エルヴィス・コステロ(Elvis Costello)がローリングストーン誌の名物連載「Last Word」に登場。最新アルバム『The Boy Named If』にまつわるエピソードから、ジェフ・バックリィへの知られざる憧れ、1977年の有名な出禁パフォーマンスまで大いに語る。


パンデミックが襲来する以前、エルヴィス・コステロは本人がいうところの「あちこち飛び回る悠々気ままな」生活を送っていた。彼はのちに好評を博す2020年のアルバム『Hey Clockface』を収録し、ツアーをやり終え、さらにヘルシンキとパリでいくつか新曲も制作するつもりだったが、新型コロナウイルスが世界に待ったをかけたのはそんな時だった。

「ふと気づけば、いつ外に出られるのか、いつ仕事を再開できるかもわからないまま、バンクーバー島の水面を眺めていた」 去る11月、彼はマンハッタンの自宅から電話インタビューにこう答えた。「それでその年に取りかかった曲を改めて見直した。そうしたら、どういうわけかつながっていることに気付いたんだ。”哲学的”という言葉は使いたくないが、どれも人生の様々な時期に着目していた――無邪気な幼少時代、悩める青年時代。
そして異なる視点から物事を振り返っていた」 これらの曲――その中にはあちこち飛び回る悠々気ままな曲や、彼のトレードマークでもあるほろ苦い哀愁歌もある――を集めたのが、この度リリースされた32枚目のアルバム『The Boy Named If』だ。

遡ること67年前、ロンドンに生まれたデクラン・パトリック・マクマナスことコステロは、つねに内省的なソングライターとして、日々の生活につきものの痛烈な痛みや恥じらい、そして時に希望の光を40年余りつづってきた。「Alison」や「Pump It Up」などはみなに愛される名曲ではあるものの、いずれもスマッシュヒットでないことは誰よりも彼本人が認めている。彼にとってアメリカ最大のヒット曲は1987年の「Veronica」だが、アルツハイマー症の患者という珍しいテーマを扱ったこの曲はビルボートチャートで19位どまりだった。アルバム制作やツアー、青春時代の憧れのアーティストとのコラボレーションを続けられるくらいは成功できた、というのが彼本人の見方だ。彼は長年にわたり、ポール・マッカートニーやバート・バカラック、ザ・ルーツ、その他多数のアーティストと共演する機会に恵まれた。
そしてその音楽的才能により、芸術への貢献を認められて大英帝国勲章も受勲している。

このインタビューで、コステロは人生の節目節目で学んだことを振り返り、なおも前進し続ける原動力について思いを巡らせた。「ずいぶん長くやってきたから、多少は賢くなってなきゃおかしいだろ」と本人。「まったく、医者や僧侶には7年でなれるんだぜ。俺は43年もやってきたんだから、何かしら身についているのは当然だよ。もっとも、他のことは何もできないが」

エルヴィス・コステロが語る過去と現在、「怒れる若者」と呼ばれた1977年の記憶

Illustration by Mark Summers for Rolling Stone

―あなたは1977年、自分にとっての原動力は「復讐と罪悪感」(revenge and guilt)だとおっしゃいました。
この言葉は今も当てはまりますか?

コステロ:ああ、あれはペルノーのボトルを半分空にしていた時に出た言葉なんだ。なかなかシャレてると思ったし、マスコミもそう思った。そしたら周りも、まるで禅問答から引っ張り出した言葉かのように引用するようになった。よくある、虚勢を張るような瞬間さ。耳に強く残るだろ? でもちょっと考えれば意味不明。だけどすごく言い得て妙なんだ。


―そうしたメディア向けのイメージをどうやり過ごしたんですか?

