音楽評論家・田家秀樹が毎月一つのテーマを設定し毎週放送してきた「J-POP LEGEND FORUM」が10年目を迎えた2023年4月、「J-POP LEGEND CAFE」として生まれ変わりリスタート。1カ月1特集という従来のスタイルに捕らわれず自由な特集形式で表舞台だけでなく舞台裏や市井の存在までさまざまな日本の音楽界の伝説的な存在に迫る。


2023年6月の特集は「沖縄を知ろう」。沖縄戦で亡くなった方たちの霊を追悼する沖縄の慰霊の日である6月23日。その6月に改めて音楽を通して沖縄を知ろう、沖縄について勉強しようという1カ月間。PART3は幼少のときから歌や三線に親しみ、琉球古典音楽の師範として数多くの賞を受賞しているよなは徹を迎え、沖縄の音楽に迫る。

北風(NISHIKAZI) / よなは徹

田家:今週は島唄について勉強します。勉強ですよ。
学びのカフェ、勉強カフェですね。沖縄の音楽の歴史は古いですからね。15世紀の昔からあります。450年続いた琉球王朝があった頃からずっとあるんですね。徳川幕府より遥かに長いです。1週目でBEGINの英昭さんが「島唄は僕らがやってはいけない音楽だと思ってた」っていう話がありました。
彼らも「島人ぬ宝」にたどり着くまで10年以上経ってるんですね。こうやって簡単に島唄と言ってしまっていいんだろうかと思いながら今週のゲストをお迎えしてます。

さっきから流れてるのは、よなは徹さんの「北風(NISHIKAZI)」という曲です。「北風」と書いて「にしかじ」と読む。よなはさんは沖縄県謝苅の生まれ。幼少のときから歌や三線に親しんで、琉球古典音楽の師範として数多くの賞を受賞されてます。
琉球音楽を歌ったシリーズのアルバム、『Roots~琉楽継承』は4枚、ベストアルバムを入れて10枚のアルバムを発売されてます。三線教室やラジオ番組のパーソナリティ、ご自分ではもちろん作曲もされてる。森山良子さんとかスピッツのアルバムやコンサートにも参加されてます。ジャンルを超えて、今の琉球音楽、島唄を伝えられている第一人者です。こんばんは。

よなは:こんばんは、はいさいちゅ~がなびら、よなは徹です。


田家:今流れてる「北風(NISHIKAZI)」は、よなはさんの登場曲だという。

よなは:そうですね。2002年に沖縄のビール会社のお歳暮のCM曲だったんですよ。CMが流れたときに、今で言うとバズったっていうんですかね。いろいろ問い合わせがありまして、作曲された上地正昭さんっていう方なんですけど、上地さんのところに連絡をして、どうにか1曲として成り立つように作ってほしいという依頼をして、その年、2002年に最初にシングルを出したんですね。その後にまたコラボレーションアルバムの中に録り直して今回、ベストアルバム『とぅなか』の中に入れたっていう。


田家:「北風」と書いて「にしかじ」、こういう読み方なんですね。

よなは:そうですね。北のことを「にし」というんですよね。西のことを「いり」、東のことを「あがり」、太陽が上がって入るのが「いり」。

田家:自然の摂理に沿ってますね。いい言葉ですね。
今日は沖縄の島唄について教えていただこうと。どんな音楽でどんな歴史があったとか、どんなことをやってきたのかとか、沖縄の人たちの心や生活にどのくらい深く根付いているのか。よのはさんは琉球古典音楽、野村流音楽協会師範という肩書きがついておりました。

