映画『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』がいよいよ公開スタート。バンドの誕生から解散までの軌跡が描かれた本作は、ロビー・ロバートソンが綴った自伝を原案としていることもあって「(五人組なのに)彼の視点に偏りすぎではないか?」という批判も少なくない。
しかし、音楽評論家の高橋健太郎による以下の考察を読めば、映画及びザ・バンドに対する捉え方が変わってくるはずだ。

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ザ・バンドのストーリーは二冊の本を読んで、ほぼ把握したつもりでいた。一冊は1998年に邦訳が出た『ザ・バンド 軌跡』でこれはシンガー/ドラマーのリヴォン・ヘルムの側から語られたもの。もう一冊は2018年に邦訳が出た『ロビー・ロバートソン自伝~ザ・バンドの青春』で、これはギタリスト/ソングライターのロビー・ロバートソンの側から語られたものだ。ザ・バンドの中核をなす二人はことあるごとに対立していた。ロビーが進める物事の多くに、ヘルムは疑問を抱き、それは怒りへと転じていく。ザ・バンドの活動期間は1967年から1976年。1976年に映画撮影のための「ラスト・ワルツ・コンサート」を行って、彼らは解散するが、リヴォンはそれにも強い不満を抱いていた。その遺恨は時が解決することもなく、リヴォンが2012年に他界するまで、二人は絶縁状態だった。

ザ・バンドを巡る「ドラッグと交通事故と死」、実人生とかけ離れた虚構の音楽物語

ロビー・ロバートソン (C)Robbie Documentary Productions Inc. 2019

ザ・バンドを巡る「ドラッグと交通事故と死」、実人生とかけ離れた虚構の音楽物語

ダニエル・ロアー監督(Photo by Kiarash Sadigh)

ザ・バンドの五人のメンバーはすでに三人がこの世を去っている。1986年にシンガー/ピアニストのリチャード・マニュエルが自殺。1999年にはシンガー/ベーシストのリック・ダンコが死去。
生き残っているのはロビー・ロバートソンとオルガン奏者のガース・ハドソンの二人だけだ。ロビーはロビーの側からの物語を語り続ける。『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』はまさに、そういう映画だ。だから、観ても新しい発見などないだろうと思っていた。監督のダニエル・ロアーは撮影時に26歳の若手。カナダでドキュメンタリーを撮っていたが、ロビーの伝記を読んで、それを映画化したいと思い立ったのだという。そんな若造に何が撮れる?という気持ちが、半世紀前からのザ・バンド・ファンである僕の心の底にはあった。

だが、映画の手応えは想像よりもはるかにヘヴィーだった。一般にはこの映画を音楽映画として楽しむ人も多いだろうが、ザ・バンドの演奏シーンはほとんど僕の記憶に残っていない。すでに知っている映像が多かったからかもしれないが、僕にとってのこの映画は何よりもドラッグと交通事故と死を語るものだった。リヴォンとロビーの自伝よりもはるかに強いリアリティーを持って。

ジョー・ザガリーノというエンジニアの行方

ザ・バンドというグループが世に現れた時、時代はサイケデリックの喧噪の中にあった。
だが、ニューヨーク郊外のウッドストック村から現れた五人はまったく違うアティテュードを携えていた。古めかしいスーツを着込み、近隣の住人達と一緒に撮った記念写真をアルバムのジャケットに飾っている。ドント・トラスト・オーヴァー・サーティーと叫ぶ若者文化ではなく、アメリカ音楽の歴史に敬意を払いつつ、新しい寓話を生み出していく。そういう賢人達が現れたように思われた。

サイケデリックが過ぎ去り、ロック・ミュージシャンが内省に向かう1970年代には、ウッドストック村の賢人達はアメリカン・ロックの中心的な存在となった。周辺には多くのミュージシャンが集まり、豊かなコミュニティーを形成していた。たくさんの名盤が生み落とされた。僕がロックを聴き始めたのはそんな頃合いで、ザ・バンドは最も影響を受け、最も敬愛するグループになった。崇拝していたと言ってもいい。

大学時代にはバンドで彼らの曲をたくさん演奏した。僕が音楽業界に入ったきっかけは、大学時代に音楽雑誌の譜面を書くバイトを始めたことだが、音楽教育を受けていない僕がそんな仕事にありつけたのも、ザ・バンドのお陰だった。彼らのライブ・アルバム『ロック・オブ・エイジズ』(1972年)のホーン・セクションを加えた演奏をスコアにして、ジャズ研の管楽器奏者数人に手伝ってもらって、ライブで演奏したことがあった。
そのために幾晩もかけて、譜面を書き続けた。そこで得たスキルだったのだ。