コステロ:30以上のアルバムを作ることでだ。それぞれのアルバムは性格が異なる。時には、初期の作品の神話づくりのような側面をあらためて紐解く必要も出てくる。初期のアルバムの収録曲を1曲1曲聞いていくと、もっと細かいニュアンスに気づかされるからね。大なり小なり、俺の顔と声に注目すればもっとアグレッシブに聞こえるんじゃないかな。俺は天性のバケモノだから、すきっ歯の間からいつも威嚇かうなり声をあげてるってわけさ(笑)。


ニューアルバム、少年時代と両親からの学び

―新作の『The Boy Named If』は、子供から大人への成熟の過程がテーマだそうですね。そうした過程をご自身はどうとらえたのですか?

コステロ:自由に行き来できなくなって、いつまたステージに上がれるのかもわからなかったせいで、考える時間ができた。取りかかった曲をあらためて振り返ったら……「哲学的」という言葉は使いたくないんだが、どの曲も幼少時代や無邪気な少年時代からの旅立ち、悩める青年時代といった様々な視点から人生を見つめていた。それを今度は異なる視点で振り返っていったのさ。

―音楽制作でそうしたテーマが再び浮上してきた理由は何だと思いますか?

コステロ:下の息子たちは来週15歳になるし、一番上の息子はもう40代だ。だから、そういったような成長過程については俺なりの考えもある。
10年前には親父を亡くしたし、おふくろも死んで1年になる。誰しもそういうことがあると、自分が子供だった時代を考えるものだ。ある意味そうした出来事で人は成長するからね。

―ソングライターとして、両親からはどんな影響を受けましたか?

コステロ:600ページの本を書いたことがある(2015年出版、2020年に邦訳された『エルヴィス・コステロ自伝』のこと)。俺の祖父と親父が旅芸人という設定で、それが自分に及ぼした影響を空想した話だ。だが本を書き始めた時、親父はパーキンソン病で余命僅かだった。親父は本の執筆中にこの世を去ったが、ページの上では生き続けたってわけだ。実をいうと、執筆を勧めてくれたのはおふくろだった。いいことも悪いことも、胸につかえていることを洗いざらい書きなさい、とね。いかにもおふくろらしいよ。

―ニューアルバムに収録されている「Farewell, OK」には、”ベルベットのあの世にいるエルヴィス”という一節があります。今現在、エルヴィスという名前とはどんなつながりを感じていますか?

コステロ:俺は全く気にしてない。家族からはそう呼ばれないしね。たいていはイニシャルで呼ばれる。言い出しっぺは親父だった。アイルランドの慣習だと思うが、親父が俺を(デクラン・パトリックの頭文字を取って)DPと呼び始めた。エルヴィスの名前で呼ばれることはあまりないし、自分も気にしなくなった。別のアイデンティティというか、クラーク・ケントと呼ばれるみたいなものさ。単なる名前、単なるブランドだよ。

ジェフ・バックリィへの知られざる憧れ

―ジ・アトラクションズのスティーヴ・ナイーヴとピート・トーマスとは40年以上も様々な形でプレイしていますね。共同作業をそこまで長続きさせる秘訣は何ですか?

コステロ:そりゃもちろん一緒に仕事していなかったときもあったさ。2人とはバンドの在り方について意見が合わなくて、何度か袂を分かった。2~3回かな、結局解散して、その後また解散……。ウマが合わない時でもいい作品ができた。『Blood & Chocolate』もいい作品だったが、当時は完全に反目していた。時にはかみ合ってないほうが上手くいくこともあるんだよ。常に順風満帆で円満とは限らない。必ずしもそれが全てじゃないのさ。

―今もロックミュージックに惹かれる理由は何ですか?

コステロ:ロックミュージックはあまり好きじゃない。俺が好きなのはロックンロールだ。「ロール」が抜けると、とたんに面白みに欠ける気がする。「あなたのお気に入りの作品は?」と聞かれても、過去30年にエレキギターを使った曲を挙げることはほとんどない。ビートがつまらないんだよ。フロウやスイング感があるのが好きなんだ。ロックンロールとか、スウィングジャズとか、ハンク・ウィリアムズのゆったりした曲とかね。

―違うスタイルで曲を録り直したいと思うことはありますか?