よなは:2010年に師範免許をいただきまして、後輩の育成に力を入れております。

田家:僕らが乱暴に島唄と言ってしまうんですが、島唄と古典とは違うんですね。

よなは:大きくジャンル分けをしますと、琉球古典音楽っていうのは宮廷音楽、いわゆる王朝時代の国王様であったり、冊封使、中国から来た偉い人たち、役人であるとか宮廷音楽ですよね。一方島唄っていうのは、庶民の音楽なんですよ。もちろん明治以降、廃藩置県までも島唄として歌われてた曲もあるんですけど、三線はあまり使われてないんですね。アカペラであったり、農具を叩いてリズムを作って歌われていた。全くなかったわけじゃないです。それが廃藩置県のときに、今まで首里城の中で三線を弾いてた人たちが、いわゆる都落ちをして、そこに三線を入れ始めたのが始まりだと言われてはいます。

田家:なるほどね。今日は、よなはさんに曲を選んでいただいたんで、1曲目を聞いていただこうと思うんですが、「かぎやで風節(カジャデフウブシ)」。

よなは:これは宮廷音楽で、やっぱり国王様の前で歌う歌なんですね。お祝いの席、祝儀曲としても有名で、沖縄の座開きのときは欠かせない1曲となっております。野村流古典音楽保存会の皆さんが演奏されております。

かぎやで風節(カジャデフウブシ) / 野村流古典音楽保存会

田家:野村流古典音楽保存会の「かぎやで風節」。琉球祝い唄ですね。

よなは:三線に携わってる人は、大体「かぎやで風節」は弾きますね。3月4日が語呂合わせで三線の日で、その日は正午お昼の時報から夜8時まで時報音をきっかけにみんなでかぎやで風節を歌いましょうというイベントがあるんです。

田家:よなはさんはこれをご自分のベストアルバムに入れてますね。シリーズ『Roots~琉楽継承 其の二』でも別バージョンで演奏されていて、3回CD化されてます。

よなは:3回録って歌ってるんですけどやっぱり古典音楽ってのは本当に奥が深くて、もちろん島唄もそうですけれども、やっぱり何回歌っても納得できてないな、しないなという感じですね。

田家:野村流っていうのは古典音楽の流派なんですか?

よなは:流派ですね。野村流と安冨祖流という流派がありまして、元は一緒で兄弟なんですけどね。知念績高という人がいまして、主事の音楽座の今で言うとプロデューサーみたいな感じなんですけども、この人のお弟子さんの中に、野村安趙という方と安冨祖正元という人がいました。その弟子たちでいつの間にか野村流と安冨祖流ができちゃったっていう。その野村流の野村安趙という人は、琉球王国最後の国王・尚泰王の歌指導もなさってた方で、その系統になってますね。

田家:楽譜の編纂を命じたのがその野村さんだったという。

よなは:そうですね。尚泰王の命令で野村安趙先生の方に行って、そのとき安趙先生は60歳を超えてるんですね。当時の60歳というと、今で言うともう多分85歳ぐらいの感じだと思うんですけど、自分はもう歳も歳なので、弟子の松村真信という人を中心に一緒にやりたいと思いますということで、松村真信が作ったって言われてるんです。

田家:なるほど。歴史が古いです。

移民小唄 / 普久原朝喜・普久原京子

田家:普久原朝喜さんと普久原京子さんの「移民小唄」。これSP版なんですって。

よなは:そうですね。昭和2年に発表してるんですね。だから昭和2年のSP版の音源をリマスタリングして出来たCDから。

田家:この普久原さんって方もとっても由緒のある方なんでしょう。

よなは:そうですね。この方は出稼ぎで大阪に行くんですけど、大阪でマルフク・レコードっていうのを立ち上げまして。昭和2年のときの一番最初にレコーディングをした新曲第1号なんです。この曲から沖縄、いろんな新曲が生まれていくわけです。

田家:島唄のレコーディング第1号。大阪のマルフク・レコードですね。

よなは:普久原朝喜さん、僕らはフクバルチョーキといったりもするんですけども、現代沖縄民謡の祖とか、沖縄民謡の最高峰に立つ巨人とかと呼ばれております。その息子さんが昨年お亡くなりました普久原恒勇さんっていう「芭蕉布」とかを作った方ですね。

