俳優のアンディ・ガルシアは、ショーン・コネリーと共演した映画『アンタッチャブル』(1987)を回想し、コネリーを偲んだ。
ギャングのボス、アル・カポネと米財務省の特別捜査官エリオット・ネスの戦いを描いたブライアン・デ・パルマ監督の1987年のスリラー映画『アンタッチャブル』の脚本を初めて受け取ったとき、アンディ・ガルシアは、カポネのヒットマン、フランク・ニッティ役を打診された。
ショーン・コネリーとの「初対面」は、1960年代だった。当時、私は映画に夢中の若者だった。『007/ドクター・ノオ』(1962)が公開されたのは、たしか夏で、私はマイアミビーチにいた。リンカーン・ロードのいくつかの映画館では、マチネ上映があった。映画館に行って『ドクター・ノオ』を数回観て、その後『007/ゴールドフィンガー』(1964)を観たよ。
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それから何年も経ってから、私はショーンと共演するという栄誉を授かった。ショーンは、子どもの頃から私のヒーローで、彼にガッカリさせられたことなんてなかった。それに、彼は熟練の俳優——まさに名優だった。世間は彼に対してジェームズ・ボンドとか色んなイメージを抱いていたけど、ショーンはシェイクスピアものを演じることもできた。リア王役もこなせたんだ。「ヘイ、俺は映画スターだぜ」以上の存在だった。ショーンは演技に対してとてもひたむきで、準備周到だった。おまけに、彼が独特の解釈方法を生まれながら身につけていることは、誰の目にも明らかだった。特にボンドというキャラクターには、魅力、自意識、アイロニー的なものがあった。
ロシア語のアクセント云々ではなく、このストーリーのキャラクターの心の中で起きていることに注意を払わなければいけない——これがショーンの哲学だった。そしてショーンは、全員に最高のレベルで試合することを期待した。彼が模範を示してくれたんだ。「俺はベストな状態で試合に挑む。だからお前もそうしろ」という具合にね。
ショーンは、並外れたユーモアの持ち主でもあった。
最初のテイクでブライアン(・デ・パルマ監督)は納得しなかった。というのも、私は受話器を取ったのに、カメラに顔を向けなかったから。「あのさ、ブライアン、ただ廊下の向こうの電話を取るだけだ。
だから、もう一度このシーンを撮り直した。
こうした時間を経験したのは、私だけじゃない。共演者全員がそうだった。ショーンはいつも微笑みを浮かべていて、大事な秘密を守っているような、いたずらっぽい表情を浮かべていた。辛辣なジョークを飛ばすときもあったけど、それは「しっかり演技しろ」という意味だった。たとえば、3テイク目では(コネリーの声を真似ながら)「どうした? カメラにフィルムが入ってないのか?」と言った。笑顔を浮かべながら「みんなしっかりしろ! 映画をつくっているんだ。全員集中!」と言うときもあった。
ショーンは、仕事しに来ていた。楽しい時間を過ごすこともあったけど、「俺からボールを受け取ったら、走れ。絶対しくじるなよ」的なところが彼にはあった。
ギャングのボス、アル・カポネと米財務省の特別捜査官エリオット・ネスの戦いを描いたブライアン・デ・パルマ監督の1987年のスリラー映画『アンタッチャブル』の脚本を初めて受け取ったとき、アンディ・ガルシアは、カポネのヒットマン、フランク・ニッティ役を打診された。
その代わり、ガルシアはジョージ・ストーン役を演じさせてほしいとせがんだ。ジョージ・ストーンとは、禁酒法時代のシカゴを牛耳るカポネに立ち向かうネスのエリートチームの一員で、警察学校卒業ほやほやのシカゴの新人警官だ。いくつかの理由から、ガルシアはこの役柄に惹かれていた。崇拝するショーン・コネリーの側で演技ができる——ガルシアは、とりわけこの点に惹かれた。同作でコネリーは、負けん気の強いベテラン警官ジミー・マローン役を演じた。当時まだ30歳だったガルシアは、当時57歳のコネリーとの体験を「神様からの贈り物」と表現した。10月31日の訃報を受け、ガルシアは『アンタッチャブル』の撮影現場でコネリーとともに過ごした時間と彼のレガシーについて本誌に語ってくれた。
ショーン・コネリーとの「初対面」は、1960年代だった。当時、私は映画に夢中の若者だった。『007/ドクター・ノオ』(1962)が公開されたのは、たしか夏で、私はマイアミビーチにいた。リンカーン・ロードのいくつかの映画館では、マチネ上映があった。映画館に行って『ドクター・ノオ』を数回観て、その後『007/ゴールドフィンガー』(1964)を観たよ。
私は、ショーンに強い感銘を受けた。あの頃は、ショーン、スティーブ・マックイーン、ジェームズ・コバーン……アイコニックな人たちがいた。ショーンは、私たちの時代のヒーローだった。