サウンド・エンジニアリングに僕が強い興味を持つようになったのは、ザ・バンドの2ndアルバムがきっかけだ。楽器や歌の魔術的とも言える混じりあいやほとばしるエネルギー、がっしりしたボトムが素晴らしく、このザ・バンドの2ndの音こそはロック・サウンドの理想だと10代の頃から考えてきた。だが、そこにはひとつ謎があった。クレジットされているジョー・ザガリーノというエンジニアの行方だ。彼はジェシ・デイヴィスの『ウルル』、ジーン・クラークの『ホワイト・ライト』といった名盤でも素晴らしいサウンドを作り上げたが、1970年代半ばに姿を消してしまう。

そもそも、彼はどういう経緯で、ザ・バンドのエンジニアになり、最高傑作の誉れ高い2ndに貢献することになったのか? 情報が何も得られないまま、何十年もの時が過ぎていた。

40年後に知った消息

初めて、少し謎が解けたのは、『ロビー・ロバートソン自伝』の原書である『Testimony』(2016年)の中に、ジョー・ザガリーノについての記述を見つけた時だった。ロサンゼルスのサミー・デイヴィス・ジュニア邸で録音された2ndは、LAセッションではエンジニアが不在で、ロビーとプロデューサーのジョン・サイモンが機材を操った。ミックスはニューヨークのヒット・ファクトリーで、トニー・メイとともに行ったが、ロビーはその結果に満足できなかった。そこでヒット・ファクトリーの若いエンジニア、ジョー・ザガリーノに白羽の矢を立て、彼とともにミックスをやりなおした。
『Testimony』にはそういう経緯が書いてあった。

ザガリーノのミックスを聴いたマスタリング・エンジニアのボブ・ラディックは、当初、このマスタリングは難しいとロビーに告げたそうだ。だが、数日後、電話で自分が間違っていた、素晴らしいミックスだったと絶賛した。そんな話も書いてある。ラディックは近年のインタヴューで、過去の最も誇らしい仕事の二番目にザ・バンドの2ndを挙げている。このことからしても、ザガリーノが最高のロック・エンジニアだったことは、間違いない。

写真は一枚だけ、ネットで検索したら出てきた。キース・リチャーズと一緒だ。ジョー・ザガリノは『メインストリートのならず者』でも仕事している。 pic.twitter.com/yFjc1y6u0h— kentarotakahashi (@kentarotakahash) January 22, 2018
だが、彼はどこへ行ってしまったのだ? 他に何か手掛かりはないだろうか?と思って探すうちに、2015年にペーパーバック化されたスティーヴ・ジャエ・ジョンソンの『Walk, Dont Run ~ A Rockin and Rollin Memoir』という本に出会った。同書はハリウッドで俳優や脚本家として活動してきたジョンソンの回想記で、舞台は60年代のLA。ハイスクールで出会った三人組の物語になっている。
ジョンソン以外の二人はエディ・オルモスとジョーイ・ザガリーノ。三人はバンドを結成して、レコード契約をめざしたが、良い線まで行ったところで、ギタリストのジョーイが家族とともにニュージャージーに移住してしまう。

ヴォーカルのエディとドラムスのスティーヴはLAで活動を続け、パシフィック・オーシャンというバンドで人気を掴んでいく。一方、ジョーイはニュージャージーでチップス&カンパニーというバンドに加入。オルモスとジョンソンはジョーイをLAに呼び戻そうとするが、チップス&カンパニーで活動し、ヒット・ファクトリーでエンジニア修行も始めたジョーイは帰ってこなかった。

ここまで読んで、ロビー・ロバートソンの自伝と話が繫がった。ジョンソンのバンド仲間だったジョーイが、ボブ・ラディックを唸らせたヒット・ファクトリーの若きエンジニア、ジョー・ザガリーノだ。ジョンソンの本に沿えば、1969年にはザガリーノはまだ22歳か23歳。アシスタント・エンジニアを経て、初めてミックスを任された仕事が、ザ・バンドの2ndだったのではないかと思われる。