田家:加藤登紀子さんがカバーしてますし、いろんな人がカバーしてますね。やっぱり彼がいなかったら今の島唄はこういうふうになってないということですね。

よなは:もう伝説と言われている沖縄の島唄の先達たちっていうのは、ほとんどがこの普久原朝喜さんの影響を受けてるんですね。その下の下に僕らがいるので、僕らも普久原朝喜さんの影響を受けてるって言っても過言ではないかなと。

田家:例えば三線の弾き方とか歌い方とか曲の作り方とか。

よなは:少なからず普久原朝喜さんの恩恵も受けてますね。

田家:そういう意味では、彼が始めたことで一番歴史的だったってのはどういうことですか。

よなは:やっぱり新しい歌、古い歌も含めて、この普久原朝喜さんがマルフク・レコードの時代にたくさん吹き込んでるんですね。その前からの音源とかもあったりはするんですけど、この普久原朝喜さんの功績ってのは大きいですよね。この人がいないと、島唄が広まっていない。

田家:マルフク・レコードは健在で、沖縄の音楽の中心にあるわけですよね。よなはさんが今日選ばれた3曲目、これは知ってる方多いんではないかと思います。

新安里屋ユンタ節 / 仲本マサ子・大浜津呂・崎山用能

田家:仲本マサ子さん、大浜津呂さん、崎山用能さんで、「新安里屋ユンタ節」。

よなは:これも昭和9年ですね。

田家:戦前だ。

よなは:沖縄だけではなく、多分日本全国の歌を普及させようというレコード会社の企画で、その中で沖縄は安里屋ユンタ。竹富島に伝わる古謡から宮良長包っていう方が作曲で、星克という方が作詞をして。だから日本語なんですね。先ほどの「移民小唄」もそうなんですけど、日本語なんですよ。大和で沖縄の歌広めようという。今では有名ですからね。この曲から始まった。

田家:古謡というのがあるんですね。

よなは:元々竹富島に安里屋というおうちにクヤマという女性が生まれて、とても美人だったとかって伝説があって。20何番かまであるんですけれども八重山の歌でね。それをわかりやすくといいますか、ちょっとリズミカルな感じでアレンジをして生まれたのがこの「安里屋ユンタ」。僕らはそれを元々の正調「安里屋ユンタ」と区別して、「新安里屋ユンタ」と呼んでいます。

田家:そういうことなんだ。正調ってのは古謡に近い。

よなは:そうですね。元々ある島の歌。古い歌はいっぱいありますからね。特にこの八重山諸島を先島にはもう本当にいっぱいありますね。まだまだあるんじゃないかと思ってますね。

田家:紹介されてないものが。どういう形で残ってるんですか。

よなは:島の祭り事。行事行事で歌われていて、おそらくそうじゃないかなと思いますね。それは沖縄本島にも言えることだと思うんですけども。

田家:それが歌い継がれ、語り継がれ。

よなは:その土地土地で歌われて継がれてると。でも、その土地の人間じゃないからわからないっていう。

田家:そういう中に時代によって新しい流れが出てきたりする。次の方はそういう1人。このあたりから僕らも名前は知ってるとか、耳にしたことがあるって曲が登場しますね。

バイバイ沖縄 / 知名定男

田家:知名定男さんの 「バイバイ沖縄」。彼の作詞作曲ですね。78年のアルバム『赤花』に入っておりました。これを選ばれてるのは?