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それから何年も経ってから、私はショーンと共演するという栄誉を授かった。ショーンは、子どもの頃から私のヒーローで、彼にガッカリさせられたことなんてなかった。それに、彼は熟練の俳優——まさに名優だった。世間は彼に対してジェームズ・ボンドとか色んなイメージを抱いていたけど、ショーンはシェイクスピアものを演じることもできた。リア王役もこなせたんだ。「ヘイ、俺は映画スターだぜ」以上の存在だった。ショーンは演技に対してとてもひたむきで、準備周到だった。おまけに、彼が独特の解釈方法を生まれながら身につけていることは、誰の目にも明らかだった。特にボンドというキャラクターには、魅力、自意識、アイロニー的なものがあった。
これらはキャラクターに備わっている要素だけど、演技とは思えないくらい自然に表現する術が必要だ。これこそがショーンの役割で、彼はいつもその「術」を心得ていた。(1990年の映画『レッドオクトーバーを追え!』で)スコットランドのアクセントで話すソ連の潜水艦の艦長を演じたときも、2秒後には「そうさ、彼はソ連の潜水艦の艦長だ。当たり前じゃないか。信じるよ。さて、ストーリーを聞かせてくれ」と自分に言っていた。
ロシア語のアクセント云々ではなく、このストーリーのキャラクターの心の中で起きていることに注意を払わなければいけない——これがショーンの哲学だった。そしてショーンは、全員に最高のレベルで試合することを期待した。彼が模範を示してくれたんだ。「俺はベストな状態で試合に挑む。だからお前もそうしろ」という具合にね。
ショーンは、並外れたユーモアの持ち主でもあった。
それは極めてドライで、辛辣なものだった。あるとき、私たちは(『アンタッチャブル』の)電話のシーンを撮影していた。そのシーンで私は、廊下の先にある受話器を取ることになっていて、カメラは廊下の反対側にあった。電話の相手役のショーンは、カメラには映っていない。彼はすでにゴルフウェア姿だった。早くゴルフをしに行きたかったんだ。でも彼は、俳優として私をサポートするため、撮影現場にいてくれた。同室のシーンではなかったけど、一緒に演じるシーンだったから。「3時に試合が始まる」と言いながら、ショーンは早く撮影を終えたがっていたよ。
最初のテイクでブライアン(・デ・パルマ監督)は納得しなかった。というのも、私は受話器を取ったのに、カメラに顔を向けなかったから。「あのさ、ブライアン、ただ廊下の向こうの電話を取るだけだ。
このキャラクターは、カメラに見られているなんて思っちゃいない。ただ、電話に出るだけだ。だから、カメラに顔を向ける必要なんてない。そんなの、すごく不自然じゃないか。カメラに向かって話しているのが見え見えだし、人間の自然な行動に反することだよ」と言った。顔を見せるか見せないかをめぐり、ブライアンと堂々巡りになってしまった。でも、私にブライアンとの議論をけしかけたのは、ショーンなんだ。2テイク目のために現場に戻ると、そのシーンに備えて私はカメラのほうに向かった。ショーンは、私の隣でリンゴの箱に座っていた。すると彼は、私のほうを見て(コネリーの声を真似ながら)「さっさとしなさい。ハムレットじゃあるまいし」と言ったんだ。
だから、もう一度このシーンを撮り直した。
私はカメラに若干顔を向けて、ブライアンに少し顔が見えるようにしたけど、妥協したように思われたくなかった(笑)。そのとき、「カット!……アンディ、片眼しか見えなかったぞ!」とブライアンの声が響いた。するとショーンは大声で(コネリーの声を真似ながら)「両眼とも見えたはずだ。目と目が寄りすぎていて、ひとつに見えただけだ」と言ったよ(笑)。これがショーンのユーモアのセンスさ。
こうした時間を経験したのは、私だけじゃない。共演者全員がそうだった。ショーンはいつも微笑みを浮かべていて、大事な秘密を守っているような、いたずらっぽい表情を浮かべていた。辛辣なジョークを飛ばすときもあったけど、それは「しっかり演技しろ」という意味だった。たとえば、3テイク目では(コネリーの声を真似ながら)「どうした? カメラにフィルムが入ってないのか?」と言った。笑顔を浮かべながら「みんなしっかりしろ! 映画をつくっているんだ。全員集中!」と言うときもあった。
ショーンの言うことは正しかったよ!
ショーンは、仕事しに来ていた。楽しい時間を過ごすこともあったけど、「俺からボールを受け取ったら、走れ。絶対しくじるなよ」的なところが彼にはあった。
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