その後、ザガリーノはプロデューサーのジミー・ミラーに才覚を買われ、彼の片腕のような存在になって、LAに帰ってくる。ポルシェを乗り回すジョーイを見て、スティーヴ達はあっけに取られるが、三人の友情は続き、スティーヴはジョーイがエンジニアを務めるローリング・ストーンズのレコーディング・セッションを覗いたりする。『Walk, Dont Run』はそんなストーリーなのだが、ラスト近くに衝撃的な事実が書かれていた。
ジョー・ザガリーノは1973年の始めに26歳の若さで死んでいたのだ。

1972年のクリスマスの直前にロンドンからLAに帰ってきたザガリーノはジミー・ミラー宅で昏睡し、そのまま意識が戻らず、年明けの1月4日に死去した。ドラッグの過剰摂取が原因だった。だが、このことは箝口令が敷かれたようだ。当時、ミラーはローリング・ストーンズの『山羊の頭のスープ』のプロデュースを手掛けていた。ミラー宅での変死はスキャンダルになる。ザガリーノはグラミー賞にもノミネートされるエンジニアになっていたが、その死は業界誌にも乗らなかった。

僕がジョー・ザガリーノというエンジニアが最高だ!と確信して、そのクレジットを漁り出したのは1974年くらいだろう。だが、その頃には彼はもうこの世にいなかったのだ。僕がそれを知ったのは、何と40年以上が過ぎてからだった。

ドラッグのせいで、みんながバラバラになっていった

ロビー・ロバートソンがジョー・ザガリーノの死を知っていたかどうかは分からない。たぶん、今もって、知らないままなのではないかと思われる。

だが、ザガリーノが死んだ1972年には、ザ・バンドのメンバーの誰かが同じように死んでも不思議はなかった。このままでは誰かが死ぬ。ロビーはそれを避けたかった。そのためにウッドストックからロサンゼルスへの移住を提案した。1976年にはラスト・ワルツ・コンサートを企画して、バンドそのものを終らせてしまった。

ロビーが勝手に終らせた。終らせる必要などなかったのに、というのがリヴォン・ヘルムの立場だった。映画『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』はあくまでもロビーの側から描かれた物語だ。家族と過ごすために、ロックンロール・ライフから脱落したロビーの言い訳だらけ。天国のリヴォンから見れば、そう映るに違いない。だが、ロビーは本当に怖かったのだ、逃げたかったのだということを僕はこの映画を見て、すっと納得するに至った。

ドラッグに加えて、交通事故も大きな畏れとしてあった。ロビーの妻、ドミニクの証言を添えて、そこをクローズアップしたことで、この映画はリアリティーを放っている。ザ・バンドとして成功し、大金を手にすると、リヴォンやリックやリチャードは高級車を買って、ウッドストックの森の中をぶっ飛ばすようになった。もちろん、アルコールやドラッグでハイになりながら。ザ・バンドの五人はサイケデリックに背を向けた、思慮深い賢人達のように見えていた。だが、彼らのリアル・ライフはそうではなかった。

ザ・バンドを巡る「ドラッグと交通事故と死」、実人生とかけ離れた虚構の音楽物語

(C)Robbie Documentary Productions Inc. 2019

映画を見ながら、僕は登場人物の中の二人には会ったことがあるのを思い出した。一人は最初の二枚のアルバムのプロデューサーで、その後もザ・バンドに協力し続けたジョン・サイモン。もう一人はリック・ダンコだ。

ジョン・サイモンは1992年にニューヨークで会った。彼の20年ぶりのソロ・アルバム『Out On The Street』のリリース時にインタヴューしたのだ。サイモンは友好的な紳士で、晩には奥さんも一緒にハドソン川沿いのレストランで食事をした。そこで僕は長年、疑問に思っていたことをサイモンにぶつけてみた。1975年あたりを境にして、アメリカのロック・レコードは音が変わってしまった.1970年代前半に持っていたクォリティーを失ってしまったように思われる。あの原因は何だったのでしょう?と。

プロデューサーであるジョン・サイモンなら、どんな変化があったのか、テクニカルなことを含め、具体的に教えてくれるのではないかと思った。だが、サイモンが言ったのは「ドラッグの問題があった」ということだけだった。「ドラッグのせいで、みんながバラバラになっていった」と。その答えに僕は不満だった。ドラッグの問題ならば、60年代からあったはずだから。

だが、映画『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』はまさしく、ドラッグのせいで、みんながバラバラになっていく映画だった。サイモンにはそれ以外の答えはなかったのだ、と僕は納得した。ウッドストック村のミュージシャン・コミュニティーが崩壊し、豊かなクォリティーが失われていく中に彼は身を置いていた。1972年から20年間、ソロ・アルバムを作れなかったのも、それと無関係ではないだろう。どれほど酷いことが連続したか、僕の質問のせいで、サイモンは思い出してしまったに違いない。