よなは:相当僕影響を受けましたね。僕、三線を弾いたのは3歳なんですけど、本当に歌を歌い始めたのが小学校ぐらいなんですね。この歌を聴いたのは10歳とか11歳とか、そんなときなんです。やっぱりいろんな歌を意味はわからないけど聞くんですよ。そのときに知名定男さんの歌が一番、小学生ながらに耳に入ったんですね。その後に何かのラジオ番組でこの歌を聞いて、「バイバイ沖縄」というタイトルも知らなくて、この歌何だって後で知ったんですよ。高校ぐらいになって「バイバイ沖縄」ってタイトルを知った。なので僕からするともう「安里屋ユンタ」と同じぐらい衝撃を受けた曲ですね。

田家:一番衝撃だったのはどんなことですか。

よなは:沖縄って三線とギターみたいなマンドリンみたいなのあるんですけど、ユニゾンだったんですよね、僕が知ってるのは。これって完全にポップスっていうか、沖縄なんだけど沖縄じゃないっていう。子供心にこれどうやって作ったんだろうと不思議な感じでしたね。

田家:なるほどね。知名さんはお父様が民謡の大家で知名定繁さん。そういう流れみたいなものも当時ご存知だったんですか。

よなは:僕の親父が琉球民謡やってたので、それで親父から話を聞いていたりはしましたけれどもね・

田家:定繁さんの息子が音楽やってるよみたいな。

よなは:いや、親子って知らなかったんですよ。逆に言うと知名定男さんのお父さんが知名定繁だよっていう感じで。

田家:琉球フェスティバルっていうのが東京とか大阪とか本州とか行われるようになるのは1974年。知名さんはその中心のメンバーだった。喜納昌吉さんとかいらっしゃいましたけども。そういう本土復帰によって島唄が変わったっていうことはあるんですか。

よなは:やっぱり、この「バイバイ沖縄」から変わっていったんじゃないかなと思うんです。沖縄が本土復帰していくわけで、そのときに音楽界にも本土の波が押し寄せてくるんですよね。知名さんも、その中で足元にある大事な財産であるとか、沖縄の文化が消滅していくんじゃないかっていう意味で危機感を感じて、この曲をお作りになったって僕は聞いたんですね。沖縄を忘れるんじゃないぞっていう意味で。

田家:喜納昌吉さんが「ハイサイおじさん」を出して、本土の方からレコーディングに来たり、いろんなレコード会社が来たりしたときに、彼は沖縄が奪われると思ったっていう話がありましたよ。

よなは:まさにその当時はそうだったのかなって思いますね。

田家:次の方も70年代にいろんな形で注目された方ですね。りんけんバンドで「生まり島」。

生まり島(ンマリジマ) / りんけんバンド

田家:よなは徹さんが選ばれた今日の5曲目、りんけんバンドで「生まり島」。

よなは:この曲も知名定男さんと一緒で、存在を知ったのが平成に入ってからかな。世界のウチナーンチュ大会ってのがありまして、第1回のテーマソングがりんけんバンドの曲だったんですね。そのときも定男さん以上に三線でめっちゃポップでかっこよかった。

田家:ドラムが入ってベース、キーボードも入って。

よなは:そうなんですよ。ちょうどその時期ですよ。沖縄のローカルのテレビ番組で『お笑いポーポー』という番組があって、そのときの音楽がりんけんバンドだったんですね。りんけんさんの曲で。そのときこの「生まり島」って曲も、コントの中で使われた曲だったんです。この曲の存在も僕コントで知ったんです。

田家:そういうお笑い番組の中まで浸透してるっていう。

よなは:めちゃめちゃかっこいいなって子供ながらに思ってて。こういう音楽やりたいなっていうのをずっと思ってたんですね。なので、知名定男さんとりんけんさんに相当の影響を受けましたね。

田家:琉球ポップスっていう言葉は、りんけんバンド以降だっていう。

よなは:りんけんバンドが知名定男さんのバックバンドですね。

田家:ちゃんと流れができてますね。

あんやんてぃんどう / 照屋林助

田家:照屋林助さんの「あんやんてぃんどう」。

よなは:先ほどりんけんバンドは知名定男さんのバックバンド。知名定男さんは照屋林助さんのバックバンドだったんですね。りんけんさんのお父さんですね。「あんやんてぃんどう」というのは林助さんの本当に晩年の曲なんですけれども、原曲は、竹富島に古くから伝わる童謡という古謡なんですね。

田家:どういう意味なんですか?

