストリートの子ども達に「楽器でも練習する?」と提案する、いわばはみ出し者の受け皿としてスタートしています。創設者のゲイリー・クロスビーはコートニー・パインとの共演で知られるベーシストですが、同地で暮らすアフリカ系やカリブ系の黒人たち、それから女性に音楽教育の場を与えるために立ち上げたのだと言います。

「トゥモローズ・ウォリアーズ」を紹介するドキュメンタリー映像。創設者のゲイリー・クロスビーやヌバイア・ガルシアなど卒業生も登場。

イギリスに限らず、このようなかたちで音楽家が何らかのNPOに参加する事例は海外では少なくなく、マグネティック・フィールズのサム・ダヴォルはニューヨークの公共空間でのアートや教育のプログラムを展開する「Street Lab」というNPOをやっていますし、アニ・ディフランコもバッファローで音楽教育の活動を行っています。テイラー・マクファーリンは盲学校の子どもたちに音楽を教えていますし、デトロイト・テクノの第一人者ことアンダーグラウンド・レジスタンスは、現地のナイトライフを盛り上げる活動を通じて、ベルリンのClubcommission(クラブ系業界団体)のような役割を果たしているそうです。あるいはシカゴでは、ジャミーラ・ウッズがNPOで文学や詩を教えていて、セン・モリモトのバックコーラスも務めるKAINAもそこに参加していたと聞いています。

文化セクターを中心とした、そのようなソーシャルアクティビズムは、ブラック・ライヴズ・マターの文脈なども踏まえると、今後より一層重要になってくるように思います。ウィントン・マルサリスやジョン・バティステも、ジャズミュージシャンの肩書きも持ちつつ、エデュケーターという肩書きもあり、最近はむしろそっちを前面に出している印象さえあります。

こうした話を日本で「音楽の先生をやる」といった言い方で置き換えてしまうと少し文脈が逸れてしまう感じもするのですが、音楽家のみならずベニューやレーベルも、消費経済の視点から離れたところで自分たちの役割を再発見していく必要があるのかもしれません。コロナ禍の対策として配信ライブなどをがんばるのももちろん大切なことですが、ベニューが根差している街やコミュニティに対して何を還元していけるのかを考えて、そこに音楽家を取り込んでいくようなことも考慮していく必要もあるのかもしれません。

分断の時代に、なぜ音楽が重要なのか

いま、音楽業界側から聞こえてくる「音楽を止めるな」というような言葉が、ただ「消費サイクルを止めるな」という話だけなのだとしたら、そこでやっている限りどんどん自分たちの首が絞まっていくだけではないかと感じるところもあります。ある知人が、文化は「文化セクター」という独立したセクターであって、それを一元的に、いわゆる「民間=ビジネスセクター」として認識しているのはおかしいと言っていたのですが、自分もその通りだと感じます。

お客さんの側も、いまの構造の中にある限り音楽家を「消費財」としか捉えることができず、その商品価値を支える根拠を失いつつあるいま、「そもそも音楽がなんで大事なのか?」という社会的な根拠を見失っているように見えますし、それこそ産業側も、みんな「なんで音楽をつくっているのか?」という理由を説明できないんじゃないかと思うんです。「不要不急」と言われてしまったら、「まあ、そうだよな」と引っ込まざるを得ない状況というのは、それを押し返す論拠が失われていることの現れだと思います。

「音楽なんてそもそも何の役にも立たないんですよ」っていうのは、それはもちろんその通りなんですが、それでも「社会的な意義」というものはいつの時代にもそれなりには設定されていて、それこそ消費文化が華やかなりし頃は、音楽や映画といったカルチャーに造詣が深いことは、例えば「就職において有利」といったコンセンサスがあったりしました。昔は社会の側に、音楽や文化に触れることがなぜ大事か、という合意がなんとなくあって、であればこそ、それをないがしろにしてはいけないという合意もあったんですが、それを経済性や効率性という指標のなかだけで根拠づけようとしていった先に、「不要不急」という言葉を真に受けてしまうような環境ができあがってしまったのではないかと感じます。

ソーシャルメディアがどんどん市民を分断していくような世の中において、なぜ音楽が重要なのかと考えるにつけ、140字のツイートのようには簡単に現実は割り切れないでしょ、というやり方でものごとを表現できるからです。言葉には現実を認識するためのツールとして優位性もありますが同時に限界もあります。言葉で表せないことを表出するために音楽や文化があるのだすれば、そこで描かれることもまたわたしたちの大切な「現実」であるはずです。「世界にはもうちょっと膨らみがあるぞ」というときの、その膨らみを認識可能にして、現実化するために音楽やアートは必要でしょうし、そうであればこそ、いまほどアートや文化が必要とされている状況もないはずです。

近年は音楽で食べていくこと自体が難しくなってきたこともあって、本業を持ちながら自分達のペースでしか活動しないという人たちも増えています。そうした状況は、案外ポジティブなものかもしれず、それは、上手く産業と距離を起きながら、同時にもう一度自分たちをどうやって社会の中にエンベッドし直すかの実験でもあるようにも見えるからです。世渡りの上手さとか業界のプロップスとかではないところで、音楽のためにもなることをさまざまな人たちが考え始めている証拠なのだと思います。

ある海外レポートの中には「もっとソーシャルセクターと緊密に連携すべきだ」とミュージシャンに向けたティップスとして掲載されていました。音楽に関わる人たちが、自分たちを「ソーシャルセクター」と名乗るかどうかは別にしても、少なくとも文化はビジネスセクターの奴隷じゃないということは、やはり強く信じてはいたいところですよね。

悩みを抱えている人のためには、以下のような相談窓口があります。

全国の精神保健福祉センター一覧
こころの健康相談統一ダイヤル
子供(こども)のSOSの相談窓口(そうだんまどぐち)
よりそいホットライン
こころのほっとチャット


メンタルヘルス問題から考える、産業から解き放たれた音楽の役割

前ページで言及している「Street Lab」ホームページより

若林恵

1971年生まれ。編集者。ロンドン、ニューヨークで幼少期を過ごす。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業後、平凡社入社、『月刊太陽』編集部所属。2000年にフリー編集者として独立。以後、雑誌、書籍、展覧会の図録などの編集を多数手がける。音楽ジャーナリストとしても活動。2012年に『WIRED』日本版編集長就任、2017年退任。2018年、黒鳥社(blkswn publishers)設立。著書『さよなら未来』(岩波書店)。責任編集『NEXT GENERATION GOVERNMENT』(黒鳥社/日本経済新聞出版社)。
Twitter : @kei_wkbysh / @blkswn_tokyo

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