表裏一体だったザ・バンドの「マジック」と「悪夢」

リック・ダンコにインタヴューしたのは1978年の来日時だ。僕はまだ大学生だった。美大の女の子とコンサートを観に行ったのを憶えている。だが、最も印象に残ったのは、ベースを弾きながら歌うダンコが小節のアタマの一音をしばしば弾き損ねていたこと。これがザ・バンドのメンバーの演奏か?と思った。その夜のデートは盛り上がらなかった。

渋谷のホテルでのインタヴューは、クラブの後輩に通訳をしてもらった。サインしてもらったLPは残っているが、ダンコの言葉は何も憶えてない。唯一、憶えているのは、ダンコが中座して、バスルームに入っていったことだ。10分くらい待たされた。帰り道、アメリカ育ちの後輩が「あれ、コカインやりに行ったんですよ」と教えてくれた。「急に元気になって、戻って来たでしょ」と。

ザ・バンドが抱えていたドラッグの問題はそんな風に僕のリアルな記憶にも残っている。思い起こされるのは、そのことばかりだった。

ザ・バンドの最良の時期は、最初の二枚のアルバムに刻まれている。1970年代の彼らは墜落しそうになり、何とか態勢を立て直し、飛行を続けているエアプレインのようなものだった。熱烈なザ・バンド・ファンだった僕は、70年代の半ばにはそのことに気づいていた。ラスト・ワルツ・コンサートに関しては、もう醒めた目で見ていた。映画は観に行かなかった(後にヴィデオで確認した)。サントラは買ったが、ほとんど聴かなかった。お祭りみたいなコンサートやって、解散なんておかしいじゃん。すべてがフェイクだと思っていた。

だが、ザ・バンドは始まりからして、五人のミュージシャンの実人生とはかけ離れたフェイク~虚像的な存在だったのだろう。彼らは森に住む賢人達ではなかった。最高傑作の2ndは、ロサンゼルスの豪邸の陽光溢れるプールサイドでレコーディングされている。しかし、レコーディングが終わると、彼らのモノクロのポートレイトは地下室やぬかるんだ道で撮影された。ザ・バンドのイメージは、極めて映画的に計算され、構成されたものだった。

ザ・バンドを巡る「ドラッグと交通事故と死」、実人生とかけ離れた虚構の音楽物語

(C)Robbie Documentary Productions Inc. 2019

五人が集まった時に生まれたアンサンブルは奇跡としか言いようがなかった。ザ・バンドに影響を受けたミュージシャン、カヴァーを演奏するミュージシャンは数多いが、あのムード、あのグルーヴが再現されたことはない。解散後のメンバー達のプロジェクトも同じだ。何かが決定的に欠けている。

ザ・バンドというグループとともに、そんな高みに昇ってしまったがゆえに、メンバーのひとりひとりは常人が抱え切れないものを抱えた。バンドのマジックとバンドの悪夢は表裏一体だった。ロビーはそこから逃げ出した。ザ・バンドの凋落は3rdアルバムの『ステージ・フライト』から始まるが、ステージ・フライトとはミュージシャンがステージで「あがる」こと。怖くなって、手が震え、足がすくむことを指す。ロビーのステージ・フライト~畏れとは何だったのか、それをこの映画はまのあたりにさせる。ザ・バンドの活動期間には生まれてもいない若き監督が撮ったからこそ、若き日のロビーの姿がするっと裸にされたように、僕は感じた。

手放したら最後、二度と手に入らないものを五人は作り上げていた。でも、仕方なかったんだ。仕方なかったんだよ。この映画のロビーは何度も何度も、そう繰り返しているように見える。仕方なかったんだ。許して欲しい。僕達は友達だった。それは変わりない。リヴォンにそう語りかけているようにも見える。いや、それもまた映画的に構成されたザ・バンドの物語の一部なのかもしれないが。

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『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』
(原題「ONCE WERE BROTHERS:ROBBIE ROBERTSON AND THE BAND」)
2020年10月23日(金)より角川シネマ有楽町、渋谷WHITE CINE QUINTOほか全国順次公開
(C)Robbie Documentary Productions Inc. 2019
ホームページ:https://theband.ayapro.ne.jp/
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