よなは:これは教訓化っていうか、家族が仲良く暮らすにはどうした方がいいよ、そうだよねという歌なんですけどもね。それを林助さんが歌詞を変えて、アレンジして、この曲が生まれました。

田家:林助さんご自身も親御さんがいらして、その方も。

よなは:野村流にいらっしゃった先生ですね。だから音楽家系なんですね照屋家。

田家:林助さんは米軍の捕虜になってたことがあるっていう。

よなは:捕虜というよりも、その後に小那覇舞天さんと一緒に『命の御祝事さびら』、命のお祝いをしましょうということでいろんなところに行って芸を披露して歌を歌ったりとかしてやった方ですね。この人もやっぱり戦後の復興といいますか、疲弊した沖縄中を元気にした第一人者の1人ですね。

田家:難民収容所で音楽をやって回ったっていう。そういう場所がたくさんあったんですね。

よなは:林助さんがコザでにお住まいなので、復帰前。やっぱりアメリカの文化も入ってくるわけですよね。そしたら、三線にギターを入れたりベースを入れたりするわけですよ。その文化も取り入れて、何でもごちゃまぜにするっていうチャンプルー文化っていうのをやりまして。そこで林助さんはいろんな曲をお作りになるんですけど、それがいわゆる沖縄ポップスの中高の祖とも言われてますね。

田家:チャンプルーミュージックは林助さんから始まってるって言ってもいい。なるほどね。

よなは:林助さんからいわゆるポップス、うちなーポップスっていうのが生まれて、そのとき一緒にお仕事をしてたのが知名定男さんで。

田家:それまではエレキギターとかないわけですね。

よなは:林助さんは自分でエレキギターを作ったり、エレキ三線とか作ったりとか、いろんな発明をする方でしたね。

田家:本当に祖ですね。評論家の北中正和さんが『てるりん自伝』って本を出してるんですね。これ見つけたのが遅かったんで、まだ読んでないんですけど。

よなは:僕持ってますよ。台本じゃないですけど、いろいろ昔のことが書かれていましたので、やっぱり勉強になりましたね。また、本人とじかに会ってお話をする機会も結構ありましたので、なかなか面白い話を聞くことができました。

田家:島唄を勉強しようと思ったらこの北中さんの『てるりん自伝』をまず読めと。そっからですね。次の曲は、よなはさんが歌われてる曲ですね。「夜明け」。

夜明け / よなは徹

田家:これは作詞作曲がスピッツの草野正宗さんですね。編曲と演奏もスピッツなんですよね。

よなは:そうなんです。演奏もスピッツのメンバーにやっていただきまして。

田家:よなはさんの2007年のアルバム『宴 ~party~』の中に入ってる。これはどういうアルバムだったんですか。

よなは:いろんな方のサポートというかゲストで三線を入れる機会をいただいたんですね。2005年にスピッツさんのアルバムの『スーベニア』っていうアルバムに収録されている「ナンプラー日和」という曲に三線を入れたのがきっかけで。このときぐらいにいろんな方の伴奏させていただいたんです。そのときにいろんな人のアルバムに演奏入ってるんだから、今度は自分自身のアルバムにこの人たちを呼ぼうかっていうことで、そこで宴かなということで、スピッツさんの正宗さんにも曲を書いていただいて。他にもいろんな方に曲を書いていただいて作りました。

田家:「満月の夕」もカバーされてる。

よなは:「満月の夕」も、僕が2001年にデビューして、東京に出るのが2002年ぐらいなんですけども、『豚の報い』という映画があって、そのときのテーマソングが「満月の夕」で、いろんな沖縄料理の店とかいくと皆さんこの曲を弾いて歌ってたんですよ。でも、ブームが過ぎるとだんだん聴かなくなるんですね。残ってる曲は残りますけど。それで、良い曲だったのになと思いながら、カバーして歌ってみようかなっていうことでライブで歌ったら結構反響があったんですよ。そしたらその翌年が東日本大震災になっちゃって、僕軽いつもりで歌っていたのに、この曲をずっと歌わないといけないなって思って真剣に録音しようと思って、その後に録音しました。