コステロ:自分では絶対歌えないような曲を歌えたら、とは思う。自分はカウンターテノールのようには到底歌えないだろうな。

―もし可能ならどんな曲を歌ってみたいですか?

コステロ:(ヘンリー・パーセル作曲のオペラ曲)「When I Am Laid in Earth」を、ジェフ・バックリィが1995年のメルトダウン・フェスティバルで歌ったみたいに歌えたら最高だろうな。ジェームズ王朝時代のあの曲を彼が歌うのを聞いた時はたまげたよ。彼のために書かれたみたいだった。彼は声を楽器のように扱う才能があった。自分が興味をひかれたどんな音楽にも声をのせられた。しかも誰より気持ちがこもっているんだ。パキスタンの音楽家ヌスラト・ファテー・アリー・ハーンの作品も、言葉の意味は分からなくても耳コピで歌うことができた。あのフェスでも、彼はマーラーを歌う話をしていた。「ありゃあドイツ語だぞ、ドイツ語は話せるのか?」「いや、勉強するよ」

俺はあのフェスのキュレーターだった。とても胸が痛むよ、あれが彼にとって最後のロンドンでのパフォーマンスだったんだ。でも当時はそんなことになるとは知らなかった。彼は前途洋々だった。これから成すべき偉業がたっぷりあったのに。本当に残念な事故だった。彼があの曲をもう1度歌ってくれたらいいのに。彼はああいうのも(「When I Am Laid in Earth」)歌ったし、アルバム『Grace』はもちろん、ベンジャミン・ブリテン作曲「キャロルの祭典」も歌った――モリッシーの曲だって歌うことができた。誰に頼まれて歌ったのかは知らないが。レッド・ツェッペリンの曲もさ。誰に頼まれたのかは知らないが、それは彼の判断だ。

「出禁パフォーマンス」を回想

―初期の頃はあえて「Alison」をセットリストに入れていませんでしたね。なぜですか?

コステロ:俺たちの持ち歌で唯一のバラードだったからさ。ショウではテンションが一気に下がるだろ、それは避けたかった。それで思ったんだ、「なあ、これは楽勝すぎる。もう少し攻めようぜ。みんながまだ聞いたことのない曲をたくさん演奏しよう」とね。それで誰も聞いたことのない2枚目のアルバムから演奏した。ジ・アトラクションズには荷が重かったかもしれないな、レコーディング(コステロがジ・アトラクションズと最初に収録したアルバム『This Years Model』のこと)し始めたばかりだったし、全部俺たちの曲だったしね。

―昨年にはスペイン語圏のシンガーを起用して、『This Years Model』を全編カバーした『Spanish Model』をリリースしました。楽曲に対する見方は変わりましたか?

コステロ:中には明らかに俺よりも美しい声の人が歌うことでずっと良くなった曲もあって、ある意味驚いたね。「Hand in Hand」はかなりびっくりだった。あれは本当にいい曲だよ。これまでそんなことは全く思いもしなかった。「僕から謝罪は期待するな」って生意気な態度の曲だからね。それが(『Spanish Model』では)本当に優しいメロディにのっているように聴こえた。俺が歌うよりもずっと優しく聴こえたね。

―生意気な態度と言えば、1977年の『サタデー・ナイト・ライブ』出演中に突然「Radio, Radio」に曲を変えてTV局を出入り禁止になったのは有名な話です。今、当時の決断を振り返ってどう思いますか?

コステロ:やっちまったと気づく前に、俺たちはもうイギリスに戻って『This Years Model』の収録の続きに取りかかっていた。イギリスでは『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演しなくちゃいけなかったから、その間アメリカのことは忘れていた。NBCのことは振り返りもしなかった……きっとTV出演はないだろう、という風に言われたよ。でもぶっちゃけ、 俺はTVに出たいと思ったことは一度もなかったんだ。

From Rolling Stone US.

エルヴィス・コステロが語る過去と現在、「怒れる若者」と呼ばれた1977年の記憶

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