田家:J-POPと島唄っていうのは、どういう距離感にあるって思ってらっしゃる。

よなは:昔は完全にジャンルが違うと思ってましたけど、今はもうJ-POPも島唄も一緒かなって思うようになりましたね。普通にギターであったりベースっていうのは手に入るようになってますし。演奏も知名さんであったりりんけんさんであったり、あの方たちがすごいご苦労をなさって、いろいろ島唄にコードを付ける、和音をつけるっていうのをやって。当時は民謡界の大御所たちからやっぱりお叱りというかあったと思うんですよ。いろんな所に言われながらもずっとやってこられたと思うんですね。その恩恵を僕らが今本当に受けてて、当たり前のようにギターであったりベースとかバンドをつけてってできる。それがもう今、新曲を作るってなると、僕はもちろん民謡系の新曲も作ったりはするんですけど、やっぱりポップス寄りの曲も作ったりするので、そういう意味では、もう今は島唄とJ-POPってのはあまり差はないんじゃないかなって思いますね。

田家:なるほどね。次の曲もですね思いがけない曲でありました。

北谷町の歌 / ホップトーンズ

田家:お聴きいただいているのは、今日の8曲目、ホップトーンズ「北谷町の歌」。

よなは:これは1980年4月1日に北谷村から北谷町に町政移行するんですね。そのときに作られた歌で、北谷町でしか聞けない歌なんですよね。

田家:これ流通してるんですか?

よなは:してないです。うちにもレコードがありまして、ちょうどね僕が小学校ぐらいの時に、午後3時になると公民館のスピーカーからラジオ体操が流れるんですね。ラジオ体操が流れた後に、この曲が流れるっていう。

田家:沖縄中央混声合唱団出身の4名のコーラスグループ、ダークダックスがそういう流れの。でもマルフクレコードからシングルになったっていうのは。

よなは:おそらくこれはお店で売ってるんではなくて、町民に配ってる感じだと思います。

田家:それは北谷っていう町がそういう意味では、ある意味意味を持ってる。

よなは:そのときの北谷っていうのは本当に海なので、海邦国体のときの1987年にいろいろ整備をするわけですね。国体会場を作ったり、それが今の海寄りの北谷というところで。僕らが住んでたところは北谷町の謝苅というところで、山の方なんですよね。本当に何もないところ。

田家:HYが初めてストリートライブをやったのが北谷で、僕見に行きましたけど、りんけんさんのお店、りんけんズキッチンが北谷のサンセットビーチにあって行きましたけど。

よなは:あの辺埋立地ですね。元々海でした。

田家:なるほどね。でもそういういろんな街にこういうストーリーは歌があるっていう感じなんでしょうね。

よなは:そうですね。特に今この美浜っていうりんけんさんのお店があるところで観覧車があった場所で、いろんな方が人たちがそこでストリートライブをやって本当に全国に行きましたしね。本当に北谷が出発点っていうアーティストさんも大勢いらっしゃいますしね。

田家:那覇じゃないんですね。

よなは:那覇ではないですね。やっぱり北谷ていうかコザというか。どっちかというと僕はコザで育ったようなものなので、音楽的に。もちろん那覇で育って那覇で活動している方々もたくさんいらっしゃいますけど、どっちかというと那覇派とコザ派に分かれるのかなって。

田家:BEGINは石垣島ですしね。

よなは:やっぱり北谷にも昔ながらの歌があったりもしますしね。あと、エイサーが盛んな地域で。沖縄市が盛んって言われてるんですけど、どっちかっていうと、北谷はライバルみたいな感じがありまして。北谷の方がすごいぞっていう何かあるんですよね。

田家:HYはうるまの方ですもんね。

よなは:本当に東海岸の方ですからね。

田家:そういう意味で沖縄はやっぱり町と人々の暮らしと歴史と歌が全部一緒になってるっていう面白さがありますね。今流れてるのは、先ほど聞いた「北風(NISHIKAZI)」。よなはさんのアルバムの中の曲ですけども、この『Roots~琉楽継承』シリーズは今後どうなっていくんでしょう。

よなは:今後も40代50代60代って歳を重ねることによって、自分の今の声を演奏、残したいっていうのがありますので、この『Roots~琉楽継承』の活動はずっと続けていくつもりですね。一方で、自分の創作活動といいますか音楽活動。今元THE BOOMの小林孝至さんとユニットを今年作りまして、そっちの方の作品も今後発表していこうかなと思っております。

よなは:宮沢さんだけではなくて、小林孝至さんもちゃんとそういう音楽で沖縄に関わっている。今年の夏の予定は。

よなは:7月12日にアルバムを出す予定です。

田家:小林さんのバンドで。今日は本当に駆け足で入口だけちょっと見せていただいたんですけど、島唄を沖縄の音楽で知ってほしいことってありますか。

よなは:沖縄の音楽、古い音楽ってのがいっぱいあるんですね。ただ、なかなか聞く機会というか流れてるのを聞く機会ってのがないので、ぜひディープな沖縄の曲に興味を持っていただけたらなと思って、その入口、きっかけに僕なれたらなとは思っておりますね。

田家:最後に、よなはさんのレジェンドカフェ、喫茶店がもしおありになったら。

よなは:それこそ沖縄市に「原点」という喫茶店があるんですよ。本当にメニューもコーヒーしかないんですよ。もう何もない。コーヒーだけなんですよね。キャンパスレコードの近くですけれども。今もやっていればいいんですけども、コロナ禍でどうなったかわからなくてですね。

田家:この夏、沖縄に行かれる方、沖縄市コザに行ってですね、喫茶店「原点」を探してみてください。ありがとうございました。

よなは:にふぇーでーびたん。

流れてるのは、この番組のテーマ竹内まりやさんの「静かな伝説」です。

今更言うほどのことでもないのかもしれないんですが、音楽というのはその国の文化ですね。歴史とか生活の中から生まれてきますね。そうじゃなくなったのが、レコードとかジュークボックスっていう一つのパッケージとかメディアが登場してからなんでしょうね。それ自体が商品になっていくことで、音楽の持ってた伝承性みたいなものが消滅していった。だから産業化されて、人々のところに広く親しまれるものになってるんでしょうけど、やっぱそういう時代をずっと経てきますね。その中で失われたものとか、新たに加わったものが次の時代の音楽を作っていく、そういう歴史があるわけですね。

それが一番残ってるのが沖縄なのではないかと改めて思ったりしました。米軍が戦争で入ってくることによって、エレキギターとかエレキベースとかドラムが沖縄に持ち込まれて、それが三線と結びついて、今の沖縄のポップスが生まれたりしてる。それは歴史そのものですからね。その前450年の琉球王朝というのもあった。森山良子さんが沖縄のことを聞かれると、必ず沖縄にはどこに行っても音楽があるからねって。その辺に暮らしてる人がみんな島唄を歌えるし、誰でも三線を弾けるのよって。あんなに音楽的な島はないのよって言われるのはそういうことでしょうね。

さっき話に出てきた沖縄の民謡の重鎮、琉球ポップスの祖と言われてる方が、米軍の捕虜だった時代がある。BEGINの「うたの日」は戦争中、歌が禁止されて踊りも駄目だって言われた中で、沖縄の人たちは歌を捨てないで、音楽に励まされて生きてきた。だから「うたの日」というのは音楽に感謝する日なんだという話をしてましたが、もう本当に沖縄の歴史そのものですね。

琉球古典音楽師範・よなは徹と学ぶ、島唄と沖縄の音楽の歴史


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
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